8 靴底からのドミノ
法務官を使った「冤罪」すらも、第二妃自身の署名によって跳ね返されたグランドル商会には、もう繰り出せる手札が残されていなかった。
彼らの敗北は、暴力や法的な処罰ではなく、もっと冷徹な「市場の仕様(経済の論理)」によって確定しつつあった。
第一妃テレーズがセシルの靴を絶賛し、王宮の全情報を握る女官たちが「沈黙の靴」で快適に回廊を歩き回るようになってから、王宮内でのグランドル商会の評価は文字通り失墜した。貴族たちは、どれほど金糸や宝石を飾ろうとも「履けば足が歪み、歩くたびに激痛が走る大手の靴」を、急速に「旧時代の遺物(時代遅れの仕様)」と見なし始めたのだ。
「注文のキャンセルが止まらない……。職人たちも、次々と店を辞めていく……」
支配人ギルバートは、誰もいなくなった広い執務室で、真っ白な帳簿を前に呆然と呟いていた。
大手が誇っていた「資金力による素材の独占」という防壁は、王宮の廃棄ルートを入手したセシルによって無効化された。さらに、大手に買い叩かれていた琥珀街の下請け職人たちが、セシルに共鳴し、一斉にグランドル商会との契約を解除したのだ。
靴を作れない仕立て屋に、価値はない。
大手が傲慢に築き上げてきた独占システムは、一番下の「靴底」という職人たちの信頼から、ドミノ倒しのように崩壊していった。
同じ頃、セシルの工房には、一台の豪奢な馬車が横付けされていた。
現れたのは、グランドル商会の筆頭株主であり、第二妃の派閥の重鎮でもある老侯爵だった。彼は、もはや大手の存続が不可能であることを悟り、自身の利権を守るための「最後の交渉」にやってきたのだ。
「セシル殿。グランドル商会は解体し、そのすべての資産と仕入れルートをお前に譲渡しよう。お前が新しい総支配人となり、王宮御用達の座を引き継ぐのだ。悪い話ではなかろう?」
老侯爵は、これが職人にとって最高の栄誉(報酬)であると疑わずに、傲慢な笑みを浮かべた。
大手の利権を丸ごと手に入れる。一見すれば、職人としての完全な大勝利だ。
しかし、セシルはやはり、淡い瞳を動かさない。彼の頭脳のシートは、その提案の裏にあるデメリットを瞬時に弾き出していた。
(大手の総支配人の座。それは一見華やかだが、これからは第二妃の派閥の利権闘争に一生付き合わされ、王宮の泥沼の書類仕事に忙殺される『奴隷の椅子』だ。そんなもののために自分の時間を売れば、夜、静かに料理を作る自由すら失われる)
セシルは品位ある仕草で、老侯爵の差し出した書類を静かに押し返した。
「恐れながら、侯爵様。私はグランドル商会の看板も、資産も、一切必要ありません。私はただの靴職人です。この小さな工房という『私の城』があれば、それで仕様は満たされています」
「何だと……? この巨万の富を拒むというのか」
「私が望むのは、大手の利権ではなく、琥珀街の『完全な自由化』です。大手が独占していた革の仕入れルートを、街のすべての職人に均等に開放してください。それが、私がグランドル商会の未払いの負債を帳消しにする条件です」
老侯爵は息を呑んだ。
セシルは、自分が巨大な権力者になることを明確に拒絶した。代わりに、街全体の職人を豊かにすることで、自分は「ただの小さな、しかし誰にも侵せない至高の工房」として、システムの外側に君臨し続ける道を選んだのだ。
これでもう、セシルを妬む職人はこの街に一人もいなくなる。彼は琥珀街全体の「神聖不可侵の拠り所」となった。
チェックメイトだった。老侯爵は、ガタガタと震える手で、市場開放の条件を承認するしかなかった。
夕暮れ時。
巨大な利権の誘惑すらも、自分の「衣食住の快適さ」のために平然と切り捨てたセシルは、工房の重い木の鍵を閉めた。
今夜は、街の仕様を完全に書き換え、本当の自由を手に入れた自分への、静かな祝祭だ。
キッチンに向かい、今夜のために手に入れておいた、最高の食材をまな板の上に置く。
新鮮な「牛のヒレ肉」の分厚い塊。そして、琥珀街の老舗の酒蔵から手に入れた、芳醇な「発酵バター」だ。
まずは、ヒレ肉の表面に粗挽きの黒胡椒と、ほんの少しの岩塩を丁寧に塗していく。
重い鉄のフライパンを火にかけ、発酵バターを贅沢に大さじ二杯、滑り込ませた。
パチパチと弾けるバターが、熱によって芳醇なナッツのような香りを放ち始める。その黄金色の海の中心へ、肉の塊を静かに置いた。
ジ、ジュワァァア……。
完璧にコントロールされた火加減。セシルはスプーンを使い、泡立つ熱いバターを、何度も、何度も肉の上へと回しかけていく。バターのコクと香りが、肉の繊維の奥深くまで静かに染み込んでいく仕様だ。
全面に完璧な焼き色をつけたら、温めておいた陶器の皿に肉を移し、厚手の乾いたリネンで包んで十分間休ませる。
その間に、フライパンに残った旨味の詰まったバターソースに、少量の赤ワインと、庭で採れた野生のベリーの果汁を加えて軽く煮詰めていく。
十分後、リネンを外す。
ナイフを入れると、熟成されたヒレ肉は、まるで吸い込まれるように滑らかに切れた。断面は、完璧な、均一の薔薇色だ。
「……いただきます」
ひと口、肉を運ぶ。
噛んだ瞬間、発酵バターの圧倒的なコクと、ヒレ肉の上品で濃厚な赤身の旨味が、口内ではじけた。ベリーの酸味を帯びたソースが、肉の脂をどこまでも気品ある後味へと昇華させる。
棚から出したのは、この夜のために開けた、深みのある赤ワイン。
グラスを傾け、肉の余韻とともに流し込む。渋みと酸味が肉の旨味とカチッと噛み合い、脳の奥深くの疲労が、心地よい酩酊とともにサラサラと溶けていった。
「ふぅ……」
利権も、権力も、この完璧なひと皿と静寂の前には、ただの退屈な雑音に過ぎない。
外では、グランドル商会の看板が音を立てて外されていく。だが、セシルの城には、ただ至高の美味と、豊かな時間が流れていた。




