4 声なき悲鳴
グランドル商会が仕掛けた借地権の強奪を、王宮の「保護規定」という上位法令で叩き潰してから一週間。琥珀街の小さな工房には、以前よりもさらに静かで、しかし濃密な空気が流れていた。
セシルのもとに新しく持ち込まれた「仕事」は、意外な場所からのものだった。
「……セシル殿、ですね」
夕暮れ時、工房のドアを静かに開けて入ってきたのは、豪奢な貴族ではなく、灰色の地味だが一分の隙もない仕立てのドレスをまとった初老の女性だった。
名前は名乗らない。だが、その指先についた独特のインクの染みと、完璧な立ち居振る舞いだけで、セシルは彼女が王宮の奥、后たちの身の回りを統括する「上級女官」のひとりであることを見抜く。
「アルベール伯爵の靴を拝見しました。華美な装飾を禁じられた我ら女官にも、あのような『用の美』を備えた靴が必要なのです」
王宮の女官という存在は、華やかな貴族たちの裏で、広大な城内を一日中休むことなく歩き回り、立ち続けなければならない、過酷な労働環境に置かれている。しかも、主人の前では足の痛みなど1ミリも表に出してはならないという、厳格な暗黙の了解があった。
彼女たちの足元は、見栄えだけの硬い既製品の靴によって、常に悲鳴を上げていた。
「我らが求めるのは、黒。装飾は一切なし。ですが、大理石の回廊をどれだけ歩いても音が響かず、一日中立ち尽くしても、翌朝に響かぬ靴です。……引き受けていただけますか」
セシルは静かに頷き、彼女の足を計測するために跪いた。
差し出された足の裏は、長年の酷使によって角質化し、歪なタコができている。
(なるほど、これが王宮を裏で回すシステムの、本当のコスト(代償)か)
セシルは、彼女たちのために新しい靴の仕様を組み立てた。
武官である伯爵には頑強な鹿革を使ったが、静寂を求められる女官には、しなやかでキメの細かい「極上の仔牛革」が必要だ。だが、問屋からの供給停止は続いている。
しかし、セシルは動じない。彼は彼女の目を見て、淡々と言った。
「素材が足りません。王宮の倉庫に眠っている、使い道のなくなった『端切れの最高級カーフ』を、官品破棄の手続きを使ってこちらに回していただけますか。それがあれば、あなた方全員の足を救えます」
上級女官は、微かに目を見開いた後、深く不敵に微笑んだ。
「おやすい御用です。書類の処理なら、我らの最も得意とするところですから」
翌日、工房には大手の問屋すら見たこともないような、最高品質の漆黒の仔牛革が、正式な「廃棄物」として大量に届けられた。王宮の事務システムを逆にハックして手に入れた、一点の曇りもない最高の手札だった。
セシルは、靴底の仕様にこだわった。
硬い木や革の底ではなく、軽量のコルクの芯材を敷き詰め、その上に、歩行の衝撃を吸収し、かつ摩擦音を完全に消去する「特殊な天然ゴムの薄膜」を何層にも重ねて圧着する。
カチ、とも、コツ、とも言わない。
履いていることすら忘れるような、漆黒の「沈黙の靴」が完成した。
試着した女官は、大理石の床を踏み締めた瞬間、その圧倒的な解放感に息を呑んだ。
「……素晴らしい。まるで、自分の足が床と一体になったようだわ」
彼女たちは、名前も告げずに靴を抱えて王宮へ戻っていった。
だがセシルは知っている。王宮の全情報を握る女官全員が彼の靴を履いた瞬間、グランドル商会が今後どのような嫌がらせを計画しようとも、その情報は実行される前にセシルの元へ筒抜けになるという、完璧な「情報防壁」が完成したことを。
その夜。
難題を完全に片付け、王宮の最高機密とも言える女官たちの信頼を手に入れたセシルは、手に入れた前金の一部を使い、今夜のご褒美の仕込みに入っていた。
今夜は、頭脳をフル回転させた自分への、最高に贅沢な労いだ。
市場のなじみの肉屋が、特別に取り置いてくれた「豚の肩ロース肉」の大きな塊。
まずはその表面に、塩と黒胡椒、そして乾燥させたタイムとセージをたっぷりと擦り込んでいく。
よく熱した重い鋳鉄の深鍋に、バターを一塊落とす。
パチパチと泡立つゴールデンブラウンのバターの中に、肉の塊を滑り込ませた。
ジュー、という重厚な音が響き、ハーブと肉の焼けるたまらない香りが部屋中に広がる。
肉の全面に綺麗な焼き色をつけ、肉汁を完全に閉じ込めたら、一度火を止める。
そこに、芯をくり抜いてざく切りにした「完熟のリンゴ」を丸ごと2個分、そして薄切りにした玉ねぎを、肉の周囲を埋め尽くすように敷き詰めた。
最後に、琥珀街の特産である「リンゴの発泡酒」を、肉が半分浸るまで贅沢に注ぎ込む。
「……あとは、火に任せるだけだ」
鍋に重い蓋をし、ストーブの弱火にかける。
ここから二時間、セシルは本を読みながら、ただ静かに待つ。
コトコトと、微かな音とともに、部屋の空気そのものが「甘美なご馳走」へと変わっていく。リンゴの酸味と果糖が、豚肉の繊維を限界まで柔らかく解きほぐしていく時間だ。
二時間後。蓋を開けると、玉ねぎとリンゴは完全に形を失い、黄金色の濃厚なソースへと姿を変えていた。
肉を厚めに切り分け、その極上のソースをたっぷりと回しかける。
「……いただきます」
ナイフを入れると、力を入れる必要すらなく、肉がハラリと崩れた。
口に運ぶ。
豚肉のジューシーな脂の旨味の直後、リンゴの爽やかな甘みと酸味、そしてハーブの気品ある香りが鼻腔を抜けていく。極上のソースが、肉の美味しさを何倍にも引き立てていた。
そこに、よく冷えた白ワインを口に含む。
果実味のあるワインが、濃厚な肉の余韻と完璧に調和し、脳の疲れが完全に溶けていくのが分かった。
「ふぅ……」
大手の支配人がいくら外で吠えようとも、この静謐な夜と、完璧な味覚の城は、誰にも侵せない。




