第2話 光から現れた少年
天正四年十月中旬。
日光山の寺社が立ち並ぶエリアを抜け、さらに奥深くへ進んだ神域。普段は木こりや修験者すら寄りつかないその場所に、山気を含んだ冷ややかな風が吹き抜けていた。
「……来るぞ」
五十代の神主・高原宗厳が、重々しく呟いた。
その一言で、三十代の葛城泰信は即座に腰の柄へ手を伸ばし、身構える。さらに一歩引いた綾女は、かっと目を見開いていた。彼女の肌は、山中の異変どころではない、異質な何かが近づく気配を捉えて震えていた。
『ある者が現れる。その者を支えよ。困った時は、その者に助けを求めよ』
数日前、宗厳が授かった御神意である。三人はてっきり、どこかの山伏か、あるいは命からがら山を越えてきた怪しい旅人でも訪ねてくるのだろうと高をくくっていた。
だが、そんな甘い予想は一瞬で吹き飛ぶ。
神域の中央、何もない空間そのものが、突如として真っ白に発光し始めた。
空から雷でも落ちたわけではない。地面から光が湧き出たわけでもない。空間そのものが裂け、そこから溢れ出した高密度の白光が、周囲の巨木の影すら一瞬で掻き消していく。
(な、なんだこの超常現象は……!?)
泰信は柄を握りしめたまま硬直した。あまりの威容に、刀を抜くことすら忘れている。綾女は呼吸すら忘れたように胸を押さえ、その場にへたり込みそうになっていた。日光山の神々とは根本的に異なる、聞いたこともないほど巨大で圧倒的な『何か』が、無理やりこの世界の理を押し広げて接続してきている。
「神の……御威光というのか……!」
宗厳が、掠れた声で絞り出す。冷や汗を全身から噴き出しながら、腹を括った。これは生半可な客ではない。自分たちの命もろとも、神域ごと吹き飛んでもおかしくない覚悟が必要だと、魂が叫んでいた。
幾重もの眩い光がピークに達した直後、まるで何事もなかったかのように光は収束し、霧のように消えた。
そこに、一人の少年がポツンと立っていた。
黒髪に、黒い瞳。顔立ちはどう見てもこの国の人間だ。年の頃は十六ほど。
だが、身につけている重装備が常識を遥かに逸脱していた。鉄でも革でもない、鈍く怪しい光沢を放つ魔物の素材で組み上げられた軽装の鎧。動きやすそうなのに、見るからに強固で、異世界の禍々しさと神聖さが同居している。腰には見慣れぬ柄が覗いていた。
少年——神代悠真は、自分の両手をまじまじと見つめた。
(……嘘だろ。戻って、ない……?)
手に残る武芸のタコ、身体にしみついた重心の位置、そして視界の高さ。
過労死寸前だった令和のブラック企業に戻ったわけではない。かといって、魔王を倒した異世界の王城でもなかった。
(マジかよ……神の奴、異世界での三年間リース契約が終わったからって、こんな変な場所にポイ捨てするか普通……!?)
神の言葉を思い出す。異世界での三年間の任期が少し過ぎていたこと。元の身体に戻せば即死するからと、十六歳勇者のハイスペックな身体と武力のまま、この戦国時代の日光山へ送り込まれたこと。
(いやいや、おかしいだろ! 魔王を倒したら、あの王女様から『私自身をあなたへの褒美にします』って言われてて、甘い甘い新婚生活が待ってたはずだろ!? 仲間たちから『お前もやるなぁー!』なんてバカ騒ぎされながら祝いの酒を飲む、あの苦労の結末はどこ行ったんだよ!)
三年間の死闘の果てに約束されていたハッピーエンドが、一瞬で泡となって消えたのだ。悠真は内心で頭を抱え、絶叫した。
「……お前、何者だ」
泰信が青ざめた顔のまま、必死に間合いを詰めてくる。見た目は十六の少年だが、その立ち姿、油断のない目つき、全身から漂う修羅場をくぐり抜けてきた空気は、とてもただの子供ではない。
「待て、泰信」
宗厳が震える手で泰信を制した。生きた心地がしなかったが、なんとか神主としての威厳を保とうと声を絞り出す。
「御神意の通りだ。光と共に現れ出でたこの者こそ、神のお示しになられたお方……。我らはこの神域を守る者。貴殿をお預かりし、衣食住を支えるよう命じられております。……差し支えなければ伺いたい。貴殿を送り届けた神は、貴殿にどのような使命を授けられたのか?」
次に倒すべき敵がいるのか。それともこの日光山を平定しろとでも言うのか。宗厳たちは生唾を呑み込んだ。
悠真は、遠い目をしてハァとため息をついた。
「……気ままに生きよ、と」
「……はい?」
「それだけです。『気ままに生きよ』って言われました」
悠真の声には、一切の嘘も気負いもなかった。
宗厳は拍子抜けしたように唖然として口を開けたまま、二の句が継げなかった。それから深々と息を吐き出した。
(……気ままに生きよ、だと……?)
宗厳の中で、何かがストンと落ちた。あれほどの超常現象を引き起こしておきながら、与えられた命は『自由』。神意は『支えよ』と言っているが、神本人が少年に何の枷も嵌めていないのだ。ならば自分たちが勝手に役目を押し付けたり、神域に閉じ込めるなんて真似ができるわけもない。
「……理解した。我らは貴殿を害さず、温かく迎え入れよう。生きるための知識や糧も与える。だが、貴殿に何かを強制することは一切せん。ここにとどまるも、山を下りるも、好きにするがいい」
こうして、宗厳の判断により悠真の居場所があっさりと決まったのだった。
———
悠真は自由になった。
神域の端っこにある小さな小屋を与えられ、毎日の飯と服は保障された。泰信からはこの時代の言葉や山での常識を教わり、綾女からはお裾分けの木の実などをもらう日々。
誰も悠真に命令してこない。
「おい神代、この書類明日までにやっとけよ」と理不尽に仕事を押し付けてくるブラック企業の上司もいなければ、「勇者様、どうか我が国をお救いください」と涙目で縋りついてくる可愛い王女様もいない。
朝起きて、ご飯を食べて、ぼーっとして、夜になったら寝る。
(……で、俺はこれから何をすればいいんだ?)
悠真は小屋の縁側に腰掛け、ぼんやりと空を仰いだ。
令和の時代は、死にもの狂いで残業に追われていた。異世界に飛んでからの三年は、魔王を倒すことだけを考えて死線をくぐり抜けてきた。いつも『やらなきゃいけないタスク』が山積みで、それをこなすことだけに全力だったのだ。
なのに今、目の前には使い道のない『圧倒的な自由』だけが転がっている。
「気ままに生きろ」と言われても、指示書のない業務ほどやりづらいものはない。
悠真はあてもなく立ち上がると、目的もないまま、静まり返った日光の山道へと足を踏み出していった。




