7 冤罪にすらならない
第一妃テレーズが、セシルの仕立てた「装飾なき漆黒の靴」を履いて王宮の夜会に現れたその日、勝敗は誰の目にも明らかとなった。
宝石を誇示する第二妃の横を、第一妃はかつてないほど軽やかに、そして圧倒的な威厳をまとった完璧な姿勢で通り過ぎた。美しさとは、重さではなく、その足取りの品格にある。その事実を突きつけられた貴族たちは、一斉にグランドル商会の靴に疑問を抱き始めた。
「……これ以上の損失は、我が商会の崩壊を意味する」
グランドル商会の総支配人ギルバートは、青白い顔で書類を机に叩きつけた。
まっとうな技術でも勝てず、暴力による排除も憲兵に弾かれた。追い詰められた大手が最後に選んだのは、王宮の「監査システム」を悪用した、合法的な冤罪だった。
彼らは、第二妃の派閥に属する法務官を買収した。
セシルの工房に「王宮の高級仔牛革が不当に流出している(窃盗・密輸の容疑)」という偽の監査令状を発付させたのだ。いくら第一妃の庇護があろうとも、正規の「法」の手続きとして査察が動けば、工房の捜索と素材の差し押さえは止められない。
「今度こそ終わりだ、セシル。王宮の財産を盗んだ罪で、その工房ごと監獄へ送ってやる」
大手が仕掛けた、法制度の裏口を突く攻撃。
その日の午後、法務官のバッジを胸に付けた数人の男たちが、セシルの工房のドアを乱暴に押し開けた。
「監査である。王宮の資産を不正に所持している疑いがある。直ちにすべての革と帳簿を差し押さえる」
だが、セシルは作業机の前に座ったまま、視線すら上げずに言った。
「お手数ですが、その令状の『日付』と『発行元の署名』を確認させていただけますか」
法務官は鼻で笑い、公印の押された書類を突きつけた。
「無駄だ。これは第二妃派の法務監理官が直々に署名した、正真正銘の公文書だ」
「ええ、確かにそのようですね」
セシルは、書類の文字を冷徹に読取り、静かにペンを置いた。
「ですが、その令状の前提には、致命的な欠陥があります。あなたがたが『不正流出』と呼んでいる漆黒の仔牛革は、二日前に上級女官長の手によって『王宮備品の廃棄規定・第十二条』に基づき、正式に廃棄処理されたものです。――そして、その処理を最終承認したのは、あなたがたの主である『第二妃』ご自身ですよ」
「な……何を馬鹿なことを!」
セシルは、女官から密かに受け取っていた、王宮の正式な「廃棄承認書の写し」を机に出した。
女官たちは王宮の書類仕事を裏で統括している。彼女たちは、セシルのために最高級の革を回す際、第二妃の側近が提出した「大量の不要書類の束」のなかに、この廃棄申請を巧妙に紛れ込ませ、気づかれずに署名をさせていたのだ。
つまり、第二妃の派閥が「盗まれた」と主張する革は、第二妃自身が「いらないから捨てろ」と許可を出したゴミ、という法的な位置づけになっていた。
「ご自身の主が『廃棄』を認めたものを、第三者であるあなたがたが『資産の窃盗』と弾劾する。これは王宮の指揮命令系統における明白な矛盾です。このまま捜索を強行されるなら、私は第一妃を通じて、第二妃の『公式な管理能力の欠如』を告発せねばなりませんが、よろしいですか」
法務官たちの顔から、一瞬で血の気が引いた。
強行すれば、自分たちの主である第二妃の致命的な失点になる。大手が仕掛けた完璧なはずの法解釈は、王宮の事務システムの欠陥を突いた一枚の「写し」によって、完全に無力化された。
「……引き揚げるぞ」
男たちは、呪詛の言葉を吐きながら、逃げるように去っていった。
夕暮れ時。
大手の最後の法的攻撃すらも、指先一つ動かさずに撃退したセシルは、静かに工房の鍵を閉めた。
今夜は、王宮の書類の海を泳ぎきった己の脳を、最も贅沢な仕様で労う。
市場の炭焼き職人から特別に分けてもらった、最高品質の「堅木炭」を取り出し、小さなレンガ造りの炉に火を起こす。
今夜の食材は、丸ごと仕入れた「大ぶりの鶏のモモ肉」と、今が盛りの「太い白アスパラガス」だ。
炭がパチパチと音を立て、美しい純白の灰をまとい、極上の遠赤外線(熱)を放ち始める。
鶏肉の皮目に細かく包丁を入れ、多めの粗塩と、手でちぎったフレッシュなタイムの葉を散らす。
それを、網の上へ。
ジュウウ、という、これまでのフライパンとは明らかに違う、重厚でいて軽やかな音が響き渡る。
炭火の熱が、鶏の余分な脂を瞬時に落とし、その脂が炭に触れて「香ばしい煙」となって再び肉を包み込んでいく。皮目が、まるで夕日のように美しい、完璧なクリスピーブラウンに色づいていく。
その傍らで、皮を剥いた白アスパラガスもじっくりと素焼きにする。炭火で熱されたアスパラは、自身の水分で蒸し焼きになり、驚くほど甘い香りを放ち始める。
焼き上がった肉とアスパラを、温めておいた陶器の皿に盛る。
ソースは要らない。ただ、仕上げに庭のレモンをひと搾りするだけだ。
「……いただきます」
ナイフを入れると、ザクッ、と皮が小気味よい音を立て、中から透明な肉汁が泉のように溢れ出した。
口に運ぶ。
炭の薫煙をまとった皮の香ばしさと、弾力のある肉の圧倒的なジューシーさ。レモンの酸味が、脂の旨味を極限まで引き立てる。間髪入れずに白アスパラを噛み締めれば、口の中いっぱいに、瑞々しい大地の甘みとほろ苦さが広がった。
棚から出したのは、この夜のために冷やしておいた、酸味の美しい辛口のシードル(リンゴの発泡酒)。
木樽の香りと発泡の刺激が、鶏の旨味とカチッと噛み合い、張り詰めていた言語野がトロトロと解けていく。
「ふぅ……」
どんなに精緻な罠を仕掛けられようとも、現実のルールを正しく理解していれば、世間はどこまでも味方にできる。
静寂の中、セシルは、崩壊を始めたグランドル商会へ向けて、最後のチェックメイトを仕込むための型紙を、静かに引き寄せた。




