9 国家の安全靴
グランドル商会という巨大な独占システムが解体され、琥珀街の職人たちに本当の自由が戻っても、利権を奪われた第二妃派の貴族たちの執念は消えていなかった。
「あの小僧一人のために、我らがどれほどの富を失ったと思っている。……合法的に処理できないならば、国家の法そのものを歪めるまでだ」
第二妃派の筆頭である法務大臣は、密室で冷酷に笑い、一枚の「特命逮捕令状」に署名した。
罪名は『国家反逆および王宮転覆の陰謀』。セシルの靴が女官たちの間で急速に広まり、王宮の情報系統を掌握している事実を逆手に取り、「靴に特殊な暗号を仕込み、王宮の機密を外部に漏洩させている」という、あまりにも強引で非道な濡れ衣だった。
この令状が執行されれば、第一妃の庇護も、アルベール伯爵の軍権も、一時的に「国家安全保障」の上位権限によって凍結される。大手が最後に仕掛けたのは、『王宮の最高法規』を悪用した、強制的な排除だった。
その日の午後。
法務大臣直属の冷酷な執行官たちが、十数人の重装兵を率いて琥珀街になだれ込んできた。
「国家反逆の容疑である! 職人セシルを直ちに連行し、工房を永久に強制収用する!」
街の職人たちが息を呑み、工房のドアが乱暴に蹴り開けられる。
だが、作業机の前に座るセシルは、やはり驚くことも、立ち上がることもなかった。彼はただ、手元にある「嘆願書」の束を静かに指先で叩いた。
「執行官殿。その令状を発付した法務大臣へ、この『書類』が届いているか、今すぐ通信鳥でご確認いただけますか」
執行官は不敵に笑った。
「無駄だ。大臣の命令は絶対であり、いかなる嘆願も受け付けん」
「これは単なる嘆願書ではありません。――この工房の強制収用に対する、王宮の『実務役人および門番全員』による、合法的な【職務ストライキの通告書】です」
「何だと……?」
セシルは淡々とロジックを提示した。
セシルがこれまで仕立ててきた靴の顧客は、第一妃や総監といった上層部だけではない。その快適さに救われ、自費で、あるいは口コミで靴を買い求めた「王宮の全門番」「書類を運ぶ下級役人」「馬車の御者」、そして「厨房の料理人たち」という、王宮のインフラを物理的に支えるすべての下層労働者が含まれていた。
彼らは全員、セシルの靴によって「過酷な日々の業務を初めて快適にこなせている」という、強固な利害関係で結ばれている。
「もし私を連行し、この工房を潰すのであれば、王宮のすべての門番は鍵を閉めて職務を放棄し、役人は書類の運搬を停止します。そうなれば、王宮の事務システムは明日の一朝にして完全に麻痺する。――これは、彼らが自発的に提出した、自らの足を守るための正当な権利です」
執行官の顔が、恐怖で引き攣った。
セシルを逮捕すれば、王宮という巨大な国家機関そのものが、内側からのストライキによって完全に機能停止する。たった一人の職人を潰す代償としては、あまりにも国家の損失が大きすぎる。
そのとき、執行官の懐の通信鳥が激しく鳴いた。
法務大臣からの、悲鳴のような「令状の即時撤回と退却」の緊急命令だった。すでに王宮の門番長から大臣の元へ、一切の猶予なき最後通牒が届けられていたのだ。
「……撤収だ!」
執行官たちは、セシルに触れることすらできず、自滅した謀略の破片を抱えて逃げるように去っていった。
自ら戦うことなく、ただ「快適さのネットワーク」を噛み合わせるだけで、セシルは国家の最高権力すらも完全に無力化したのだ。
夕暮れ時。
国家規模の謀略すらも、淡々と処理したセシルは、静かに工房の重い木の鍵を閉めた。
今夜は、王宮のすべての足元を掌握し、本当の完全なる安全圏を勝ち取った自分への、最高の労いだ。
キッチンに向かい、今夜のために特別に用意しておいた、至高の食材をまな板の上に置く。
丸ごと仕入れた、新鮮な「鴨のフォアグラ」の塊。そして、窓際のハーブの鉢から摘んできたばかりの「極上のフレッシュセージ」だ。
まずは、フォアグラを厚めにスライスし、表面に細かく格子状の切れ目を入れる。塩と黒胡椒を極薄く振る。
よく熱した重い鉄のフライパンに、油はひかない。フォアグラ自身の極上の脂で焼くためだ。
肉厚な塊を、フライパンへ滑り込ませる。
ジワァァァ……という、濃厚でいて気品ある音が響き渡り、瞬時に、部屋中に香ばしい、濃厚なバターにも似た至高の香りが満ちていく。
表面を一気にカリッと焼き上げ、中はとろけるようなレアの状態で、温めておいた陶器の皿に素早く移す。厚手の乾いたリネンで包み、余熱の浸透を静かに待つ。
フライパンに残った贅沢な鴨の脂の中に、セージの葉を投入してカリカリに炒め、少量の古酒と黒蜂蜜を加えて煮詰め、極上のハーブソースを仕上げる。
お皿に盛られたフォアグラの上から、その艶やかなソースを回しかけた。
「……いただきます」
ナイフを当てると、抵抗感なく、まるで温かいバターのように滑らかに切れた。
口に運ぶ。
表面のカリッとした香ばしさの直後、口内ですっと溶け出し、濃厚でいて一切の臭みのない、至高のコクが爆発する。セージの清涼感ある香りとソースの微かな甘みが、フォアグラの重厚さを完璧に気品ある後味へと変えていた。
棚の奥から出したのは、この夜のために冷やしておいた、極上の金色の甘口ワイン。
グラスを傾け、フォアグラの余韻とともに流し込む。とろけるような甘みと肉のコクが完全に調和し、脳のすべての緊張が、サラサラと心地よい酩酊の中に溶けて消えていった。
「ふぅ……」
どんなに巨大な権力が牙を剥こうとも、セシルの工房は何物にも侵せない。
静寂の中、これからの静かな日々に思いを馳せながら、残りのワインをゆっくりと味わった。




