10 琥珀街の靴屋
王宮を機能停止に追い込むという『ストライキ』によって、第二妃派の法務大臣が失脚してから一ヶ月。王都『琥珀街』には、かつてないほど穏やかで、活気のある風が吹き抜けていた。
グランドル商会という巨大な独占組織が消滅したことで、大手が握り潰していた革の仕入れルートは完全に開放された。街の職人たちは、正当な価格で素材を仕入れ、それぞれの技術で靴を作り、正当な報酬を得るという、本来あるべき正常なサイクルを取り戻していた。
セシルの小さな工房には、今日も途切れることなく注文書が届いている。
だが、その内容は以前とは全く異なっていた。
第一妃テレーズからは、公式な「王宮御用達職人」の称号が贈られたが、セシルはその特権を一切行使しなかった。代わりに、彼は王宮のシステムに、ある恒久的な「新しい法」を組み込ませた。
『今後、王宮に納品されるすべての衣類および靴は、華美さの審査の前に、まず「機能性(履き心地と身体への安全性)」の検査を通過せねばならない。その基準を満たさぬものは、いかなる高価な宝石が付いていようとも、官品として認めない』
美しさのために人間が痛みを耐えるという、この街の歪んだ仕様は、セシルの手によって根底から書き換えられたのだ。これからは、どんな靴屋も、人間の足を第一に考えなければ生き残れない。
「……よし。これで、私の仕事は本当に終わりだ」
セシルは、机の上に並んだすべての注文書に目を通し、完璧にスケジュールを逆算してペンを置いた。
工房の経営は、完全に軌道に乗った。もう大手の嫌がらせに怯える必要も、王宮の泥沼の権力闘争に巻き込まれるリスクもない。
彼が勝ち取ったのは、巨万の富でも、宮廷の権力でもない。
自分の城で、自分の技術だけを頼りに、誰のノイズも入れずに「静かに暮らす自由」そのものだった。
夕暮れ時。
世界の仕様を完璧にアップデートし終えたセシルは、工房の表看板の裏にある「営業終了」の札を静かに表に向け、重い木の鍵をカチリと閉めた。
今夜は、この長い戦いのすべてを終え、真の平穏を手に入れた自分への、人生で最も完璧な、至高のご褒美だ。
作業着を脱ぎ、リネンを新調したキッチンに立つ。
今夜のために仕込んでおいたのは、市場の頑固な老猟師から譲り受けた、最高品質の「野生の鹿の背肉」の塊だ。彼を救ったあの鹿革の、今度は命の恵みそのものをいただく。
まずは肉の表面に、軽く岩塩を振り、手ですり潰した黒胡椒と、乾燥させた野生のベリーの葉を叩き込んでいく。
重い鋳鉄の深鍋に、自家製の澄ましバターを落とす。
じわじわと泡立つ熱い脂の中に、主語と述語を完璧に噛み合わせるような精密さで、肉の塊を滑り込ませた。
ジュワァァア……。
炭火のような優しく深い熱が、鹿肉の繊細な赤身にじっくりと伝わっていく。セシルは一分の隙もない手つきで、溶けたバターを何度も肉の表面に回しかけ、肉汁を完璧に内側へと閉じ込めていく。
全面に美しい焼き色がついたら、温めておいた特製の陶器皿に移し、厚手の乾いたリネンを五層に重ねて包み込む。余熱だけで、肉の芯まで「完璧な薔薇色」の熱を行き渡らせる、静寂の時間。
肉を休ませている間に、鍋に残った極上の肉汁に、琥珀街の特産である「ハチミツ酒」と、手摘みの野生のクランベリーを投入する。じっくりと煮詰められたソースは、艶やかな、ルビー色に輝く至高の果実ソースへと変化していく。
十五分後、リネンを外す。
切り分けた鹿肉の断面は、一点の濁りもない、完璧に均一な深紅の薔薇色だった。
「……いただきます」
ひと口、肉を運ぶ。
柔らかい。まるでシルクのように滑らかな歯ごたえの直後、野生特有の、しかし一切の臭みのない、極限まで澄んだ赤身の旨味が溢れ出した。ハチミツ酒のコクとクランベリーの鮮烈な酸味が、その旨味を宮廷の至宝のような気品へと昇華させている。
棚から出してきた赤ワインは、引き締まった酸と、どこか野性味を残したスパイシーな香りが美しく調和するシラーズ。
カカオや黒胡椒のような香ばしいニュアンスを持つシラーズの重厚な渋みが、野生の鹿肉の澄んだ赤身、そして甘酸っぱいクランベリーのソースと、それこそ鳥肌が立つような完璧な精度で肉の旨味とカチッと完璧に噛み合い、これまでのすべての緊張、すべての思考が、心地よい完璧な静寂の中にサラサラと溶けて消えていった。
「ふぅ……」
窓の外では、琥珀街の街灯がぽつぽつと温かい光を灯し始めている。
誰の邪魔も入らない、完璧にコントロールされた、私の城。
本当の自由を仕立て上げた職人は、今夜も誰のノイズも入れず、一人、静かに至高の味覚に浸り続ける。




