6 第一妃の靴
深夜の襲撃計画が、火の手が上がる前に「憲兵の現行犯逮捕」というエラーによって強制終了した翌朝。琥珀街には、何事もなかったかのような静謐な朝が訪れていた。
グランドル商会が雇った無頼漢たちは、アルベール伯爵の地下牢で、誰に唆されたかを余すところなく吐き出している頃だろう。大手の支配人ギルバートは今頃、仕掛けた罠がすべて自分に跳ね返ってくる恐怖に怯えているはずだった。
だが、セシルはそんな復讐劇には興味がない。
彼はただ、手元に届いた「極上の漆黒の仔牛革」を前に、静かに型紙を当てていた。
そこへ、再びドアの鈴が静かに鳴った。
入ってきたのは、前夜の襲官ではなく、王宮の紋章が刻まれた豪奢な書状を携えた、第一妃に仕える専属の侍従だった。
「セシル殿。第一妃テレーズ様より、直接の謁見の命である。明朝、王宮の薔薇宮まで出向かれたし。――お抱えの仕立て師としての、品定めだ」
ついに、王宮の最高権力者が動き出した。
グランドル商会をバックにつけているのは、軍事大国から嫁いできた第二妃の派閥だ。第一妃のテレーズは、台頭する第二妃の勢力を抑え込むための「切り札」として、女官たちの間で絶大な支持を得ているセシルの技術を、自らの陣営に組み込もうと考えたのだ。
貴族たちの派閥争いに巻き込まれるのは、職人にとって最も生存率を下げる危険がある。どちらかに肩入れすれば、もう一方から命を狙われる。
(だが、断れば不敬罪。ならば、仕様を書き換えるだけだ)
セシルは、明朝の謁見に向けて、一足の「特別な靴」を仕立て始めた。
それは第一妃のための靴ではない。彼女の「最大の悩み」を完璧にハックするための、ロジックの塊だった。
翌朝。王宮の『薔薇宮』。
贅沢な香油の匂いが立ち込める密室で、第一妃テレーズは、持ち込まれたセシルの靴を見て、不満げに美しい眉をひそめた。
「これが、女官たちを虜にしたという靴か? 宝石の一つも付いておらぬ。我がグランドル商会に仕立てさせた、金糸の靴の方がよほど私にふさわしい」
彼女は、セシルを自らの派閥の「道具」として値踏みしていた。
セシルは、品位ある完璧な一礼をした後、顔を上げ、その淡い瞳で第一妃の足元を冷徹に観察した。
彼女が履いている大手の靴は、確かに美しい。しかし、最高級の宝石を散りばめたせいで、靴全体の重量のバランスが完全に崩れている。そのため、彼女は歩くたびに、ドレスの裾の下で、ほんの僅かに右足首を外側に庇うような歩き方をしていた。
「テレーズ様。その靴は、大変美しく、それゆえに持ち主の『時間』を奪っております。右の御足の甲に、鈍い痛みが通っていませんか」
「……な、何を不遜な」
「美しさのために痛みを耐えるのは、王妃の義務ではございません。私が仕立てたこの靴をお試しください。装飾はございませんが、これを履いて歩かれる姿そのものが、どの后よりも『美しく、堂々としたもの』に変わります」
セシルが差し出したのは、漆黒の仔牛革を極限まで薄く鞣し、内側に最高級のシルクを張った、驚くほど軽い短靴だった。
半信半疑のまま、第一妃がその靴に足を滑り込ませる。
そして、大理石の床にそっと足をつき、三歩、歩いた。
「……っ」
彼女は息を呑んだ。
痛みが消えただけではない。靴が足の延長線上にあるかのように軽く、自分の意思と完全に同期して動く。足元に気を取られる必要がなくなったことで、彼女の背筋は自然と伸び、公爵家出身の正妃としての、圧倒的な威厳と気品に満ちた「立ち姿」が一瞬で完成した。
「美しさとは、飾るものではなく、その歩き方の品位に宿るものです」
セシルは淡々と言った。
彼は第一妃の派閥に属することを選ばなかった。代わりに、「第一妃の歩き姿を、どの后よりも完璧にする」という絶対的な利害関係を成立させたのだ。これで第一妃は、セシルを他陣営に渡さないためだけでなく、自らの美しさを保つために、全力でこの工房を守る盾となる。
その夜。
最高権力者との謁見を、自らの「絶対安全圏」の構築へと昇華させたセシルは、工房に戻り、静かにエプロンを外した。
今夜のご褒美は、いつもより少し手間をかける。
市場で仕入れておいた、脂ののった「極上の羊の骨付き肉」だ。
まずは肉の表面に、すり潰したにんにくと、庭で採れた新鮮なローズマリー、そして多めの岩塩を叩き込んでいく。
熱した鉄のフライパンに、羊から切り落とした脂身を入れ、じっくりと上質なオイルを抽出する。その熱い羊脂の中に、ハーブを纏った肉を滑り込ませた。
ジジ、とハーブの弾ける爽快な音とともに、羊肉特有の食欲をそそる香りが広がる。
強火で表面を一気に焼き固め、肉汁の出口を完全に塞いだら、温めておいた陶器の深皿に移し、その上から厚手の乾いたリネン(布)を何層にも重ねて包み込む。
余熱で、肉の芯までゆっくりと熱を通していく。この「静かな時間」が、肉を限界までジューシーに仕上げる仕様だった。
肉を休ませている間に、フライパンに残った旨味の出汁に、地元の完熟トマトのペーストと、少量の黒蜂蜜、そして大さじ一杯の強い蒸留酒を加えて煮詰める。
十五分後、布を外す。
切り分けた羊肉の断面は、完璧な、均一の美しい赤みを帯びていた。
「……いただきます」
骨を手に取り、肉に歯を立てる。
柔らかい。驚くほどに柔らかい肉から、ハーブの清涼感を含んだ濃厚な肉汁が溢れ出し、口内を支配する。酸味とコクを極めたトマトソースが、羊の野生味を上品な宮廷料理の域へと引き上げていた。
そこに、棚の奥から出してきた、特別に上質な、樽香の効いた重厚な赤ワインを流し込む。
肉の旨味とワインの渋みが、脳の奥深くの疲労を一瞬で洗い流していく。
「ふぅ……」
王宮の后たちがどれほど権力を競おうとも、この静かな工房の奥にある、完璧に統治された食卓を脅かすことは、もう誰にもできない。




