第8話 二人の秘密
天正五年、如月。
雪解けの気配はまだ遠く、坂本屋の薬棚は師走の大雪の傷を、いまだ引きずっていた。葛根の壺は補充してもすぐに底が見え、宗吉の眉間の皺は正月が明けてからも消える様子がない。
「伊助、裏の沢向こうまでなら、まだ足を延ばせるか」
「うん、少しなら」
宗吉に頼まれ、伊助は小さな背負い籠を担いで裏山へ入った。日課のようになっていた雪かきよりは、よほど気が楽な仕事だった。
雪の締まった斜面を選んで進んでいくと、いつもの木立の辺りで、暇そうに突っ立っている影が見えた。
「おーい、伊助」
「悠真、またぶらぶらしておるのか」
「お前と同じだよ。することがねえんだ」
軽口を叩きながら、二人は自然と並んで歩き出した。悠真の踏み固めた足跡が、伊助にとってはちょうどいい踏み台になる。
「今日はどこまで行くんだよ」
「この先の沢向こう。雪の下でも、款冬くらいはまだ掘れるはずじゃ」
「はず、って自分で言ってて自信ねえのか」
「掘れる。少なくとも、掘れるんじゃないかなって思っておる」
「今『おる』って言ったろ」
「言っておらん」
「もう何回目だよ、それ」
「言っとらん」
くだらない言い合いをしながら沢向こうの斜面に差しかかった、その時だった。
頭上の木々が、ぐわりと鈍い音を立てて揺れた。
「……今の、何だ」
「嫌な音じゃの」
答えを聞くより先に、斜面の上から白い塊が一気に崩れ落ちてきた。雪と一緒に凍った枝や小石が交じり、まともに浴びれば命に関わる勢いだ。
「動くな——伊助!」
悠真が叫ぶと同時に、伊助の体は小脇に抱え上げられていた。踏ん張る間もなく、悠真は雪崩の流れを横に切るように走り出す。
真正面から逃げれば飲まれる。横へ、それも一気に。頭で考えるより先に、体がそう判断しているような動きだった。
「うっ……ぐ……!」
小脇に抱えられたまま、伊助は歯を食いしばって振動に耐えた。数瞬の後、雪の流れは二人のすぐ後ろを通り過ぎ、それまであった細い山道を根こそぎ削り取っていった。
「……とんでもない目にあったな」
「お前のおかげで、五臓六腑が全部飛び出しそうになったわい」
「贅沢言うな、生きてるだろ」
振り返れば、来た道はもう白い急斜面になっている。戻るのも下るのも無理な有様だ。
「あそこ、何かないか」
悠真が指した先、斜面の窪みに、古い炭焼き小屋らしき影がひとつ、雪に埋もれかけて建っていた。
———
小屋の戸を押し開けると、埃と煤の匂いが鼻をついた。それでも、吹きさらしの外よりは何倍もましだ。
悠真は慣れた手つきで残っていた薪をかき集め、あっという間に火を起こす。伊助は籠から出した粗塩と干し芋を並べながら、かじかんだ両手を火からわざと少し離した位置にかざした。
「おい、そんなとこじゃ温まらねえだろ」
「馬鹿を言え。急に炙れば霜焼けが痛むだけじゃ。まずは雪でこすって、それから少しずつ温めるんじゃ」
「……そういうの、どこで覚えたんだよ」
火の粉がぱちりと爆ぜ、束の間の沈黙が落ちた。
「お前、ただの薬草採りの小僧じゃないよな」
悠真が、思いのほか率直に切り込んできた。
「な、なんじゃ、急に」
「熊を蹴り殺すのを見ても平気な顔してたし、弥作さんの足を治す時も、水路の一件も、指示だけは妙に的確だった。今もそうだ。十歳の小僧が、霜焼けの手当てまで即座に言えるか、普通」
「お前だって、ただの武芸者ではなかろう」
伊助は火から視線を外さず、逆に問い返した。
「熊を蹴りで倒し、雪崩から儂を抱えて走り、なのに息一つ乱れておらん。その鎧も剣も、この国のどこにもない代物じゃ。お前、本当に十六か」
「……それ、俺が聞きたかった台詞だぞ」
悠真は苦笑いして、干し芋をひとかじりした。
「先に言ったのはお前だ。お前から答えろよ」
伊助はしばらく黙り、それから小さく息を吐いた。
「……昔、薬のことを教えてくれた人がおってな。それだけじゃ」
「教えてくれた人、って誰だよ」
「言えん。だが、噓ではない」
それ以上は語らなかった。誰に、どこで、どれほどの年月をかけて。すべてを話せば、この山小屋がひどく狭くなる気がした。
「……そうか」
悠真は、それだけ返した。追及するでも、笑うでもなく、あっさりとした相槌だった。
「お前の番じゃぞ」
「俺は……遠い所から来た。それだけだ」
「遠い所、とは」
「ここじゃない、どこかだ。それ以上は、うまく言えねえ」
伊助は、じっと悠真の横顔を見た。噓をついている響きはない。だが、すべてを話しているわけでもない。それだけは分かった。
「……儂と同じじゃな」
「同じって?」
「言えることだけ言うて、言えんことは黙る。お互い、そういう決め事らしい」
悠真は肩をすくめ、それから小さく笑った。
「まあ、いいさ。無理に聞いても、俺には確かめる術がねえし」
「儂もじゃ。聞いたところで、信じられるかどうか分からん」
火の明かりが、二人の顔を赤く照らしていた。互いに、相手が何かとんでもないものを抱えていると分かっている。だが、その箱を無理に開けようとは、どちらも思わなかった。
「なあ伊助」
「なんじゃ」
「俺たち、似てるところあるよな」
「似ておらん。お前は脳筋じゃ」
「それ、さっきも思ったけど、俺のどこが脳筋だよ」
「力で押し通す性分のことじゃ」
「今日、お前を助けたのも力だけどな」
「……それは、感謝しておる」
素直な一言に、悠真は驚いたように瞬きした。
「珍しいな、素直に言うの」
「一度しか言わんぞ」
———
風が収まったのは、日が傾き始めた頃だった。
小屋を出ると、雪を踏み固めた足跡がひとつ、斜面の上から下りてくるのが見えた。
「……お二人とも、無事でしたか」
泰信だった。異変を察した綾女が知らせ、様子を見に来たという。
「悪い、ちょっと雪崩に巻き込まれてな」
「ちょっと、で済む話ではないと思いますが」
呆れ顔の泰信を先頭に、三人は雪道を戻り始めた。
伊助は、悠真と並んで歩きながら、胸の内でひとつだけ確かめた。
(互いに、秘密を持っておる。それを、今日、初めて認め合った)
聞かない。話さない。無理に踏み込まない。
それだけの約束が、こんなに軽い足取りをくれるとは、思ってもいなかった。
雪はまだ深いが、日はわずかに長くなっていた。春は、まだ遠い。だが、確かに近づいてはいた。




