第1話 坂本屋の日常
儂は今年で百歳になると思う。もう何年も前に年を数えるのを止めた。それはこの体になって面倒くさくなったからだ。おおよその歳でいいじゃろうと、今はおもう。
「伊助! なに油を売っている、頼まれたことやったんかい!」
番頭の宗吉が叫んでいる。なにか嫌なことでもあったのか? ストレスを溜めすぎだろう、まったく。
「はーい、今やってますー!」
十歳の小僧・伊助は、子供らしい高めの声でへこへこと返事をした。
天正四年、十月上旬。
下野国・日光山の門前に店を構える薬種屋「坂本屋」の土間には、朝早くからいろんな薬草の匂いが立ち込めている。山から吹き下りてくる冷たい風と、乾かしている草木の渋い匂いが混ざり合って、なんとも言えん匂いだ。
「伊助、そっちの当帰と芍薬の仕分けが終わったら、葛根を刻んでおくれ」
「はーい、お春ねえさん」
手際よく木箱の中の薬草を選別していく。
葉の色の濃さ、茎の太さ、乾き具合……指先で触るだけで一発だ。傷んだやつをポンポンと弾いていく。十歳のガキにしちゃ手際が良すぎるが、まあ無心でやってるフリをしておけば誤魔化せる。
(やれやれ……このクソ狭い身体じゃ、一日に刻める薬草の量すら知れているな)
伊助は心の中で小さく溜息をついた。
彼の本当の名は深山景久。かつて天下に名を馳せた天才薬師だ。
若返った理由は至極単純、そして自業自得である。長年の研究の末、偶然にも完成してしまった秘薬——それを何を狂ったか、自分の身体で実験してしまったのだ。結果は大成功、いや大失敗というべきか。気付けば十歳のガキの姿に逆戻りし、縁あってこの坂本屋に身を寄せているのだった。
脳みそには山ほどの処方と薬の知識が詰まっている。だが、今の身体はただの十歳。重い薬箱すらろくに運べんし、うっかり高度な薬の知識なんて口にしてみろ、「化け物だ」「憑き物だ」と大騒ぎされて追い出されるのがオチだ。だからこうして、必死に「ちょっと物覚えが良いだけの小僧」を演じている。
「伊助、次はこの紙に風邪の煎じ薬を包んでくれ」
「あいよ、お妙さん」
手渡された竹紙に、薬の粉を均等に置いてササッと折る。四隅をきれいに折り込むのもお手の物だ。
「まあ、相変わらず早くて綺麗だこと。手先が器用だねぇ」
「えへへ、ありがと、お妙さん」
無邪気な笑みを貼り付けておく。これでよし。
「伊助ー! 町への使いに行くぞ! 店主から頼まれた荷物、半分持てよな!」
表から元気よく飛び込んできたのは、坂本屋の次男で十二歳の竹松だ。
「今行くよ、竹松兄ちゃん」
竹松は二歳年上なだけあって、やたらと兄貴風を吹かしたがる。景久の元の人生には「子供の対等な友人」なんて存在しなかった。大人の記憶を持ったまま、竹松と並んで町を走り回る。くだらん雑談で笑い合うこの時間は、意外にも「伊助」というガキとして息が抜ける、悪くない時間だった。
午後は薬草採りの弥作と一緒に、山道へ入った。
「いいか伊助、この時期の黄連は根がしっかり張ってるやつを選ぶんだぞ。葉の形をよく見ろ」
三十一歳の弥作は、山仕事に誇りを持っている。が、たまに間違った知識や古い迷信をドヤ顔で教えてくる。
「へえ、そうなんだ! 弥作さんはやっぱりすごいねぇ」
伊助は感心したフリをして、弥作の差し出す草を受け取った。本当なら「それ黄連じゃなくて似て非なる毒草混じりだぞ」と喉まで出かかったが、飲み込んだ。大人の顔を立てて、大人しく籠に放り込む。生きるための知恵というやつだ。
———
夕刻、坂本屋の店先に門前町の男が二人、大きな背負い籠を担いで駆け込んできた。
「たのもう! 山の奥でよさそうな薬草がごっそり採れたんだ、買い取ってくれねえか!」
対応に出たのは長女のお春と、相変わらずカリカリしている宗吉だ。
「あら、まあたくさん。どれどれ……」
十九歳のお春は、最近店で薬の扱いを任され始めている。籠を覗き込み、嬉しそうに青々とした葉や根を手に取った。
「これなんか、いい吉草根になりそうね。こっちの葉っぱも、乾燥させればお腹の薬に使えるわ」
お春が男たちと値段の交渉を始めようとした、その時だ。
土間の隅で薬包みをしていた伊助の目が、お春の手元にある一枚の葉に釘付けになった。
(……おいおい、嘘だろ。あれ狼毒の幼草じゃないか)
吉草根の近くによく生えるが、根の汁が少し付くだけで猛烈な神経毒になる危険な草だ。もし煎じて飲ませれば、ヘタしたら人が死ぬ。
(まずい……お春のやつ、匂いと葉の形だけで吉草根と思い込んでやがる)
今すぐ「そいつは毒草だ! 触るな!」と叫べば一発で解決する。だが、十歳の使い走り小僧が、薬種のプロでも見落とす希少な毒草を一目で見抜くなんてあり得ない。一気に怪しまれる。
(チッ……面倒くさい身体だぜ!)
伊助は即座に立ち上がると、お春の足元へダッシュした。知識を隠しつつ遠回しに事故を防ぐには、こうするしかない。そして、なんでもないところで派手にズッコケた。
「うわあぁっ!?」
「きゃっ! ちょっと伊助、急に何よ!?」
ドスンとお春の膝あたりに体当たりし、お春の手から薬草の束がバサリと土間に落ちた。さらに伊助は、バタつかせた手足でわざとらしく狼毒の入った籠をひっくり返した。
「あたたた……ごめんなさいお春ねえさん! 足がもつれちゃった!」
「もう、気をつけてよ……怪我はない?」
「ううん、大丈夫……あ、あれ? お春ねえさん、この葉っぱ……」
伊助はすりむいた手を押さえつつ、土間に散らばった葉っぱを覗き込んだ。そして、いかにも珍しい虫でも見つけたガキのように、一枚の葉を指差した。
「この葉っぱ、なんか変な匂いがするよ? さっき弥作さんが教えてくれた薬草とちがって、裏側に赤いブツブツがいっぱいある……キモいよこれ」
「え……?」
お春は眉をひそめ、伊助が指差した葉を拾い上げた。
裏返してみると、確かに葉脈に沿って、赤黒い小さな斑点がびっしりとついていた。お春の顔からスッと血の気が引いていく。
「これ……斑点……!? まさか、吉草根じゃなくて……」
お春は慌てて奥の棚から分厚い図鑑を引っぱり出し、乱暴にページをめくった。そして挿絵と現物を見比べ、青ざめた。
「狼毒……! これ、吉草根にそっくりな猛毒の草だわ!」
「な、なんだって!? 毒草だってのかい!?」
買い取りを持ち込んだ男たちが脱兎のごとく動揺する。
「恐ろしい……もしこれがお腹の薬に混ざってたら……店がつぶれるどころじゃ済まなかったわ……」
お春は胸を押さえて、荒い息をついた。
「伊助、あなたが転んで裏側に気づいてくれなかったら、そのまま買っちゃうところだったわ……手柄じゃない!」
「えへへ、僕、へんな形だったから気になっただけだよ」
伊助は頭をポリポリ掻きながら、子供らしい能天気な笑顔を浮かべた。
ふう、と胸を撫でおろす。なんとか誤魔化し通せたようだ。
———
その日の夜。
店の片付けが終わり、行灯の小さな灯りが土間をぼんやり照らしていた。
お春は一人、昼間の薬草棚を整理していたが、どうにも手が動かない。昼間の出来事が、頭から離れないのだ。
(伊助は……本当に、ただ転んだだけなのかな……)
思い返せば、伊助が転び込んできたあの瞬間。
彼の目が、お春の手元を射抜くように凝視していたこと。
そして転ぶ直前の一瞬見せた、あの顔——いつもの無邪気な小僧の表情ではなく、まるで熟練の薬師が冷徹に獲物を見定めるかのような、ぞっとするほど澄んだ目。
(それに、あの指差し方……。『キモい』なんて言ってたけど、あの子、絶対に葉の裏の斑点を確認してから指を差していた……)
お春は幼い頃から店の手伝いをしてきた。だからこそ分かる。
薬草の毒や見分けなんてものは、「物覚えが良い」くらいでパッと見抜けるような甘いもんじゃない。長年の経験と、生と死を分ける鋭い観察眼があって初めて届く領域だ。
(伊助は……分かっていた。あの草が毒だって、最初から知っていたんじゃないの……?)
だけど、どうして? ただの十歳の小僧が、なんでそんな恐ろしい知識を持っている? なんでそれを隠して、わざわざ転ぶなんて回りくどい真似をした?
お春は深いため息をつき、静かに薬箱の引き出しを閉めた。
伊助の正体も、隠している理由も分からない。けれど、一つだけ確かなことがお春の胸に落ちていた。
(伊助は、何かとんでもないことを知っている。それなのに、必死に隠している)
夜警の拍子木が遠くでカン、カンと響く中、お春は伊助が寝ている奥の間をじっと見つめていた。坂本屋のいつもの日常の裏で、小さな秘密の芽が静かに顔を出し始めていた。




