第31話 分かたれる旅路と新たな装い(前編)
学術都市ヴィルシュタットに、規則正しく時を告げる時計塔の鐘の音が鳴り響く。
数日間に及ぶゼーベルク教授との共同研究と資料整理を経て、調査隊は次なる目的地――「極北の楔」が眠る北方の山岳地帯へと旅立つ準備の最終段階に入っていた。
早朝の柔らかな光が差し込むゼーベルク教授の屋敷の一室では、これまでの過酷な死闘が嘘のような、どこか場違いなほど華やいだ空気が流れていた。
その中心にいるのは、山のように積み上げられた色とりどりの衣類や布の見本を前に、瞳を爛々と輝かせているエリーナである。
「……だから、そんなの俺には似合わねーってば!」
不機嫌そうに声を上げたのは、先日カイに「なんとなく」という理由で拾われ、調査隊の見習いポーターとして加わることになった少年、フィンだった。
彼はスラムでの生活が染み付いており、身に纏っていたのは汚れと綻びが目立つ粗末な麻の服だ。
服の裾をぎゅっと掴み、困惑と気恥ずかしさが入り混じった表情でエリーナを睨みつけている。
しかし、エリーナの耳に少年の抗議は届いていなかった。
彼女は流れるような手つきで次々と布地をフィンの体に当て、顎に手を当てて真剣に吟味している。
「何を言っているの、フィン。あなたはこれから、私達の仲間として北の山岳地帯へ向かうのよ。
薄い麻の服じゃ、北方の冷気に触れた瞬間に凍りついてしまうわ。……それに」
エリーナはそこで一度言葉を切り、いたずらっぽく、それでいてどこか愛おしそうに微笑んだ。
「私、実はずっと弟が欲しかったのよね。こうして、年下の男の子にあれこれお洋服を選んであげるのって、昔からの憧れだったのよ。だから、大人しく私に従いなさい」
「お、俺はあんたの弟じゃねえ! 第一、こんなひらひらしたの、動きにくいだろ!」
フィンの必死の抵抗も、知の探求者にして名門貴族の令嬢であるエリーナの前では無力だった。
彼女は「機能性とデザインの両立は学術的にも重要なのよ」と、彼女なりの理屈を並べながら、フィンの採寸を強行していく。
部屋の隅では、新調されたばかりの丈夫な革のブーツの具合を確かめていたカイが、その騒がしい光景を眺めていた。
彼の肩の上では、ハヌが赤いストールを器用に整えながら「きゅいっ、きゅい」と、まるでおもちゃを与えられた子供を見るような、あるいは新しい仲間を歓迎するような、ご機嫌な声を上げている。
「……フィン。エリーナの気が済むまで付き合ってやれ。訓練の一つだと思ってな」
カイが少し呆れたような、それでいてどこか楽しげな口調で助言すると、フィンは顔を真っ赤にして叫んだ。
「カイまでそんなこと言うのかよ! これが何の訓練になるんだよ、馬鹿! ……だいたい、ゲイルもなんとか言ってくれよ!」
助けを求められたゲイルは、不動の姿勢を保ちながら頷いた。
「フィン、エリーナ様の審美眼は正確だ。せっかく服を新調して貰えるのだ。感謝こそすれ文句を言うべきではない」
「あー、もう! どいつもこいつも!!」
結局、フィンはエリーナの強引なペースに引きずられるようにして、ヴィルシュタットの中央通りにある、高級洋品店へと連れ出されることになった。
洋品店の店内は、上質な羊毛の香りと静謐な空気に満ちていたが、エリーナが入店した瞬間にそこは彼女の独壇場へと化した。
「オーナ!、この子の服を選びたいの。北方の山岳地帯でも体温を逃さず、かつ崖を駆け登るような激しい動きも妨げない、最高級の防寒耐性を持った物を出して。……そう、色は深みのある紺か、あるいは彼の瞳に合わせた落ち着いた灰色がいいかしら」
エリーナの「姉心」に火がついた彼女は、容赦がなかった。
フィンの体格に合わせて、裏地付きのマント、撥水加工を施した丈夫な革のズボン、そして衝撃を吸収する厚底の高級ブーツ。
それら一つひとつに、エリーナなりの「弟へのこだわり」が反映されていく。
「……ふふ、やっぱり紺色が似合うわね。フィン、こっちのベルトも試してみて」
エリーナは、フィンの腰に多機能なポーチが付いた革ベルトを巻き、その歪みを丁寧に直してやる。これほどまで至近距離で、自分を気遣うような優しい眼差しを向けられた経験がないフィンは、毒気を抜かれたように大人しくなっていた。
「……なぁ、エリーナ。これ、高すぎるだろ。俺、こんなの着て汚しちまったら……」
フィンの消え入るような声に、エリーナは彼の頭を優しく、しかし力強く撫でた。
「服は汚れるためにあるのよ。あなたが私たちのために荷物を運び、冷たい風から身を守るための『鎧』なんだから、遠慮しなくていいの。……分かった?」
そう言われると、フィンはマントの襟をぎゅっと掴み、小さく「……分かったよ」と呟くしかなかった。
数時間後。
そこには、以前の汚れきった孤児の面影など微塵もない、引き締まった姿の少年が立っていた。
深い紺色のマントを翻し、真新しい革の装備に身を包んだフィンの姿は、どこから見ても「若きポーター」としての風格を備えていた。
「どうかしら、カイ。見違えたでしょう?」
エリーナが満足げに胸を張ると、カイはブーツの先で床を軽く叩き、不敵に笑った。
「ああ。これなら雪の中でも仕事はこなせそうだな。……似合ってるぞ、フィン」
「……けっ、お世辞なんていらねーよ」
フィンは照れ隠しにそっぽを向いたが、その瞳には、かつてのスラムで浮遊していた絶望ではなく、初めて手にした「自分の居場所」への、微かな、しかし確かな誇りが宿っていた。
学術都市の美しい街並みの中、新調された装備に身を包んだ一行は、いよいよ自分たちの使命を分かち合う、運命の会議へと向かう。




