2 最初の難題
王宮からの若き従者が提示した条件は、セシルの工房にとって、文字通りの「急な難題」だった。
「納期は三日後。我が主、アルベール伯爵の登城日に間に合わせろ。もちろん、老男爵に納品したあの『疲れない漆黒の靴』と同等以上の品質だ。前金として、これを出そう」
従者が机に置いたのは、見たこともないほど美しい金貨の束だった。
これだけあれば、今月末の工房の維持費など一瞬で吹き飛ぶ。しかし、セシルは金貨に目を奪われることなく、自分の頭脳のシートを冷徹に回していた。
(三日で一足。作業時間としては、完璧に逆算すれば可能だ。だが――)
問題は「仕様」を満たすための素材だった。
老男爵の靴に使った硬い牛革は、もう在庫がない。それどころか、琥珀街の革問屋はすべて、王宮御用達の大手仕立て屋『グランドル商会』の息がかかっている。セシルが王宮の顧客を掴んだという噂は一瞬で広まり、問屋からは「当面、お前に売る革はない」と、あからさまな供給停止を食らうことだろう。
金はあっても、正規のルートでは素材が手に入らない。それが大手の仕立てた「システムの壁」だった。
「……なるほど。綺麗に囲い込まれているな」
従者を送り出した後、セシルは一人、工房の奥にある地下倉庫へ降りていった。
大手の真似をして、高価な最高級の革を探し回るのは愚策だ。相手の土俵に乗った時点で、資金力のない個人工房は詰む。
セシルが目をつけたのは、倉庫の隅に埃を被って放置されていた、父の遺品だった。
そこにあったのは、表面に不規則な傷や色ムラがあり、厚みも均一ではない「規格外の破棄材」――野生の鹿の革だった。
通常の仕立て屋であれば、こんなものは靴の素材として絶対に選ばない。傷を隠すために余計な装飾が必要になり、厚みがバラバラではミシンの針が折れるからだ。効率最優先の大手にとっては、ただのゴミである。
(だが、この肉厚さと、野生特有の繊維の強さはどうだ?)
セシルは革に触れ、その本質を見抜く。
アルベール伯爵は、王宮の警備総監を務める武官だ。大理石の床を歩くだけでなく、時には馬に乗り、未舗装の訓練場も歩く。そんな男に、繊細な牛革の靴は合わない。この強靭な鹿革こそが、むしろ伯爵の「仕様」に最も適合している。
傷や色ムラがあるならば、隠すのではなく「削る」。
ガラスの破片を使い、革の表面を均一に薄く削ぎ落としていく。そうして現れたのは、まるでベルベットのような、鈍い光沢を放つ美しい起毛面だった。
厚みが均一でないならば、ミシンは使わない。
セシルは千枚通しを手に取り、一針ずつ、手作業で等間隔の穴を開けていく。主語と述語を正確に繋ぐように、太い麻糸をロウで固め、二本の針を交差させながら締め上げていった。機械では不可能な、革の厚みに応じた完璧なテンションの調整。
そして、仕上げだ。
いつもの薬草の煮汁に、今回は暖炉の「木炭の粉」を混ぜ込んだ。
一晩浸された鹿革は、傷の跡すらも独特の深みとして取り込み、炭色の、この世に二つとない重厚な姿へと転生した。
三日目の朝。
完成したのは、宝石のような華やかさは一切ないが、軍人の足元を支えるにふさわしい、圧倒的な剛健さと気品を兼ね備えた一足だった。
受け取りに現れた従者は、その靴を見た瞬間、言葉を失った。
「これは……牛革ではないな? しかし、なんという佇まいだ……」
「アルベール伯爵の歩幅と体重を計算し、最も馴染むように仕立てました。お試しください」
セシルは静かに微笑み、納品を完了した。
その夜。
手に入れた正当な報酬を原資に、セシルは久々に市場の奥まで足を伸ばしていた。
大手の嫌がらせを完全に逆手にとり、納期を乗り越えた後の夜。この時間こそが、彼にとっての最大の贅沢だった。
工房に戻り、まずは作業着を脱いで手を厳重に洗う。
暖炉に火を入れ、今夜のために仕入れた小さな土鍋をかけた。
今夜の美味は、市場の頑固な肉屋から手に入れた「牛すじ肉」だ。
大手のレストランが見向きもしない、硬くて筋張った部位。だが、セシルは知っている。これを一度湯こぼしし、生姜の薄切りと、琥珀街の地酒、そして少量の粗糖とともに、弱火でじっくりと二時間煮込めば、どうなるかを。
コトコトと、心地よい音が静かな部屋に響く。
部屋に満ちていくのは、醤油と酒の、濃厚でいて尖りのない甘やかな香りだ。
肉が十分に柔らかくなった頃合いで、地元の根菜(大根と人参)を投入する。味が染み込むまでの間、セシルは棚から、少し上質な赤ワインを取り出した。
「……よし」
土鍋の蓋を開けると、飴色に輝く牛すじ肉が、とろけるように仕上がっていた。
器に盛り付け、刻んだ青ネギを散らす。
一人、静かにスプーンを入れる。
口に入れた瞬間、時間をかけてハックされた肉は、噛む必要すらないほどにホロホロと崩れ、濃厚な旨味とコラーゲンが舌の上に広がった。出汁を限界まで吸い込んだ大根のジューシーさが、それを追う。
そこに、少し渋みのある冷えた赤ワインを流し込む。
肉の脂分がワインの酸味できれいに洗い流され、次のひと口への渇望だけが残る。
「……美味い」
誰にも邪魔されない、完璧にコントロールされた城。
大手仕立て屋がどんな罠を仕掛けようとも、自分の頭脳とこの技術があれば、いくらでも生存の仕様を書き換えられる。
セシルが静かな口福に浸っている頃、王宮のアルベール伯爵の執務室では、一人の男が、生まれて初めて「足の痛みのない快適さ」に、目を見開いていた。




