第三話「呪い」
一瞬だけ不思議そうに。
それでもどこか安堵した顔で、微笑む。
「ごふっ……ああ、やっぱり……”肺を作る魔法は、まだ、夢物語"……ですね」
「セリカ、何をしておる!?こんな老いぼれ一人のために!」
セリカは答えず、崩れ落ちた。
赤が床に広がっていく。
「……ごほっ。あなたのやり方も、ルークのも、肯定しない。でも軍に渡れば……未来が決まる……。だから、マシな方に……賭けます」
責める色はない。
崩れる瞬間、視線はエドガーに向いていた。
「セリカ、さん」
ルークは、一拍だけ目を閉じた。
床にじわじわ広がる赤に、石から放たれる青白い光が反射する。
目を開いて、ルークはセリカの胸元を見た。あるはずの呼吸が、そこにはない。
実感が湧く――人を殺めたという実感。
「……今夜が最後だと思った。奪われる前に止めれば、それで済むと思った」
ぽつりと、ルークが零す。
その声音に焦りはない。だが、僅かに震えている。
「でも、僕は……結果としてセリカさんを撃った」
口の端を、自嘲気味に歪める。
「セリカさんが止めに入るとは思ってなかった――なんて、言い訳ですね。結果として、セリカさんを殺した。……それだけだ」
エドガーは、何も言わなかった。
「……僕は、先生が嫌いです。世界を勝手に弄ろうとする独善者で。自分の罪だけを抱え込み、差し伸べられた他人の手を振り払う――最悪の老人だと思ってます」
それでも、エドガーは何も答えない。
答えられなかった。
セリカの亡骸の傍で、ただ呼吸を繰り返す。――ただの老人として。
「でも同時に……尊敬もしてます。魔法がもたらす光の側面も、確かに教えてくれた」
ルークの瞳が、わずかに揺れた。
抑えきれなかった鼻血が、一滴、乾いた音を立てて床に落ちる。
「……だから、本当は最後まで見届けたかった。でも――」
視線が、静かにセリカへ落ちる。
言葉の続きを拒むように、ルークは小さく首を振った。
「僕は、誰かのために命を差し出す覚悟も、先生を信じ切る勇気もありませんでした」
手が下がり、こめかみに指が添えられる。
そこへ、脈打つような淡い光が集まり始めた。
「やめろ」
力が抜ける。
エドガーは動けなかった。
一歩踏み出そうとして膝が崩れ、歯を食いしばって耐えるのが精一杯だった。
「あなたは神じゃない。だから、どの選択にも“正解”はない。選んだ先で生まれる歴史も……すべて引き受けて、何度でも後悔してください」
「ルーク!!」
「正直……もう、疲れました」
ルークは目を閉じる。
「家族を見殺しにし、セリカさんを殺し、師の過ちも止められず――それでも国のしがらみを背負って生き続けるくらいなら……僕は……」
「やめろと言っとるじゃろうがッ!」
「――“フォトン・ピアス”」
刹那――青白い線が、ルークのこめかみを貫いた。
一瞬だった。
血飛沫は、ほとんど上がらない。
膝が抜ける。
操り糸を断たれた人形のように、前のめりに倒れた。
「大馬鹿者がああああああッ!」
塔の最上階に、怒号が反響する。
エドガーは手を伸ばしかけ、脇腹を走る激痛に咳き込んだ。
口内に鉄の味が広がる。
吐き出した粘つく赤が、すでに広がる血の上に重なった。
「……はぁ……はぁ……」
息がうまくできない。視界の端が暗く染まる。
それでも這うように進み、セリカの傍を通り過ぎる。まだ温もりが残っていた。
「すまん……お前達……!本当に、すまん……!」
言葉にするたび呼吸が浅くなり、血が喉を焼いた。隣に倒れるルークの目は半ば開いたまま、もう何も映していない。
「お主らの人生を、わしは……。いや、今さら取り繕おうが、独善の極み、か」
嗚咽とも咳ともつかない音が漏れる。
血まみれの手で、台座にしがみつく。
それは、限界を超えた老人の――意地だ。
「……“クロノス・オーダー”」
喉の奥で擦れるように呼ぶ。長い詠唱の、最初の鍵。
「時の神よ……聞け」
浅い呼吸が挟まる。空気が、微かに震えた。
それでも、魔力は確かに石へ注がれていく。圧縮された魔力が鈍くうねり、結晶の内側の亀裂が、淡く脈打つ。
「わしは……摂理に背く。過去へ手を伸ばす」
膝がかくりと折れる。
魔法陣が一線、また一線と灯り、青白い光が部屋を満たす。
セリカとルークの亡骸さえ、陰影を失い輪郭だけになりかける。
エドガーは血に濡れた床へ額を擦りつけるように崩れ、それでも中心へ手を伸ばした。
賢者の石が――悲鳴にも似た音を上げた。
「“クロノス・オーダー”……発動……」
その一語が世界に落ちた瞬間――賢者の石は、音もなく砕け散った。
光でも、炎でもない。噴き出したのは、“時間そのものの奔流"だった。
視界が白に塗り潰される。
上下も、左右も、遠近も――区別が失われていく。
感覚が、一枚ずつ剥がれていった。
皮膚が、筋肉が、骨の軋みが。
血の流れの音さえ、静かに、消える。
最後に残ったのは――"記憶"だけ。
戦場で失われた街。
魔導灯に照らされた夜。
徹夜明けに口にした、苦いコーヒー。
それらは光の渦となり、やがてひとつの点へと収束していく。
声が消える。声帯も、口もない。
それでも意識だけは、沈まなかった。
『ハハ……また失敗しちゃったね……でも、次はきっと……』
それは、記憶の底から滲み出るように響いた。
懐かしい、女性の声。
(クララ姉さん、すまぬ。わしは――あなたが、わしに託した魔法を……消す)
これは、赦しを乞うためではない。
戻れぬと知った者が、それでも踏み出すために打ち込む――楔だ。
消せば、救えるものがある。
同時に、救えなくなるものも増える。
それでも、選ぶ。
選び、その責任を引き受けることだけが人を、人に留める。
だからこそ、見届けようとした。
どこへ辿り着くのか。
何を失い、何を得て、どんな世界を生み落としたのかを。
光が、ひときわ強く瞬き――意識は、静かに暗転した。




