第6話 雪に閉ざされた坂本
天正四年、師走。
日光の山は、数日のうちにすっかり白に埋もれてしまった。
最初のうちは、誰もが「今年もよう降るなあ」くらいに笑っていた。竹松は表の雪を丸めて伊助の背中に投げつけ、「へへっ、当たった!」と得意げに笑っていたし、お常も湯気の立つ味噌汁を振る舞いながら、いつもより機嫌がよかった。
だが三日、四日と降り続くうちに、笑い声はぴたりと止んだ。
坂本屋の裏口の戸は、外から積もった雪に押されて半分しか開かなくなっていた。伊助は木べらを手に、店の前の雪をかき出す仕事を仰せつかっていた。
「ふんぬっ……!」
力いっぱい押し出したつもりの雪は、ほんの少し動いただけだった。木べらの柄がぐらついた拍子に、伊助は自分でひっくり返った。
「あーあ、伊助また転んでる」
竹松が笑いながら通り過ぎ、代わりに軽々と雪をどけていく。二つ年上というだけで、この差だ。
(情けない……腰から押せば力が乗ると分かっておるのに、この身体では膂力が足りん)
伊助は雪まみれの尻を叩いて立ち上がりながら、内心で舌打ちした。
山道が完全に閉ざされたのは、その翌日のことだった。弥作は足の骨がまだ本調子ではなく、床に伏せったまま「くそっ、こんな時に動けねえとは」と唸っている。薬草採りに出られる者は、他にほとんどいない。
入荷が止まれば、薬箱の中身は減っていく一方だ。そこへ追い打ちをかけるように、寒さで体を壊す者が次々と坂本屋に担ぎ込まれてきた。
「お春ねえさん、また熱の子が……!」
お妙が抱えてきた赤子を見て、お春の顔が曇る。土間の隅には咳き込む年寄り、震えながら腹を押さえる女、鼻を真っ赤にした子供たちが並んでいた。
「宗吉さん、葛根、あとどれくらいある?」
宗吉が薬箱を覗き込み、渋い顔をした。
「……こいつぁ、まずいな。十人分もねえ」
清兵衛が腕を組んで黙り込む。土間の空気が、じわりと重くなった。
(来たか)
伊助は棚の陰から、患者たちの顔を一人ずつ見比べた。頭の中では、誰の症状がどれくらい進んでいるか、瞬時に見当がついている。
(あの年寄りは熱がこじれかけておる。先に葛根を渡さねば拙い。逆に、あの子供はまだ寝れば治る程度じゃ。薄めた煎じ薬で十分もつ)
だが、その判断を十歳の小僧がそのまま口にすれば、店の連中が首をかしげるのは目に見えている。伊助は頭をかきながら、わざとらしく間延びした声を出した。
「ねえ、宗吉さん。前に弥作さんが、山で薬が足りない時は、具合の軽い人には薄めて、重い人にだけ濃いのを飲ませたって言ってたよ」
「……弥作が?」
「うん。だから、咳がひどい人と熱が高い人を先にして、あとの人はちょっと薄くしてみたらどうかな」
宗吉はしばし考え込み、清兵衛に目をやった。清兵衛が小さく頷く。
「……それでいこう。伊助、印を変えて包んでくれ」
「うん!」
伊助は竹紙を手に取りながら、内心で小さく息をついた。
(これでしばらくは持つ。だが、根本的に足りん薬はどうにもならんぞ)
———
その翌朝、表の戸を叩く音が激しく響いた。
「た、たのもう! 亀吉が……亀吉が山から戻ってねえんです!」
駆け込んできたのは、亀吉の女房だった。血の気の失せた顔で、雪まみれの裾を握りしめている。
「亀吉さんが、山へ?」
伊助が問うと、女房は震える声で答えた。
「今朝方、まだ薄暗いうちに、裏の沢の方まで黄連を採りに行くって出て……もう日が高くなっても戻らねえんです」
裏の沢。この時期、雪が積もれば岩場の凹凸が完全に隠れてしまう、足場の悪い場所だ。
(まずい……あそこは雪の下に隠れた岩の隙間に、足を取られやすい)
伊助の背筋が、寒さとは別の理由で冷えた。
「宗吉さん、誰か探しに——」
「探しにって、こんな雪の中を誰が行けるんだよ」
宗吉が眉根を寄せる。無理もない。今日も雪はやんでおらず、大人でも一時間も歩けば足腰が参ってしまう深さだ。
その時、裏口の戸がガラリと開いた。
「おーい、誰かいるか。すごい雪だな、ここ」
悠真だった。厚手の外套を鎧の上に羽織り、頭に積もった雪を無造作に払っている。
「悠真、ちょうどいい……!」
伊助は駆け寄り、手短に事情を話した。裏の沢、亀吉という男、朝から戻らないこと。
「裏の沢か。……分かった、行ってくる」
悠真はあっさりと頷いた。
「僕も行く! 沢の岩場の形なら、僕の方が詳しい……!」
背負い籠に手をかけた伊助の頭を、悠真の大きな手がぐいと押さえた。
「やめとけ」
「なんでじゃ! 案内できるのは僕しか——」
「お前のその足で、沢まで辿り着く前にへばるだろ。俺が一人で走れば三十分で着く。お前を連れてったら、一時間以上はかかる。その間に亀吉さんが凍えたら、どうする」
容赦のない一言に、伊助は言葉を失った。頭では正しいと分かっている。だが、認めたくない。
「……道の形くらいは教えられる」
「よし、それは聞く。それだけでいい」
伊助は渋々、沢の岩の位置と、雪の下で滑りやすい場所を伝えた。話す間、悔しさで声が少し尖った。
「儂ならもっと早く——」
「今『儂』って言ったろ」
「言っとらん」
「言った。二回目だぞ、それ」
「うるさい、行け!」
悠真は笑いながら背を向け、雪の中へ大股で踏み出していった。あっという間に、その背中は白い景色に呑まれていく。
———
戸口に立ち尽くしたまま、伊助はしばらく動けなかった。
(知っておっても、行けぬ)
(知っておっても、抱えて戻れぬ)
(知っておっても、この足では、あの沢まで届かぬ)
頭の中には、百年分の知識がある。雪の中で人がどうやって弱り、命を落としていくかも、凍えきった体を温める正しい手順も、命を繋ぐための手当ても、すべて分かっている。それでも、今の伊助にできることは、店の土間に立って、誰かが戻るのを待つことだけだった。
「伊助」
お常の声に、伊助はハッと顔を上げた。
「手、真っ白よ。震えてる」
見ると、拳を握ったままの指先が、寒さとは違う理由で白くなっていた。
「……なんでもない」
誤魔化すように手を開き、伊助は薬棚に向き直った。葛根の壺を取り出す手が、いつもよりわずかに重い。
一時間ほどして、雪を蹴散らすような足音が戻ってきた。
「連れてきたぞ。足を挫いてただけだ、命には別に——」
悠真が担いでいたのは、震えながらも意識のはっきりした亀吉だった。土間に安堵の声が上がる。
「悠真兄ちゃん……ありがとう……!」
伊助が駆け寄ると、悠真は雪を払いながら鼻を鳴らした。
「岩の下に足が挟まってただけだ。お前の言った通り、岩の位置がぴったりだったよ」
「……当然じゃ」
強がってそう答えたものの、伊助の中では、さっきの悔しさがまだ小さく渦を巻いていた。
知識があっても、届かない場所がある。
伊助はそのことを、雪の匂いのする土間の中で、静かに、そして深く思い知らされていた。




