第5話 門前町の怪我人
天正四年、霜月に入ってすぐのこと。日光山の門前町には木枯らしが吹き荒れ、薪を焚く匂いが町中に漂うようになっていた。
坂本屋の土間では朝から当帰と陳皮の匂いが立ち込め、伊助は薬草棚の前にしゃがみ込んで桂皮の束を丁寧に選別していた。奥の間では先日足を折った弥作がまだ寝床で唸っており、その様子を見るたびに伊助は内心「もう少し辛抱せい」と呟いていた。
「伊助、桂皮が終わったら沢瀉の量り直しを頼むよ」
「はーい、お春ねえさん」
いつもと変わらぬ、のんびりした朝。だがその平穏は、昼前には崩れ去ることになる。
「た、たのもう! うちの客が、急に腹が痛いって……!」
最初に飛び込んできたのは門前の宿屋・松川屋の女中で、顔面蒼白、肩で息をしている。
「どんな具合ですか」
お春が素早く前掛けを外しながら問いかける。
「朝飯を食ってからすぐ、腹が痛いって言い出して、吐いて……熱はないんですけど、三人も同じ具合で!」
「三人……!?」
番頭の宗吉が帳簿を叩きつけるように置き、渋い顔で立ち上がる。
「疫病だったらどうする。うかつに近づくな」
伊助の手が、桂皮の束の上でぴたりと止まる。
(熱はない、と言ったな。同じ宿の三人が、朝飯の後から一斉に……)
景久としての知識が静かに回転を始める。疫病であれば発症の時刻に個人差が出るものだし、大抵は熱が伴う。だが「熱なし」「発症時刻が揃っている」「限られた場所に集中している」——この条件は、人から人へ伝わる病の特徴とは合わない。
(これは疫病ではない。何か——食い物か、水だ)
昼過ぎには食事処・山城屋の亭主も駆け込んできた。「客が五人、朝飯の後から腹をやられた」という。さらに参道でうずくまっていた商人風の男が竹松に担ぎ込まれ、坂本屋の土間はあっという間に野戦病棟のようになった。
「いつからですか」
お春が男の脈を取りながら問う。
「今朝、飯を食った後から……松川屋に泊まっておりまして……」
(松川屋と山城屋。場所は違うが、どちらも今朝の食事の後からだ)
伊助は薬草棚の陰から患者の様子を窺いながら確信を深めていった。松川屋も山城屋も、坂本屋の裏手を流れる用水路とは別の、町の北側から引かれた水路を使っている店だ。この時期、山の動物が多く動く。もし上流で何かが——。
(水路の上を調べねば、これ以上患者が増える。だが儂がそれを言い出せば、十歳のガキがなぜ水路の異変に気づくのかと疑われる)
伊助は唇を噛んだ。こういう時、頼れる男は一人しかいない。
「宗吉さん、僕、薬草採りの様子を見てくる!」
「おう、あんまり遠くへ行くなよ」
伊助は背負い籠を担ぎ、坂本屋を飛び出した。
———
山道を息を切らして登ると、いつもの木立の辺りで暇そうにぶらついていた悠真とすぐに出くわした。
「あ、伊助。今日はまた忙しなそうだな」
「悠真、頼みがある。町で腹痛と吐き気が続出している。松川屋と山城屋の患者に共通するのは今朝の食事だ。二軒は町の北から引いた水路を使っている……」
「水路が怪しいのか?」
「弥作さんが前に、あの水路は北の沢から引いていて、この時期は動物が多く通ると言っていた。上流に何か腐ったものが流れ込んでいないか、確かめてきてほしい」
悠真はいちいち細かいことを追及せず、あっさりと頷いた。
「わかった、任せとけ。ちょうど暇だったし」
悠真が山道を駆け上がっていく速さは猟師のそれを遥かに超えていた。伊助は店へ引き返した。
坂本屋の土間では患者がさらに増えていた。伊助は薬棚から生姜と半夏を取り出し、脱水の進んだ者には塩を溶かした白湯を勧める。景久の知識を「物覚えの良い小僧の見様見真似」という範囲にぎりぎり収めながら、できる限りの手を打っていく。
その時、店の表に見慣れない男が現れた。水利を営む商人・北沢屋である。着物は上等だが目つきに油断がない。男は宗吉を人払いするように隅へ呼び、声を潜めた。
「番頭さん、実はあの水路、うちが管理しているものでしてね。今回の騒ぎを『疫病』として届け出てしまえば話が早く収まりましょう」
「……何が言いたいんですか」
「松川屋と山城屋とは長年水路の使用権を巡って揉めておりましてね。この際、疫病ということにしてしまえば、両店とも当分は客を入れられますまい。営業停止にでも追い込めれば、水路の使用権もこちらの言い値で決まるというもの」
伊助の手が止まった。薬草棚の陰からその会話が丸々耳に入っていたのだ。
(なるほど。この男、疫病に見せかけて商売敵の評判を落とそうとしているのか。水路を巡る商人同士の確執が今回の騒ぎの裏にあったわけだ)
そこへ悠真が裏口から飛び込んできた。
「伊助! 見つけたぞ、水路の上流に大きなイノシシの死骸が沈んでた。かなり腐ってて、水に混ざってた」
「……その死骸、どこにあった」
「岩場の陰だ。取り除いて、水路の入り口に石を積んで塞いできた」
「岩の陰は流れが緩い場所だ。自然に流れてきたなら、もっと下流まで運ばれるはずだろう」
悠真は少し考え込み、眉をひそめた。
「……妙だな。誰かが押し込んだみたいに、都合よく岩陰に収まってた」
二人の視線が土間で宗吉と話し込む北沢屋へと向いた。
「証拠はない。だが動機はある」
伊助が低く呟く。
「よし、じゃあ大声で言ってやる」
悠真はにやりと笑うと土間へ大股で歩み出た。
「番頭さん! 水路の上流に腐ったイノシシの死骸が沈んでましたよ。取り除いて塞いできましたが、あれ、自然に流れてきたにしちゃ変な場所に押し込まれてましたね。まるで誰かが仕込んだみたいに」
土間が静まり返った。北沢屋の顔が見る間に青ざめ、それから赤くなる。
宗吉がゆっくりと北沢屋を振り返った。
「……先ほど、あなたは何と言いましたかな。水路に死骸が沈んでいたというのに、なぜそれが疫病になるんです」
北沢屋は口を開きかけたが、集まった患者や町の者たちの視線に晒され、言葉を失った。
「お引き取りください。この件は後日、改めて伺います」
宗吉の静かな一言で、北沢屋は肩を落として店を出ていった。
———
夕刻になると患者の症状は落ち着いてきた。水路が塞がれたことで新たな被害は止まり、生姜と半夏、塩湯の手当てで、腹痛に苦しんでいた者たちの顔にも赤みが戻り始めていた。
「さっきまでの地獄みたいな苦しみが、噓みたいだ」
「お腹はまだ痛いけど、さっきより全然楽だよ」
松川屋の女中が「皆さん、だいぶ楽になりました」と礼を言いに来た頃、空はすでに茜色に染まっていた。
———
坂本屋の裏手、木かげに夕暮れの風が吹き抜ける中、悠真は縁石にどさりと腰を下ろした。伊助も背負い籠を担いだまま、よたよたと隣に座り込む。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「……なぁ、伊助」
「なんじゃ」
「今日、俺、一回も殴ってねえな」
悠真は自分の両手を握ったり開いたりしながら、ぼんやりと呟いた。
「重いもん退けて、でかい声出しただけだ。それだけで、あんだけの人間が助かった」
伊助はちらりと横目で悠真を見た。
「殴らんでも人は救える。当たり前の話じゃろう」
「……そうかね」
「そうじゃ」
短く返す。伊助はもう少し続けようとして、やめた。悠真がそれに気付き、片眉を上げる。
「なんだよ、続きがあるなら言えよ」
「……面倒じゃ」
「面倒くさがるなよ」
「はいはい。あのな、力なんぞ、敵を殴るためだけにあるわけじゃなかろう。重い籠を運ぶ腕も、山を駆ける速さも、でかい声で本当のことを言う度胸も、みんな人を救う力になる」
「……お、じいさんくさいこと言うな、お前」
「儂は……いや、僕は十歳じゃ」
「今『儂』って言ったろ」
「言っとらん」
「言ったって」
「言っとらん言っとらん」
伊助はぷいと横を向いた。悠真はそれ以上追わず、肩を揺らして笑った。
「まあいいや。……でもさ、今日みたいなの、悪くなかったよ。前にいた場所じゃ、なんかこう、誰かに頼まれて動くばっかりでよ」
「前にいた場所、というのは」
「……秘密だ」
「そうか」
伊助はそれ以上聞かなかった。聞いたところで、まともに答える気がないのは分かっている。自分だって同じだ。
「お前もそうだろ、伊助。今日だって、水路のことも、腹の薬のことも、なんでそんなに分かってんだよ」
「近所のじいさんが詳しかったんじゃ」
「そのじいさん、便利だな。いつも都合よく物知りだ」
「うるさいわ」
二人は顔を見合わせ、ふっと笑った。互いに、聞かれたくないことがある。それを承知の上で、それ以上は踏み込まない。ただそれだけの間合いが、今の二人にはちょうどよかった。
「じゃあな、伊助。また暇になったら来るわ」
「ああ。気をつけて帰れよ」
悠真は立ち上がり、ひらひらと手を振りながら山道を戻っていった。
少し離れた店の入り口で、片付けをしていたお春がその様子をじっと見ていた。
(伊助はまた、水路のことも、薬のことも……何もかも、最初から分かっていたみたいだった)
お春は小さく息を吐き、薬箱の引き出しへ手を伸ばした。伊助の正体も、隠している理由も分からないままだ。だが、その胸の奥では、初めて芽生えた小さな疑念が、今日もまた静かに深く根を張っていくのだった。
夜警の拍子木が遠くでカン、カンと響く中、坂本屋の灯りは、いつもより少しだけ遅くまで灯っていた。




