第7話 悠真の冬
天正五年、睦月。
日光山の奥、神域はしんと白く沈んでいた。門前町のほうではまだ正月の名残でいくらか賑わっているらしいが、ここまではその声も届かない。
悠真は小屋の縁側に座り込み、湯気の立つ粟の粥を持ったまま、ぼんやりと山を眺めていた。
「……はぁ」
出てくるのはため息ばかりだ。
粥は美味い。寝床も暖かい。宗厳たちは何も強制してこない。文句のつけようがないほど、快適な暮らしだった。
だが、快適すぎた。
(俺の人生、思えばずっと何かに追われてたんだよな……)
令和の会社員時代は、終わらない残業と理不尽な上司に追われていた。異世界に飛ばされてからの三年は、魔王討伐という重すぎる宿題に追われていた。どちらも辛かったが、少なくとも「今日やること」があった。
それが今は、何もない。
朝起きて、飯を食い、暇を持て余し、また飯を食って寝る。神が言った「気ままに生きよ」という言葉を、宗厳たちは律儀に守り、悠真に何ひとつ命じてこない。
(指示書のない仕事が、一番きついって、誰か言ってたな……いや、今、俺が言った)
粥をかき込みながら、悠真はもう何度目か分からないため息をついた。
ふと目に留まったのは、縁側の隅に置かれた小さな皿だった。木の実が、少しばかり盛られている。
三日ほど前から、朝になるとそこに何かしらの木の実や干し野菜が置かれるようになっていた。宗厳に聞けば「知らん」、泰信に聞いても「俺じゃない」と返ってくる。この神域にいる人間は数えるほどしかいない。二人とも違うというなら、消去法でいけば答えは一つしか残らなかった。
(……綾女が置いてくれたのか)
わざわざ問い詰めて藪蛇になるのも億劫で、悠真は黙ってありがたく頂戴することにしていた。
———
その日の昼過ぎ、社の前で綾女がふと足を止め、眉根を寄せた。
「……風が、変わりました」
そう言いながら、綾女の視線がほんの一瞬、悠真の小屋のほうへ向いた。すぐに逸れる。逸れるのが、少し早すぎた。
宗厳が縁側から顔を上げる。
「どうした」
「北の谷のほうから、嫌な気配がします。獣とも、人とも言えない……とにかく、いつもと違う」
泰信が弓を手に取り、すぐに山へ入った。三十分ほどで戻ってきた時には、頬に泥がつき、着物の裾が茨に引っ掛かったのか、裂けた跡が残っていた。
「大丈夫か、泰信」
「かすり傷です。ですが……」
泰信は苦い顔で言葉を続けた。
「谷の入り口に、罠がいくつも仕掛けられていました。この時期には出回らぬはずの上物の黄連や、神域の際にしか生えぬ根を狙っている者の仕業でしょう。門前町で薬が底をついているという話は小耳に挟んでおりましたが……まさかここまで手を伸ばすとは」
宗厳が眉を曇らせる。神域の境を越えて薬草を狙う者がいるとなれば、放っておくわけにはいかない。
「私がもう一度出よう」
「いえ、宗厳様のお身体では……」
泰信はそこで言葉を切り、ちらりと悠真のほうを見た。
言おうか、言うまいか。迷っているのが、傍から見ていてもよく分かった。
悠真は縁側に腰掛けたまま、その視線を黙って受けた。
「……悠真」
「なんだよ」
「頼み、というわけではない。だが……」
泰信は一度、宗厳のほうを見た。宗厳は何も言わない。止めもせず、促しもせず、ただ静かに二人を見ているだけだ。
「もし、お前が来てくれれば、正直助かる。それだけだ」
命令ではない。頼みでもない。ただの本音だった。
悠真はしばらく黙って、自分の掌を見下ろした。三年間、剣を握り続けた名残が、まだそこに残っている。
(誰も、俺に「行け」って言わねえんだな)
上司なら怒鳴っただろう。王女なら涙目で縋っただろう。だが、ここには誰もいない。行かなくても、誰も悠真を責めない。
(……気ままに生きよ、だったか)
神の言葉を、今さらこんな場面で思い出す。
(だったら、気まぐれで動くのも、俺の権利ってわけだよな)
悠真は立ち上がり、壁に立てかけてあった剣を無造作に担いだ。
「行くわ。ヒマだったし」
「……いいのか。宗厳様は何も——」
「宗厳さんが何か言ったか? 言ってねえだろ」
悠真は肩をすくめた。
「だったら、俺が勝手に決めていいってことだ。文句あるか、宗厳さん」
宗厳は目を丸くし、それからゆっくりと口元を緩ませた。
「……ない。好きにされよ」
悠真が踏み出そうとした時、綾女が短く声をかけた。
「悠真殿」
「ん?」
「……足元に、気をつけてください。北の斜面は、見た目より氷が張っています」
それだけ言うと、綾女はさっと身を引いて、社の奥へ戻っていった。
悠真はひらひらと手を振り、雪の積もる山道へ大股で踏み出す。その背中は、もう泰信の呟きを聞いていなかった。
「……あの方が、人にそこまで道中を案じる言葉をかけるのは、珍しいのですが」
泰信が小さく漏らしたその一言は、誰の耳にも届かず、雪の上にそっと落ちて消えた。
———
谷の入り口には、確かに人の足跡が残っていた。二人分、それなりに慣れた足取りだが、殺気立った様子はない。
「猪撃ちの手つきじゃねえな。薬草採りだ、これ」
悠真が足跡を目で追いながら言うと、泰信が短く頷いた。
「おそらく門前町の者でしょう。薬が足りず、切羽詰まったのかと」
岩場の陰に、震えながら屈み込む男が二人。背負い籠には、まだ半分ほどしか根が入っていない。悠真たちの気配に気づいた瞬間、二人は飛び上がりそうな勢いで固まった。
「よう」
悠真がひょいと岩の上から声をかけると、男たちの顔から一気に血の気が引いた。
「ひっ……!」
「そんなに驚くことないだろ。別に食おうってわけじゃねえし」
「ゆ、悠真殿……」
泰信が呆れたように呟く横で、悠真は男たちの前にしゃがみ込んだ。
「ここ、神域の際なんだよ。勝手に採っちゃまずい場所だって、知ってた?」
「し、知りませんで……いえ、噂には……」
「まあ、事情は分かるよ。町で薬が足りないんだろ?」
男たちは顔を見合わせ、ぼそぼそと事情を話し始めた。冬の大雪で薬草の入荷が止まり、腹を壊した年寄りや子供が増える一方で、坂本屋も他の店も、思うように薬を渡せていないこと。少しでも金になればと、「神域の際にいい根が生える」という噂を頼りに、つい山へ入ってしまったこと。
悠真は腕を組み、しばらく黙って聞いていた。
「……分かった。今日採ったもんは置いてけ。それで見なかったことにする」
「え……」
「次はねえぞ。今度見かけたら、俺じゃなくて泰信さんが来る。こっちのほうが正直、口が達者じゃない分怖いと思うぞ」
「なっ……」
泰信が横で咳き込んだ。悠真は素知らぬ顔で続けた。
「あと、これは俺からの話だけど……坂本屋にちゃんと相談してみろよ。あそこ、案外融通利く見習いがいるらしいから」
男たちは何度も頭を下げながら、雪の斜面を転げるように下りていった。
「……見なかったことにする、とは。神域の決まりはどうなるのですか」
「決まりは決まりだろ。でも、腹を空かせた年寄りが薬欲しさに命懸けで雪山に入るのと、決まりを盾に叱りつけるのと、どっちが先か考えたら……まあ、こっちが先だろ」
悠真はそう言って、雪を蹴った。
「あと、次に同じことがあったら、ちゃんと泰信さんに突き出すから安心しろよ」
泰信はしばらく悠真の背中を見つめ、それから小さく息を吐いた。
「……お前、思っていたより、まともなことを言うんだな」
「思っていたより、ってなんだよ、それ」
———
神域へ戻る道すがら、二人の足音だけが雪に響いていた。
悠真は特に何を考えるでもなく、ただ黙って歩いていた。だが、胸の奥に、今までとは少し違う感触が残っている。
(……誰にも言われてねえのに、勝手に行って、勝手に決めて、勝手に帰ってきた)
上司の指示でもない。王女の頼みでもない。魔王討伐という大義でもない。
ただ、目の前で困っている誰かがいて、それを見過ごしたくないと思ったから、動いた。それだけのことだった。
「泰信さん」
「なんだ」
「今度、また面倒なことあったら、遠慮なく言えよ」
泰信は足を止めず、短く答えた。
「……ああ、そうする」
神域に戻ると、宗厳が縁側でぬるくなった茶を飲んでいた。悠真たちを見て、何も聞かずに、湯気の立つ椀をもう一つ差し出す。
「……なんも聞かないんですね」
「聞く必要があるか?」
宗厳は淡々と答え、悠真の隣にもうひとつ、椀を置いた。
「貴殿が、貴殿の意志で決めたことだ。私が口を挟む話ではない」
悠真は椀を受け取り、湯気の向こうに白い山を眺めた。
ふと、縁側の隅に、あの小皿が今日も置かれているのに気づいた。木の実に混じって、薄く切った干し柿が一枚、行儀よく並べられている。
社の奥から、かすかに衣擦れの音がする。
悠真はそちらを見なかった。今さら振り返って確かめるのも野暮な気がしたし、何より、干し柿は存外に甘くて悪くない味だった。
暇な冬だった。することもなく、指示もなく、ただ雪だけが積もっていく日々だった。
けれど今日だけは、少しだけ違う一日になった気がした。
自分で決めて、自分で動いた。それだけのことが、こんなに妙な手触りを残すとは、思っていなかった。




