3 大手商会からの圧力
「あの靴の職人を、今すぐ我がグランドル商会に囲い込め。断るなら、二度とこの街で針を持てないように潰せ」
琥珀街で最大のシェアを誇る『グランドル商会』の総支配人、ギルバートは、贅沢な調度品に囲まれた執務室で冷酷に命じていた。
彼らが焦るのも無理はなかった。
王宮の警備総監であるアルベール伯爵が、夜会だけでなく、日々の執務や訓練の視察にまで、あの地味な「炭色の鹿革靴」を履き続けているという情報がもたらされたからだ。貴族たちがこぞって派手さを競う王宮において、「機能性という圧倒的な実利」を持ち込んだセシルの靴は、静かな、しかし確実な下剋上を起こしつつあった。
大手が得意とするのは、「権力と資金力による素材の独占」と「流行の押し売り」という仕様だ。そこに「履き心地」という全く異なる評価軸を持ち込まれては、彼らの既得権益が脅かされる。
当のセシルは、そんな大手の動きを完全に予期していた。
工房のドアが開き、仕立てのいい上着を着たグランドル商会の使者が入ってきたときも、セシルはミシンの注油の手を止めず、淡い色の瞳を向けただけだった。
「セシル殿だな。我が商会はお前の技術を高く評価している。店を畳み、我が社の下請けに入りなさい。月々の給金は保証する。……応じぬ場合、お前への革の供給停止だけでは済まない。この工房の土地と建物の『借地権』、あれの更新の権利を握っているのは、我が商会の息がかかった街の有力者だということを忘れないようにな」
使者は、勝ち誇った笑みを浮かべて契約書を突きつけた。
「今月末の更新期日までに、我が社の傘下に入るか、それとも路頭に迷うか。三日だけ時間をやろう」
これ見よがしに「システムの強制終了」を突きつけてくる、見え透いた脅迫だった。普通の職人なら、ここで恐怖し、屈して契約書にサインするだろう。
だが、セシルは胸中で、冷徹に大手の「仕様」を解析していた。
(土地の更新権を盾に取る。なるほど、王道で、それゆえに大雑把なやり方だ)
セシルは使者が帰った後、父が遺した古い工房の権利書と、この街の「古法(古い条例)」の書類を引っ張り出した。
コンサルタントのように「新しい弁護士を雇って裁判を起こす」などという無駄なコストはかけない。そんなことをすれば、資金力のない個人は手続きの引き延ばしで干上がる。
セシルが突いたのは、この『琥珀街』という土地が持つ、歴史的な優位性だった。
(琥珀街の土地は、百年前、当時の国王が『王宮御用達の職人保護』のために指定した王室直轄地が前身だ。そして、現在の法律にもその一文がひっそりと生き残っている。――『王宮の現役の武官、あるいは高官より直接の注文を受けている工房は、その履行期間中、いかなる第三者による立ち退き請求も免除される』)
アルベール伯爵からの注文書は、今も手元にある。しかも伯爵からは「同じ革で、雨天用の長靴も仕立ててほしい」という追加の注文を、正式に預かったばかりだった。
つまり、セシルが伯爵の靴をつくっている限り、グランドル商会がどんなに土地の権利をこねくり回そうとも、王宮の法がセシルの工房を最優先で保護する。大手が仕掛けた「借地権への恫喝」は、王宮の「警備総監の権威」という最上位の規約によって、一瞬で無効化されるのだ。
「……手続きは、これで終わりだ」
セシルは、伯爵のサインが入った追加注文書の写しを、街の管理所に淡々と提出した。それだけで、大手の嫌がらせはに弾かれる。
三日間の期限の初日の夜。
大手の使者が提示した「三日の猶予」など、セシルにとってはただの「いつも通りの退屈な平日」に過ぎなかった。
戦う必要すらなく問題を処理した彼は、今夜の完璧なご褒美のために、静かに袖を捲り上げた。
今夜の食卓の主役は、丸ごとの「白身魚(タイの仲間)」と、瑞々しい「アサリ」だ。
よく熱した鉄のフライパンに、上質なオリーブオイルをひく。包丁の腹で潰したニンニクを弱火でじっくり炒め、オイルに香りを移していく。
そこに、塩を振って余分な水分を抜いた白身魚を、皮目から滑り込ませた。
ジュワッ、という小気味よい音が、静かな工房に心地よく響く。
皮がパリッと黄金色に焼けたのを見計らい、魚を裏返す。そこにたっぷりのアサリを投入し、辛口の白ワインを惜しみなく注ぎ込んだ。
すぐに蓋をする。
数分後、パチン、パチンとアサリの殻が開く音が聞こえてくる。アサリから溢れ出た濃厚な海の出汁が、白ワインと混ざり合い、フライパンの中で奇跡のような乳白色のスープへと変わっていく。
仕上げに、刻んだパセリと、市場で見つけた新鮮なプチトマトを落とす。酸味がスープに軽やかさを加える。
「アクアパッツァ」の完成だった。
「……いただきます」
深皿に盛り付けられた魚の身を、スプーンでスープごと掬う。
口に入れた瞬間、パリッとした皮の香ばしさと、ふっくらとした身の甘み、そしてアサリのエキスが凝縮されたスープの旨味が、波のように押し寄せる。トマトの仄かな酸味が、全体を完璧に引き締めていた。
硬めに焼いたフランスパンをスープに浸し、汁を限界まで吸わせて口に運ぶ。
じわじわと広がる小麦と海の幸福感。そこに、冷えた白ワインを一口。
「ふぅ……」
完璧な静寂。誰のノイズもない、自分だけの城。
大手仕立て屋がどんなドヤ顔で仕様を押し付けてこようとも、この快適な食卓と、自分の領地は1ミリも揺るがない。
翌日、セシルの工房を潰そうと管理所に赴いたグランドル商会の支配人は、提出された「王宮保護規定」の書類を前に、顔を真っ青にすることになる。




