第30話 路地裏の疾風と孤独な魂(前編)
学術都市ヴィルシュタットに到着してから数日が経過した。
エリーナたち学者チームはゼーベルク教授の膨大な書庫に引きこもり、連日「澱」の正体と教会の禁忌についての考察に没頭している。
一方で、護衛の任務から一時的に解放されたカイと騎士たちは、北方の山岳地帯へ向かう次なる旅に備え、休息と準備の時間を過ごしていた。
石畳の路地に、規則正しい時計塔の鐘の音が響き渡る。
カイは肩にハヌを乗せ、この「知の殿堂」の活気ある街並みを散策していた。
「……おい、ハヌ。あまり身を乗り出すな。ストールが解けるぞ」
カイは、エリーナから贈られた赤いストールを器用に直してやりながら、ハヌに声をかけた。
ハヌは4本の腕のうち2本をカイの首に回し、残りの手で興味深そうに露店の並ぶ通りを指差している。
街の中央広場を抜け、古本屋や魔導具店がひしめく少し入り組んだ通りに差し掛かった時のことだ。
すれ違いざま、カイの腰のあたりに軽い衝撃が走った。
「きゅいっ! きゅいぃぃ!!」
肩の上でハヌが鋭く鳴き声を上げ、身を乗り出して一人の影を指し示した。
そこには、汚れた麻の服を纏った小柄な少年が、カイの財布を握りしめたまま全速力で駆け出していく姿があった。
少年は人混みを縫うように走り、突き当たりの石壁を、まるで重力がないかのように軽々と駆け登っていく。
「……いい足をしてるな」
カイは小さく呟くと、膝の奥の歯車を静かに噛み合わせた。
少年は屋根の上に辿り着くと、瓦を蹴って隣の建物へと飛び移り、迷路のようなヴィルシュタットの頭上を逃走していく。
その身のこなしは、この街の構造を知り尽くした「野良犬」のそれであった。
だが、鉄脚の運び屋を振り切るには、その速度はあまりに遅すぎた。
カイは垂直の壁を数歩で駆け上がり、少年の数メートル後方を、息一つ乱さず追走する。
屋根から屋根へ、細い梁を伝うスリリングな追跡劇。
少年が何度か後ろを振り返り、そのたびに驚愕に目を見開くのが分かった。
数分後。
入り組んだ裏路地の行き止まりに面した屋根の上で、少年はついに足を止めた。
肩を激しく上下させ、逃げ切ったと確信したのか、震える手で財布の中身を確認しようとする。
「……そこまでにしておけ。中身はそんなに入ってないぞ」
背後からかけられた声に、少年は弾かれたように飛び上がった。
「な……っ!? なんで、追いつけるんだよ、お前!!」
少年は懐から小さなナイフを取り出し、震える手で構えた。
その瞳には、盗賊のそれというよりは、追い詰められた小動物のような、剥き出しの警戒心と恐怖が宿っている。
カイは近づこうとはせず、ただ少年の細い、しかし強靭な筋肉がつく脚を見つめていた。
「いい足を持っているのにもったいない。その身のこなしができるなら、スリなんてより、荷運び人にでもなった方がよほど稼げるぞ」
「……あ? 何言ってんだよ、馬鹿か。俺みたいなのが、まともに働けるわけねーだろ!」
少年がナイフを振りかぶり、強引に横をすり抜けようとした、その時だった。
「きゅいっ!」
カイの肩から、一筋の白銀の閃光が放たれた。
ハヌが4本の腕を風車のように動かしながら跳躍し、空中で少年の手首を器用に叩く。
「痛っ!?」
ナイフが石畳へと落ちる音と同時に、ハヌは少年の手から財布をひったくり、そのまま鮮やかなバク転でカイの肩へと舞い戻った。
ハヌは「きゅぅ」と満足げに鳴き、取り返した財布をカイへと手渡す。
少年は茫然と空になった自分の手を見つめ、やがて力なくその場に膝をついた。
その瞬間、少年の腹の底から「ぐぅ……」と、情けないほど大きな音が響き渡った。
カイは一瞬だけ呆れたような顔をしたが、すぐに肩の力を抜いた。
「……腹が減っているのか。ついてこい、飯を奢ってやる」
「……はあ? なんで、だよ……」
「気が変わらないうちにしろ。2人分の飯代くらいは入っている」
困惑する少年を促し、カイは夕暮れ時の街へと再び歩き出した。
その背中を、少年は疑いの眼差しで見つめながらも、空腹の誘惑には勝てず、渋々とついていくしかなかったのである。




