第二話「夜」
夜は、いつの間にか世界の輪郭を塗り替えていた。
ヴェルダム王都の上空を覆う防御結界は、薄い膜となって星明かりを滲ませる。
もっとも、その膜を見抜けるのは、その道を究めた者だけだ。
魔法協会の塔、最上階。
ここへ独りで戻れたのは、「関連研究をすべて破棄する」――そう告げて、ルークを半ば力づくで帰らせたからだ。
だが、見え透いた嘘だ。ルークも、それを分かっている。
研究室の窓から見下ろせば、街路に沿って魔導灯が点々と連なり、地上の星座めいて輝く。
室内の灯りは落とされ、差し込むのは月の白だけ。
書棚は理論書で埋まり、壁には式と図表が幾重にも貼り重ねられていた。
床の中央に、複雑極まりない魔法陣。
円の中に円。幾何学模様とルーンが、折り重なる。
中心の台座には、人の頭ほどもある澄んだ青い結晶が鎮座している。
「……綺麗じゃのう」
エドガー・アーダルベルトは結晶を見つめ、ひとり呟いた。
この世界で最初にして最後――そう信じている。莫大な魔力を宿す、完全人工魔導結晶。
――“賢者の石”。
時間干渉は、それほどの魔力量と、異常なまでの精度を要求する。
「そしてこちらは……完成率、九割一分……といったところか」
エドガーは床の魔法陣へ視線を落とし、独り言をこぼす。
――“クロノス・オーダー”。
肉体ではなく、自身の“記憶”だけを過去へ送る術式だ。
過去の自分の脳へ未来の記憶を書き込み、分岐点そのものを書き換える。
推論ではあるが、精度は九割を超えた。残る不確定要素は、座標のブレ。
僅かな誤差が、時間軸と送り先を狂わせる。
最悪の場合、他者の人格を侵す。
だから最後の一歩が、いちばん遠い。
目論見どおりなら、記憶は魔法をまだ完成させていない若き日の自分へ流れ込む。
研究を白紙に戻し、魔法そのものを封印する。
この二つは、人生の大半を注ぎ込み、作り上げた執念の証だった。
そうすれば――
魔導戦争も、ルークの家族の死も、セリカの故郷が戦火に沈んだことも。
すべて、“最初からなかった”ことになる。
『……独善だ』
昼間のルークの声が脳裏で鳴り、封蝋の紙の感触が、指先に戻る気がした。
「独善か。その通りじゃな」
「見知らぬ人間がどうなろうと、知ったことではない――そう割り切れたら、どれほど楽だったか」
自嘲気味に笑う。
そこで、視線がふと賢者の石から外れた。
「人生最大の後悔をやり直せるボタンが、目の前にある」
それでも、手は止まらない。
理由はひとつだ。
「……やはり、わしは――このボタンを押すのじゃろうな」
扉の向こうから、足音が響いた。
この時間帯にここまで来る者は、ほとんどいない。
エドガーは、視線だけを扉へ向けた。
規則正しく木を叩く音が響く。
「先生。ルークです。入れてください」
聞き慣れた青年の声だった。
扉の向こうから聞こえる声には、昼間よりもずっと研ぎ澄まされた響きが宿っていた。
焦りではない。時間を使い切った者の声音だ。
(これ、じゃもんな……)
エドガーは一瞬だけ逡巡し、それから立ち上がった。
扉へ歩み寄って確かめると、鍵はかかっていた。
弟子であろうと、立ち入れる場所ではない。
それは、エドガーがこの二十年、頑なに守り続けてきた一線でもあった。
「帰れ、ルーク。何をしに来た?」
しわがれた声が、扉越しに響く。
「先生は察しが悪いのか、それともわざととぼけているのか……。お昼にした話ですよ」
間髪入れずに返ってきた声には、呆れと悲しみが混じっていた。
「今夜、使うつもりでしょう?」
ルークの声は、恐ろしいほどに冷静だった。
「使わん、と言ったはずじゃが?」
「……先生、嘘が下手なんですよ」
ルークは寂しそうに笑った。
「先生が決めてしまったなら、今度は僕が決めなきゃならない。……それが、弟子の責任だ」
「責任、とな」
エドガーは小さく笑った。
「弟子が背負うには、少々大きすぎるぞ。この世界は」
「先生が一人で背負い込もうとしているよりは、ずっとましです」
ルークの声が、低く、鋭くなった。
「最後の忠告です。開けてください、先生」
「断る」
即答だった。
そして、エドガーは台座に戻った。
「……ご存じでしょう。監査官は、協会の粛清役です。差し押さえと即時拘束、塔の封鎖までの権限がある。先生が抵抗すれば、ここは戦場になる」
その瞬間、扉の向こうで、空気が変わった。
魔力の流れが、微かにざわめく。
術式が構築されるときに特有の、肌に刺さるような感覚が走った。
エドガーは舌打ちする。
この部屋の扉――見た目はただの木製だが、施された術式によって、今やどんな鋼鉄よりも硬く仕上げられていた。
扉の向こうで、ルークは一度だけ息を整える。
焦げた匂いが、喉の奥に戻ってくる。
その感覚を押し潰すように、指を握り込んだ。
(それを、今ここで組むということは……)
エドガーが額を押さえる。
「まさか本気で――」
言い終わる前に、扉の向こうから鋭い詠唱が飛んだ。
「――"フレイム・エクスハティオ"!」
短い、しかし明瞭な呼び声。
次の瞬間、扉に刻まれたルーン文字が、ぱん、と乾いた音を立てて弾け飛んだ。
「チッ!"マナ・シールド"!」
外側から勢いよく炎が木板を吹き飛ばし、一瞬、部屋は炎と煙に包まれた。
ただ一人、エドガーの周りを除いて。
開いた入口の向こうに、右手をかざすルークの姿があった。
「おい!多少は手加減せい!こんなところで最上級魔法を使うな!そんなもん、使われる想定なんぞしとらんかったわ!」
「先生。この世界から"時間干渉魔法"を消さないのであれば――」
ルークは感情を押し殺した低い声で、射抜くようにエドガーを睨み据えた。
「あなたを止めます。――必要なら、殺してでも」
すると、その背後から、慌てたようにセリカが追いすがってくる。
息が切れている。髪が乱れている。
必死に階段を駆け上がったのだ。
「ルーク!何をしているんですかあなたは!」
焦げた扉の残骸を踏み越え、セリカが駆け込んでくる。
「本当に、手加減という言葉を知らん弟子じゃよ」
「冗談を言っている場合ですか!?」
セリカが焦燥の表情を浮かべながら、エドガーに向かって叫んだ。
「先生、もう一度言います。“時間干渉魔法”と“賢者の石”の開発を中止し、破棄してください。明朝、軍が来ます。――もう猶予はありません」
「……お前さんは、魔法が憎くないのか。家族を奪った魔法を」
エドガーの問いに、ルークは表情を変えず答えた。
「前にも聞かれましたね。答えは同じです。魔法は憎い。……でも、それも自然の摂理だ。あなたの魔法は、僕の家族を殺すためだけに生まれたわけじゃない。結果として、そうなっただけです。結局は、使う者次第。だから僕は、あなたの弟子になり、宮廷魔術師になったんですよ」
「……まったく、正論じゃな」
エドガーは苦く笑う。
分かっている。ルークの言葉は正しい。
だが今夜だけは、その正しさが、どうしても胸に刺さった。
(これ以上、魔法で誰も失わせない……。誰かを救おうと願う心こそが、魔法だと――先生が言ったじゃないか)
ルークの脳裏には、焼け焦げた家族の輪郭が張り付いたままだ。
彼は人差し指を伸ばし、台座の“賢者の石”を指し示す。
「“フォトン”――」
次の音を吐く前に、エドガーが右手を突き出した。
掌へ、体内の魔力が集まる。
「――“クレイ・バインド”」
直後。
床の隙間がほどけ、粘土めいたものが湧き出す。
それはルークの足首に絡みつき、腰まで一気に這い上がった。
「っ――!」
ルークの身体が、ぐらりと傾いだ。
踏ん張ろうとした瞬間。束ねた指先に集まりかけていた青白い光が、制御を失って跳ねる。
それでも、ルークは撃ってしまう。
青白い線が弾けるように走った。
本来の射線は賢者の石のはずだった。だが、よろけた体勢のまま放たれた光は、わずかに逸れた。
エドガーの脇腹をかすめた。
肉が、薄く――欠ける。
「――がッ……!」
乾いた金属の匂いが、部屋の空気に混じった。
熱と、奇妙な冷たさが同時に広がり、遅れて痛みが追いついてくる。
エドガーは膝をついた。
倒れ込むのだけは、堪えた。
「先生!?」
セリカが駆け寄る。
ルークは、息を呑んだまま固まっていた。
「ひどい……!こんな……!」
脇腹には、えぐれた欠損ができている。
“フォトン・ピアス”は焼く魔法ではない。対象の“そこだけ”を、最初から無かったかのように欠落させる。
血が止まらない。
形が悪すぎる。塞げても、埋まらない。
「……セリカ……逃げろ」
エドガーは歯の隙間から、掠れた声を搾り出す。
だがセリカは退かない。震える手を、まっすぐ傷口へ添えた。
「逃げるわけないじゃないですか!――“ヒール”!」
緑の光が傷を包む。
裂けた血管が辛うじて繋がり、出血がわずかに弱まった。
「……クソッ」
ルークは立ち尽くし、舌打ちを零す。
自分の一撃が、老いた師の身体を削った。選んだはずの現実が、まだ脳に追いつかない。
「こんなつもりじゃ……なかったんだけどな」
「ルーク……!」
血泡を混じらせ、エドガーが立ち上がった。
賢者の石を背に隠すように、台座の前へ身を滑り込ませる。
「先生! 立ち上がらないでください……無茶です!」
セリカが叫ぶ。だがエドガーは聞いていない。
ただ真っすぐにルークだけを見据えていた。
「ルーク……わしは、この計画を止める気はない。止められるとも思っとらん」
「……ええ。分かってます」
ルークの声がわずかに震えた。
視線を逸らし、賢者の石へ。
「だから僕が止めます。最悪、あなたを殺してでも石を壊す。術式も資料も――全部、消す」
「チッ……“エクスハティオ”を使った時点で、魔力はほとんど残っとらんはずじゃ。……それでも撃つか。無茶をしよって!」
指先が小刻みに震え、鼻先から血が垂れる。拭う余裕もない。
“フォトン・ピアス”は重い。撃つたび、魔力が削られる。
それでもルークは撃つ。
「――“フォトン・ピアス”ッ!!」
刹那。セリカが動いた。
(あの時助けてもらった恩を、ここで――)
エドガーの肩を掴み、投げるように背後へ押し退ける。
そして自分が、賢者の石の前――射線へ踏み込んだ。
「セリカ――!」
声が遅れる。
ルークも、もう止められない。
「“マナ・シ――」
言葉が途切れ、それでも胸元に薄い膜が張る。
青白い光線が一直線に迫り、膜が歪む。
――耐えきれない。
膜はガラスみたいに砕けた。
光はわずかに逸れただけで、勢いを失わない。
逸れた光が棚をかすめ、木と紙を粉々に弾き飛ばす。
破片が雪のように舞った。
セリカの胸に、小さな穴。
血が一滴、また一滴――乾いた音で床を叩く。
「……え」
最初に漏れたのは、ルークだった。
賢者の石ではない。セリカを穿った。
理解が、遅れて追いつく。
セリカは胸に手を当てる。
指先に触れたのは、空洞だった。




