第15話 坂本屋の危機
天正五年、長月。
新吉が足利へ発って十日が経った頃、それは起きた。
朝、坂本屋の前に、見慣れない男が三人立っていた。揃いの着物ではないが、その目つきには、弥作たちを山で脅した荒くれ者と同じ、雇われた者の冷たさがあった。
「坂本屋の主人に話がある」
清兵衛が出ると、男は言った。
「近江屋の取引先として、改めて条件を確認したい。仕入れだけでなく、売り先も、今後はこちらで決める。坂本屋は、薬を仕立てるだけでいい」
「それは、聞いていない条件だ」
清兵衛の顔が、静かに固まった。同じ日の昼過ぎには、日光山の寺社と縁のある古い薬種商の使いも顔を出し、「坂本屋は、いつから外の者の言いなりになったのか」と皮肉げに言い残して去っていった。内も外も、坂本屋を放っておいてはくれなかった。
土間での話し合いは、一刻以上続いた。宗吉は青ざめた顔で、男たちと清兵衛の間に立ち続けた。伊助は薬棚の陰で、その様子を見ていた。
(宗吉さんが結んだ取引の中に、こんな条件が隠れていたのか。それとも、後から書き換えられたのか)
どちらにせよ、坂本屋はもはや、自分の店ではなくなりつつある。
交渉が行き詰まった頃、男の一人が立ち上がり、薬棚に向かって歩き出した。
「在庫の確認をさせてもらう」
「待て」
清兵衛が立ちはだかった。
「ここはまだ、坂本屋だ。許可なく棚には触れさせない」
男は清兵衛を見下ろした。
「邪魔をするなら——」
その時、土間の戸がガラリと開いた。
「すみません、薬を分けてもらいに来たんですが……」
門前の老婆だった。腹を押さえ、顔色が悪い。男たちが振り返った。その隙に、伊助は素早く薬棚から生姜の束を取り出し、老婆の前にしゃがみ込んだ。
「どこが痛いですか」
「腹が……朝から……」
「これを煎じて飲んでください。熱があるなら、葛根も一緒に。お春ねえさん!」
「分かった!」
お春が動く。お常が水を持ってくる。土間の空気が、一瞬だけ変わった。男たちは、その様子を見ていた。
(坂本屋は、今もここで人を治している)
その事実が、場の空気を微妙に動かした。男たちは顔を見合わせ、やがて一人が言った。
「……今日のところは引く。だが、返事は三日以内に」
男たちが出ていった後、土間に静寂が落ちた。宗吉が、ゆっくりと清兵衛の前に頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした」
「顔を上げろ、宗吉。お前は、この店を守ろうとした。それは分かってる。だが、守り方を間違えた。それだけだ」
竹松は、土間の隅で、その様子を見ていた。そして、ふと伊助を見た。伊助は薬棚の前で、老婆に薬の飲み方を説明している。その顔は、子供のそれではなかった。落ち着いた、どこか遠くを見ているような目だった。
男たちが去った後、竹松は伊助の袖を引いた。
「……伊助」
「なんじゃ、竹松」
「さっき、あの人たちが来た時、お前、全然怖がってなかったな。震えもしなかった」
「……そうか」
「それに、老婆さんへの薬の指示、なんであんなに早く分かるんだよ。俺、二年一緒にいるけど、お前がそんな顔するの、初めて見た」
伊助は、しばらく答えなかった。竹松の目には、疑いというよりも、寂しさに近い色が浮かんでいた。
「……竹松。お前は、儂の兄貴分じゃ。それは変わらん」
「そんなこと聞いてねえよ。お前が何者だよって、聞いてるんだよ」
「……今は、答えられん」
竹松は、それ以上何も言わなかった。ただ、拳を握って、土間の外へ出ていった。伊助はその背中を見送りながら、胸の奥が重くなるのを感じた。
(竹松、すまん。まだ、言えん)
———
その二日後、帳簿を睨み続けていた清兵衛が、お妙を奥の間に呼んだ。
「お妙、すまんが……当分の間、給金を払う余裕がない。しばらく、暇を出すことになる」
「……旦那様」
「お前を家族のように思っている。だから、こんなことを言うのは辛い。だが、店に残る者の口を減らさねば、この先を越せん」
お妙は深く頭を下げ、それ以上は何も言わなかった。翌朝、荷物をまとめて坂本屋を出ていく彼女の背中を、伊助は薬棚の陰から見送った。
(儂の目の前で、また一人、坂本屋から人が減った)
物心ついてからずっと、薬包みの折り方を教えてくれた女中だった。伊助にとっても、決して他人ではなかった。
———
その夜、裏の納屋から火の手が上がった。
「火事だ!」
最初に気づいたのはお常だった。叫び声に、坂本屋中が飛び起きた。竹松が真っ先に水桶を担いで駆け出し、伊助も寝床を蹴飛ばして駆けつけた。
だが、今度は薪の一角どころではなかった。火は納屋の壁を這い上り、隣り合う物置——一冬分近くの乾燥薬草を蓄えていた部屋にまで、瞬く間に燃え広がっていた。
「薬が……!」
宗吉が悲鳴のような声を上げ、燃え盛る戸口に飛び込もうとするのを、清兵衛が羽交い締めにして止めた。
「よせ! 命の方が大事だ!」
近隣の者たちも駆けつけ、必死の消火の末、火はどうにか納屋と物置だけで食い止められた。だが、蓄えていた乾燥薬草と薪の大半は、灰になっていた。焼け跡には、はっきりと油の匂いが残っていた。
「……勝手に燃えた火じゃねえな」
弥作が、焼け落ちた梁を見つめながら、低く呟いた。
伊助は焼け跡を見つめながら、内心で歯噛みした。
(脅しじゃ。三日待つまでもない、と分からせるための)
清兵衛は何も言わず、ただ焼け跡をしばらく見つめていた。宗吉の顔からは、完全に血の気が引いていた。
伊助は、燻る煙の匂いの中で、拳を握りしめた。
(お妙が出され、蓄えの薬草まで灰になった。このまま儂がここにいれば、坂本屋はもっと失うことになる)
その考えは、まだ誰にも言えなかった。だが、伊助の中で、静かに、しかし確かに固まりつつあった。




