第四話「現在の位置」
暗闇が、ゆっくりとはがれていく感覚があった。
水底から浮かび上がるような、重くねっとりとした感覚だ。
最初に戻ってきたのは痛みだった。
胸の奥で、焼けた鉄を押し込まれたような鈍い痛みが、じくじくとうずく。次に、背中に触れる硬い感触。冷えた土か、石か。
自分が仰向けに倒れているのだと理解するまでに、しばらく時間がかかった。
「……っ……」
掠れた息が漏れる。肺に空気が流れ込む。その当たり前の行為が、やけにぎこちない。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
見知らぬ空がそこにあった。薄曇りの灰色。陽は雲の向こうでぼやけている。視界の端では風に揺れる草がざわりと鳴り、土と青草の匂いが鼻をかすめた。
「ここは……?」
自分の声が、頭の中で転がる。
外に出た声は、思っていたものとは違っていた。老人特有のかすれた響きではない。まだ芯に力を残した、若い喉の音。
喉が焼けている。血も混じっている。だから音が変わったのだ。
そう言い聞かせる理屈が、遅れて追いつく。
上体を起こそうとした瞬間、胸に炎のような激痛が走った。呼吸のたびに、内側で何かが軋む。
賢者の石。光。崩れゆく感覚。
そこまでを、ようやく思い出す。
あのあと、自分は"クロノス・オーダー"を発動させた。意識が時間の流れから切り離され、暗い水の底へ落ちていくような感覚。
(ここはどこじゃ……?)
石壁も、塔の天井もない。周囲には低い丘と雑木林。舗装された道も、魔導灯の光も見当たらない。
――まずは身体だ。
エドガーは歯を食いしばり、腕に力をこめて上体を起こした。驚くほど、身体が軽い。
関節が軋まない。腰が重くない。指先に力を入れると、素直に握れてしまう。
胸の痛みは重いのに、骨も筋も、若い。
(……こんな時期が、あったか?)
記憶をまさぐる。二十代。三十代。まだ無茶がきいた頃。
だが、そのどれともぴたりと重ならない。輪郭はあるのに、年輪がない。自分の“時間”のどこにも、手触りが一致しない。
胸元を見る。粗い布の上衣が破れ、血でべっとりと貼りついていた。軍服でも魔術師のローブでもない。農夫か狩人が着るような、簡素な服だ。
周囲には、欠けた剣の刃片だけが、割れたガラスのように散乱している。
「なんじゃこりゃ……?剣で斬られておるのか?」
ただ、その痛みは奇妙だった。生々しい出血は少なく、傷も塞がっているようだった。
致命傷であってもおかしくないのに、こうして意識がある。
「……生きているのか、死にかけているのか、あるいは途中か……」
自嘲のような呟きが漏れる。
ともあれ、このままでは本当に死ぬ。状況の確認も、その前にこの身体をどうにかしなければ始まらない。
エドガーは周囲を見回した。生い茂る草と、剥き出しの土。離れた場所に、人ひとり分ほどに踏み固められた獣道が続いている。雑木林の向こう側には、細く白い煙が頼りなげに空へと伸びていた。
集落か、あるいは焚き火か。いずれにせよ、人の営みの気配だ。
(まずは状況を整理せねばな……。この身体は……いつ頃のわしか……)
胸に手を当て、内側を巡る魔力の奔流を辿ろうとする。
だが、そこで違和感に眉をひそめた。魔力の脈動が、ひどく捉えにくい。わずかでも集中を欠けば、自らの源流さえ見失ってしまいそうになる。 深く息を吐き、目を瞑る。瞑想に近い集中を以て、己の内淵を覗き込んだ。
――少ない。
確かに流れはある。だが、全盛期の感触を大河とするならば、この身体は細い用水路だ。流れ自体は滑らかだが、いかんせん底が浅い。少しでも魔術を振るえば、途端に干上がってしまいそうな心許なさがあった。
「……反動、か?分からないことだらけじゃな……」。
エドガーはゆっくりと立ち上がる。
こんな状態だが、身体は軽い。膝は軋まず、腰も重くない。自分の手を見下ろす。見慣れたしわが、ない。
張りのある皮膚。細いがしなやかな筋肉。震えもない指先。
(……本当に、わしは過去へ戻ったのか?)
十歳の子どもの身体ではない。記憶の中の二十代とも微妙に違う。次に三十代、四十代と記憶を巡らせるが、腕の長さ、肩幅、手の大きさ——どれも馴染まない。
遠くの煙が視界の端で揺れた。ようやく、世界のほうへ意識が向く。
あの煙のもとへ行けば、人がいるはずだ。危険もある。だが、情報がなければ何も判断できない。
(“クロノス・オーダー”は成功したのか?ここが本当に過去なのか……確かめる必要がある)
エドガーは獣道を辿って歩き出した。
土の湿り気が靴底にまとわりつき、踏みしめるたび小さく沈む。
体感で、数十分。
似た景色が延々と続き、進んでいるのに距離感だけが曖昧になる。時間の感覚も、妙に薄い。
森は魔獣の住処だ。暗くなる前に抜けたかった。
(……まだか。煙の下は……方角は合っておるはずじゃが……)
そう思った瞬間だった。
「そこのあんた!」
髪を高い位置で結び、土色のスカートの裾を気にする暇もなく、全力で駆けてくる。
顔は涙でぐしゃぐしゃだ。右腕の袖が、乱雑に破られている。
エドガーは嫌な予感がした。
「……ちょっと……。あんたも、血、出てるじゃん……。あんたも魔獣に……!?」
指さされた先——自分の胸元を見る。さっきまでべっとりと濡れていた布は乾き始めているが、色はどす黒いままだ。
「え?……あ、ああ、これか」
エドガーは自分の頬を掻き、苦笑いを浮かべた。
「森の奥は魔獣の住処だ。暗くなる前に抜けたかった。こいつはもう止まった。胸も、さっきよりはだいぶマシじゃ。歩くくらいなら問題ない」
「問題あるでしょ、その量は!」
少女はほとんど反射的に怒鳴った。だが、次の瞬間にはその顔がぐにゃりと歪む。
「……っ、でも、そんなこと言ってる時間……ないんだってば……!」
言葉の終わりは、ほとんど嗚咽だった。
しゃくり上げながら、少女はエドガーの袖をつかむ。
「お願い、来て。人、足りないの。あたし一人じゃ……」
「落ち着け。誰が、どこでどうなっておる」
掴まれた腕に、意外なほど細い指の感触を覚えながら、エドガーは静かに言った。
「妹!」
即答だった。
「森ん中で薬草を採取してたら、魔獣に襲われて……血が止まらないの。何とかナイフを刺して逃げてくれたけど、村まで少し距離があるし……それであんたが目に入ったの!お願い一緒に村まで妹を運んで……!」
少女は、ぐっと唇を噛みしめると、踵を返して駆け出した。掴まれた袖が引かれる。エドガーもそれに続いて、獣道を踏み分ける。
足が、驚くほど素直に動く。土を蹴ったとき、膝も腰も悲鳴を上げない。その事実が、今は有り難くもあり、腹立たしくもあった。
(こんなときだけ、若さを寄越してくれるか)
息は上がる。胸の奥にはまだ鈍い痛みが残っている。
だが、十分だ。走ることに支障はない。
森は、すぐに口を開けた。雑木林の合間を抜け、少し開けた場所に出る。
そこだけ、草が不自然に倒れていた。土に濃い赤が広がっている。その中心に、小さな身体が横たわっていた。
「ティエ!」
少女が駆け寄る。膝から土に崩れ落ち、その身体を抱き起こそうとする。
「待て!乱暴に動かすな。そのままにしておけ」
エドガーは咄嗟に声を荒げた。
「で、でも——」
「死なせたくないのであろう」
短く、しかしはっきりと釘を刺す。
少女は、ぎゅ、と歯を食いしばり、動きを止めた。その代わり、震える手で妹の手だけを掴む。
「ティエ、ティエリナ!聞こえる!?ラナだよ!」
ラナ——それが、姉の名だろう。
呼びかけに、地面に伏した少女の唇がかすかに動いた。
「……おね、え……」
か細い声だった。
顔色は悪い。土と血にまみれ、唇は乾いている。瞳は焦点を結べず、揺れている。
胸元には、粗く縛られた布。ラナが慌てて服の袖を裂いて巻いたのだろう。だが、布の隙間からはまだ血がじわじわと滲み出ている。地面にこぼれたものも含めれば、失われた血の量は少なくない。
(胸郭の右側……肺か、それとも心臓ぎりぎりか)
エドガーはひざまずき、素早く目で状態をなぞった。
呼吸は浅く速い。息を吸うたびに、傷口のほうがわずかに膨らむ——
(胸の中に空気が入っておるな。長くはもたん)
森の入口からここまでの距離。ここから村まで歩けば、ゆっくりでも二十分はかかる。走れば短縮はできるが、その振動自体が命取りだ。
「む、村まで運べば助かるよね!?」
ラナが縋るように見上げてくる。
エドガーは、一瞬だけ迷い——そして、首を横に振った。
「……このまま運べば、村に着く前に死ぬ」
ラナの顔から、血の気が引いていく。
「そ、そんな——じゃあ、どうすれば……!?」
「ここで手当てをする。できる限りのことをな」
エドガーは、彼女の問いを遮るように言った。
「布をもっと用意できるか。腰帯でも、裾でもいい。長く裂けるものは全部使う」
「わ、分かった!」
ラナは自分のスカートの裾に手をかけ、迷いもなくばりばりと引き裂いた。
それを渡す手が震えている。エドガーはそれを受け取り、器用に細長くねじっていく。
「ティエリナだな」
傷口に手を伸ばしながら、エドガーは声をかけた。
「息を吸えるか」
「……ひゅ、っ……」
かすれる音がした。胸が上下するたび、布の下で赤黒い滲みが広がる。
「すまぬ。少し痛いが、我慢せい」
エドガーは布をほどき、手早く巻き直した。
止血の要領は身体が覚えている。戦場で、何十回と繰り返した動きだ。胸郭を締め付けすぎれば呼吸ができず、緩ければ血が止まらない。その加減を、指先が迷いなく探り当てる。
布を締め直しながら、彼は胸の内側の感覚——さきほどの“ヒール”に使った流れの残りを、もう一度確かめた。
まだ、僅かに残っている。だが、深追いすれば身体がもたない。
「……魔法を使う」
口をついて出た言葉に、ラナの顔が跳ね上がった。




