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第五話「魔法」

「は!?ふざけないでよ!?」


 怒声が刺さる。

 エドガーはそこで初めて、自分の舌が当たり前のように“魔法”を口にしていることに気づき、息を止めた。


(まだ魔法はおとぎ話なのか。だとすれば、使えば噂と欲、恐れを呼ぶ)


 だが、ラナの目は本気だ。冗談として受け取る余裕など欠片もない。

 けれど、目の前で血が滲み、呼吸が乱れている命は、“世界”ではなく“今”にある。


「わしは、神ではない。救えぬ死は……自然淘汰、か」


 気づけば、口が勝手に動いていた。


『魔法で救われた命は、“摂理から外れた在り方”であると。魔法がなければ、それは自然による淘汰に過ぎなかったのだと』


 自分がかつてルークに投げた言葉が、今になって喉を締めつける。


「……わしは、世界中の死を選び直せる存在じゃない。一人救っても、その先まで――」

「そんなのどうだっていい!」


 姉が叫ぶ。


「今、死にかけてるのはティエリナなの!世界も歴史も後でいいから!今は、ここだけ見て!」


 姉の声は少し掠れたが、その目は濁っていない。

 エドガーは目を見開き、息をのんだ。

 ティエリナの胸にそっと手を置く。かすかな鼓動が指先に伝わる。まだ消えてはいない。


「……全部は救えぬが、目の前のひとつを見捨てる言い訳にはならん、か」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 流れを集める。先ほどより薄い。底が見える。


(今日、使えて……あと一回。多く見積もって、二回。三回)


 掌を傷口へ近づけた、そのとき——指先が、わずかに震えた。


「今からわしがやることは、誰にも言うな」

「……え?う、うん……!」


 自分の意志とは無関係な、細かな痙攣。


(……来たか)


 エドガーは一度、呼吸を止めた。


「"ヒール"」


 掌から、淡い光があふれ出した。蒼白い輝きがティエリナの身体を包み込み、裂けた肉をなぞるように浸透していく。


 ……だが、光は一瞬だけ揺らいだ。


 指の震えが、消えていない。流れが細い管を押し広げ、指先の内側で細かな痛みが弾ける。震えは、指から手首へ、手首から肘へとじわりと伝播していく。


 エドガーは歯を食いしばった。声には出さない。出せば、流れが乱れる。


 ティエリナの呼吸が、わずかに落ち着く。

 胸の内側で、溜まっていた空気が引いていく。泡がほどけ、圧が逃げ、浅かった息がほんの少し深くなる。


「"奇跡"……だ……」


 ラナは、ただ呆然とその光景を見つめる。

 ティエリナの裂かれた組織が少しずつ繋がり、途切れかけていた血の流れが戻っていく。体温がほんの少し上がり、浅かった呼吸がわずかに深くなる。


 ――同時に、鼻の奥が焼けるように熱くなった。


(……っ)


 指で触れると、赤いものがつく――鼻血だった。


(やはりか。この程度で、反動が出てしまうほど、体内の魔力量が少ない……こりゃあ、扱いにくい身体じゃのう)


 光が収束しはじめる。

 ティエリナの胸の傷はまだ赤く新しい痕を残している。だが肉は閉じ、血は止まり、致命的な深さは失われていた。


「……ん……」


 少女が小さく声を漏らした。

 姉が弾かれたように身を乗り出す。


「ティエリナ!ティエリナ!」

「あ……、おねぇ……ちゃん……?」


 ラナが顔を上げる。涙で濡れた頬のまま、乱暴に袖で拭った。


「……助かった、の?」


 その言葉の裏にあるのは、「助かったことにしていいのか」という怯えだ。喜びが早すぎれば、あとから崩れるのが怖い。——知っている顔だった。


「死ぬことはない。じゃが、身体の中はまだ戦っておる。しばらく休ませねばならん」

「……分かった。分かった、ちゃんとやる。ちゃんと休ませる」


 ラナは何度も頷いた。


 エドガーはティエリナを背負う。

 若返った身体を、否応なく実感する。


(少し前まではおんぶされる側だったのにのぉ)


 背中の温もりは、軽いのに重かった。


 ティエリナの呼吸は、先ほどより整っている。だが浅さは残り、背中にかかる小さな震えが、まだ身体のどこかが痛みを覚えているのを伝えてくる。


 ラナは前を走り、何度も振り返った。


「アンタ本当に大丈夫!?倒れないでよ!?」

「……倒れるなら、すでに倒れておる」


 そう返しておきながら、エドガーは袖口で鼻の下を拭った。

 また、温いものが付く。鼻血は止まったはずなのに、運動でじわりと再開しそうな気配がある。


(この身体の消耗は、冗談で済まん)


 魔力を使った後の、あの細い管の擦過感。

 流れの底が浅い——だけではない。流れそのものが、どこか違和感がある。

 考えがまとまりかけたところで、獣道が開けた。


 ◆


 低い柵。畑。乾いた土の匂い。

 そして、素朴な木造の家々。


 ——バルサ村。


 夕方の光が、屋根の端を赤く染めている。煙突から細い煙が立ち、どこかで鍋をかき混ぜる音がした。

 魔導灯の類はない。家の軒先に吊るされた油灯が、まだ火を入れられないまま揺れている。


「ティエリナが魔獣に襲われました!!誰か助けてください!!」


 ラナの声が村の中へ飛び込む。

 それを合図に、人が出てくる。畑にいた者、家の前にいた者、子どもを抱えた女。男たちが遅れて駆ける。


「ティエリナ!?」

「血……!こんな……!」

「おい、その布……!ほどくな、ほどくな!」


 村人たちが最初に見たのは、傷口ではない。

 裂けた服と、腹のあたりに乱雑に巻かれた布。そこに染み込んだ黒赤い血の量。

 そして——その血にまみれた小さな身体が、まだ温度を持ち、息をしていること。


「……生きてるのか」

「嘘だろ……この量で……」

「前に猪にやられたヤンは、村まで持たなかった……」

「村の仲間では魔獣は入って来れないのにねぇ……」


 誰かの記憶が、口をついて出る。

 魔獣に裂かれた布の形。血の滲み方。運び込む途中で冷たくなる重さ。

 その経験と、目の前の現実が噛み合わない。


 担架が持ち出される。

 エドガーが背を屈め、ティエリナをそっと降ろそうとした、そのとき。


「――あんたも!」

「ちょっと待て、その人も血だらけだ!」


 村人の視線が、今度はエドガーに集まった。

 胸元の布は裂け、乾きかけた血がべっとりと貼りついている。袖口も泥で黒い。頬には枝で裂いた浅い傷。鼻の下には赤黒い筋が残っていた。


「大丈夫か!?あんたも魔獣にやられたのか!」

「顔色が……。座れ、座れ!水!水持ってこい!」

「いや、その量……立ってるのがおかしいぞ!」


 心配は本物だった。

 村の者たちにとって、“血まみれで生きている”という状態そのものが、すでに警戒すべき異常なのだ。


 エドガーは思わず一歩引き、咳払いで喉をごまかした。


「……わしは大丈夫じゃ。ちょっと転んでな。枝で引っかけただけだ」

「その服の裂け方が“枝”で済むかよ!」

「そうだ、獣の爪だろ、それ!」


 鋭い指摘が飛ぶ。

 痛いところを突かれて、胸の奥がひくりと軋んだ。——傷ではない。言葉のほうが痛い。


(下手を打てば、ここで話が“二人分”の異常になる)


 エドガーは息を整え、あえて肩をすくめた。


「森は暗かった。転んだ拍子に岩に擦ったんじゃろ。見た目ほど深くない」

「見た目ほど……って、血は見た目の問題じゃないだろ!」

「い、今はティエリナちゃんが先だ!」


 その一言が場を戻す。

 担架が揺れないよう、二人の男が慎重に持ち上げる。

 エドガーも無意識に手を添えかけ、ぐっと引っ込めた。触れれば余計な視線を呼ぶ。


 それでも、村人の目はまだ二つの“血まみれ”を見比べている。

 担架の上で息をしている少女。

 そして同じように裂けた服のまま立つ男。

 血はまだ布に残っているのに、新しい赤は落ちてこない。滴らない。地面に増えない。


「……血が、止まってる……?」

「奇跡、じゃねーか。どんな治療を施したんだ……?」

(しまった……。噂の芽が、もう出ておる)


 誰かが、口の中で「神のお陰だ……」と音を作って飲み込んだ。

 誰かが、祈るように両手を握りしめた。

 誰かが、エドガーの胸元の血と、顔の血を見て、恐れを足した。


 同じように“やられた”はずの者が、息を整え、立っている。

 それは、村の常識ではありえない。


 ざわめきが熱を帯び、輪がじわじわとエドガーたちへ寄ってくる。

 誰かが担架の脇へ回り込み、誰かがエドガーの胸元を覗き込み、誰かが「見せてくれ」と手を伸ばしかけた。


「おい、その手を引け。旅人に対して、無礼だろう」


 低い声が、群れの上から落ちた。

 人垣が、ぴたりと止まる。

 次いで、ざわめきが左右に割れた。畑の泥を踏む、重い足音が近づいてくる。


 現れたのは、髭を短く刈り込んだ背の高い老人だった。外套の裾に乾いた土。年の割に姿勢が崩れていない。


「……そ、村長」


 誰かが小さく呼ぶ。

 ラナも顔を上げ、唇を結んだ。


 現れた村長は、担架の上のティエリナに一度だけ目を落とし、それから村人たちを見回した。

 感情を抑えたまま、しかし逆らわせない圧のある視線だった。


「呼吸は保っておる。容体も、ひとまずは落ち着いておる。今すぐの命に別状はあるまい。……道を空けろ。まず家へ運び、休ませよ」


 その一言で、村の空気が“作業”に戻る。

 担架を持つ男たちが息を合わせ、村人たちは反射で道を作った。


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