第3話 山中の出会い
天正四年、十月下旬。
山々の葉が赤や黄色に染まり始め、吹き抜ける風の冷たさが一段と増してきた。
「やれやれ……子供の身体ってのは、本当に不便で叶わんな」
伊助は小柄な身体を揺らしながら、山道をハァハァと息を吐いて登っていた。背中には、十歳のガキには少し重すぎる薬草採り用の竹籠を背負っている。
今日の目的地は、いつもの弥作と行くような整備された道ではない。坂本屋の裏手に広がる、少し足場の悪い傾斜地だ。
この時期にしか採れない貴重な薬草を狙って一人で出てきたわけだが、いかんせん体力が付いてこない。脳みそは「あと百歩など余裕じゃ」と叫んでいるのに、腿の筋肉が「もう無理です」と悲鳴を上げている。
(クソッ、昔ならこれくらいの山道、風のごとく駆け上がっていたというのに……! この軟弱な足め)
心の中で己の幼い身体に愚痴を吐きながら、伊助は岩場に手をついた。
同じ頃、その少し上の山道では、神代悠真が当てもなくブラブラと歩いていた。
神域での暮らしはすこぶる快適だ。宗厳たちは親切だし、ご飯も美味い。だが、決定的に『やること』がない。
指示書もタスクも締め切りもない生活というのは、社畜と勇者を足して二で割ったような人生を送ってきた悠真にとって、ほとんど拷問に近いものがあった。
(……ヒマだ。ヒマすぎる。せめてスマホがあればゲームでもして時間を潰せるんだが、ここ戦国時代だしなぁ)
魔物素材の頑丈な鎧をカチャカチャと鳴らし、腰の長剣の感触を確かめながら、悠真は深いため息をついた。
その時だ。
サクッ、と落ち葉を踏みしめる小さな音が、少し下の草むらから聞こえた。
(ん……? 誰かいるのか?)
三年の死闘で磨き上げられた悠真のセンサーが、鋭く反応する。
同時に、下の草むらで薬草を探していた伊助の肌にも、ビリビリとした肌を刺すような緊張感が走った。
(……ぬっ!? この気配はなんだ……?)
伊助はピタリと動きを止めた。
ただの猟師や山伏の気配ではない。殺気とまでは言わないが、幾重もの修羅場をくぐり抜けてきた者にしか纏えない、密度の高い『武威』が上から降ってくる。
伊助がゆっくりと顔を上げ、悠真が岩場の上から覗き込む。
二人の視線が、空気中でバチッと交錯した。
「「…………」」
沈黙が山中に広がった。
悠真が目にしたのは、大きな背負い籠を担いだ十歳ほどの少年だった。すり減った草鞋に、土で汚れた着物。どこからどう見ても地元の薬草採りの小僧だ。
(なんだ、子供か……? いや、待てよ)
悠真は眉をひそめた。
普通の十歳なら、こんな怪しい重装備の奴と目が合ったら悲鳴を上げて逃げ出すか、腰を抜かすはずだ。なのにこのガキ、微動だにしない。それどころか、まるで熟練の戦士が敵の隙を探るような、ぞっとするほど冷酷で澄んだ目でこちらを観察している。
一方、伊助の頭の中はパニックと警戒で大忙しだった。
(な、なんじゃこの珍妙な格好の若者は……!?)
歳の頃は十六、七。黒髪黒目で顔立ちは和風だが、着ているものが意味不明だ。見たこともない獣の皮と硬い甲殻を組み合わたような奇妙な鎧。腰に下げた剣も、この国の刀とはまるで形状が違う。
何よりおかしいのは、その佇まいだ。立ち姿に一切の隙がない。
(十六そこらの青造りが持つ気配じゃねえぞ……。百戦錬磨の武芸者か、あるいは死線をくぐり抜けすぎた狂人か。この世の者には見えん……!)
二人は互いに間合いを保ったまま、じりじりと視線を交わし続けた。
「お前……」
「お前……」
声が重なった。
「お前は何者だ。この世の者か?」
伊助が、到底十歳の子供とは思えない重厚で低いトーンで問いかけた。喉の幼い声帯が邪魔をして高音になりかけたのを、意地で押し殺す。
悠真は面食らったように目を丸くした。
「ハァ!? なんだその生意気な口聞き方は! ってか、お前こそ子供に見えないぞ! なんだその目は!」
「ぬぐっ……! か、勝手なことを抜かすな! 儂は……いや、僕はただの薬草採りの伊助だ!」
あぶないあぶない、つい「儂」と言いかけるところだった。伊助は慌てて語尾を修整し、語気を強めた。
「とにかく、そんな不気味な鎧を着て山を徘徊するなど、怪しすぎるぞ! どこから来たんだ!」
「どこって……神域の宗厳さんたちのところだよ。俺はただ、暇で散歩してただけで……」
その時だった。
グオオオオオオオン……!
山奥の木々が激しく揺れ、地響きのような唸り声が響き渡った。
「!?」
斜面の上から、体長二メートルを超えそうな巨大なツキノワグマが、猛烈な勢いで草むらを押し分けて飛び出してきた。目を血走らせ、口から泡を吹いている。人を襲い慣れている凶暴な個体だ。
クマの視線が、斜面の下にいる伊助に固定される。
(チッ……! 運の悪い、こんな時に冬眠前の大グマだと!?)
伊助は即座に腰の採集用小刀に手を伸ばした。
だが、今の身体は十歳だ。どれだけ急所を知っていようと、この身体のリーチと腕力ではクマの皮一枚すら満足に割けない。
(まずい……! 正体を隠して死ぬか、秘薬のチート知識を暴走させて暴れるか二つに一つ——)
伊助が覚悟を決めて足を踏み出そうとした、その一瞬前。
視界の端を、黒い影が風のような速度で駆け抜けた。
「シッ……!」
悠真だった。
跳躍一閃。
悠真は異世界で鍛え上げた規格外の脚力で垂直に飛び上がると、空中で凄まじい旋風脚を繰り出した。
ドゴォォォン!!
人間の蹴りとは思えない鈍い衝撃音が山に響き渡る。
大グマの巨体が、まるで大型トラックに跳ね飛ばされたかのように横合いの巨木へ激突し、木々をなぎ倒して転がった。
クマは「グオ……っ」と一言漏らし、白目を剥いてそのまま動かなくなった。一撃絶命である。
「………………」
伊助は唖然として口を開けたまま固まった。
(は……? いま、何が起きた……? 蹴り一発で大グマを撃殺しただと……!?)
刀すら抜いていない。純粋な身体能力と衝撃波のような蹴りだけで、山の主級の化け物を屠ってみせたのだ。
(武芸の達人どころの騒ぎじゃねえぞ! あいつ、本当に人間か!?)
悠真は着地すると、ふうと軽く息を吐き、足元の汚れを払った。
「ふう……驚かせるなよ。怪我はないか、ガキ……じゃなくて、伊助?」
「あ、ああ……怪我はないが……」
伊助は引きつった笑みを浮かべるのが精一杯だった。
その時、悠真の足元に、クマが倒れた拍子に散らばった薬草の袋が目に入った。破れた袋から、紫色の根っこが覗いている。
「ん? これ、なんだ? 根っこか?」
「あ……それは紫根だ。やけどや傷の塗薬に使う貴重な薬草で……」
伊助はハッとして言葉を丸め込もうとしたが、遅かった。
「紫根か。だが、それは生でそのまま傷口に塗っちゃダメなやつだぞ」
「……は?」
伊助が思わず素の声を漏らす。悠真はクマをチラ見しながら、適当そうに言った。
「いや、この根っこ、表面に微量の毒素があるだろ。一度酒で洗って周りの皮を薄く剥がしてから、胡麻油で煮出さないと有効成分が抽出できない。そのまま使うと余計に化膿する」
(なっ…………!?)
伊助の脳内に雷が落ちた。
紫根の正しい精製法と、毒素を抑えるための油抽出法。それはかつて深山景久が数十年の研究の末に編み出した、最先端の調合技術の一端だ。この時代の一般的な薬師すら「紫根はただ擦り潰して塗るもの」と思い込んでいるというのに!
(なぜ……なぜこの戦バカのような男が、儂の極秘処方を知っている!?)
伊助は目を見開き、悠真を凝視した。
悠真はといえば、「異世界でポーション作らされた時に散々読まされた薬草図鑑の知識」をなんとなく口にしただけなのだが、伊助にしてみれば天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
(この男……ただの脳筋ではない。薬学の奥義にまで手を伸ばしておる……! 一体何者なんだ……!?)
二人は再び、無言で見つめ合った。
一人は、人間離れした武力を一瞬だけ見せた元勇者。
一人は、十歳のフリをしつつ薬学の知識を漏らしかけた元天才薬師。
お互いに「こいつ、絶対にただ者じゃない」と確信していた。
しかし、同時に悟ってもいた。
(……問い詰めたところで、儂も自分の正体を明かせるわけがないからな)
(……まぁ、深掘りしてもろくなことにならんしな。俺も『異世界から来ました』なんて言えねぇし)
二人は同時に「ふーっ」と深いため息をついた。
「……まぁ、助けてくれたことには感謝するぞ、悠真とやら」
「おう。お前も気をつけて帰れよ、伊助」
互いに自分のスペックの半分も出していない。
腹の中には山ほどの秘密と疑惑を抱えたままだ。
だが、山を下りる二人の背中には、先ほどまでの刺々しい警戒感はなくなっていた。
完全な友人でもない。正体も明かさない。
けれど、「次にまたこの山で出会っても悪くはない相手」という妙な信頼の芽が、冷たい秋風の中に静かに芽生えていた。




