第29話 知の殿堂と偏屈なる賢者(後編)
学術都市ヴィルシュタットの郊外に佇むゼーベルク教授の屋敷は、外界の喧騒から切り離されたかのような静寂に包まれていた。
書庫ではエリーナやロバート、そして教授の助手たちが、持ち帰った膨大な記録結晶と「蛇神化の腕輪」の残骸を囲み、数日間、徹夜の作業を続けていた。
「教授、この波形を見てください。大山羊の遺跡で観測された魔力の残滓が、神捨ての遺構のそれと明確な共鳴を示しています」
「……ふむ。やはり『澱』は単なる魔力の腐敗ではないな。これは意志を持った力――かつての戦いで封じられた神の、死にきれぬ『執念』か」
ゼーベルクはエリーナが持ち帰った資料を称賛しつつも、現状の証拠だけでは教会に対抗する後ろ楯としては不十分であると改めて断じた。
彼らは資料の取りまとめと並行し、次なる楔が打ち込まれているであろう場所の特定を急いだ。
古文書と観測データを照らし合わせる緻密な作業。
数時間後、ゼーベルクは埃まみれの大きな古地図の上に、一本のペンを突き立てた。
「北方の山岳地帯。女神イリテスが示した通り、そこには聖典から抹消された『極北の楔』があるはずだ。今の封印の綻び具合から見て、次なる異変は間違いなくそこで起きるだろう」
次なる目的地が定まった瞬間、書庫には学問的な高揚感と、それ以上に重い緊張感が漂った。
一方で、屋敷の離れにある宿舎では、数週間におよぶ死闘と過酷な行軍を終えた騎士たちが、ようやく鎧を脱ぎ捨てていた。
「……あぁ、生きた心地がするな。まともなベッドで寝られるのは、ゼファムを出て以来か」
騎士の一人がそうこぼし、清潔なシーツに身を沈める。
彼らにとって、盗賊団「灰色の飢狼」との戦いは精神を削る過酷なものだったが、ヴィルシュタットの憲兵隊にバザルを引き渡したことで、ようやく肩の荷が下りた。
カイは、貸し与えられた部屋の隅で、自分の装備を確認していた。
肩の上のハヌは、エリーナから贈られた赤いストールを器用に脱ぐと、エリーナからハヌに渡された新鮮な果物を4本の腕で交互に口へ運び、満足げに喉を鳴らしている。
「……お前、相変わらずよく食うな」
カイが苦笑しながらハヌの頭を撫でていると、部屋の扉がノックされた。
現れたのは、少し困った表情をしたゲイルだった。
「カイ、少し良いか。……お前と話がしたいのだから、パンが離れないのだ。ハヌと遊ばせてはくれまいか?」
ゲイルの足元には、真っ白な仔山羊のパンがぴったりと寄り添い、脚に甘えるように頭を擦り付け、メェと鳴いた。
「かなり、懐いてるな」
「……ああ。この仔を見ていると、自分の至らなさを思い知らされる。だが、不思議と心は落ち着いているんだ」
ゲイルは椅子に腰掛け、戦いのための剣を置き、一人の人間としてカイと向き合った。
二人の間に漂うのは、かつての殺気立った空気ではなく、同じ困難を乗り越えてきた者同士の、静かな信頼の残り香だった。
夜が深まり、屋敷の各所に灯された魔導灯が柔らかな光を投げかける。
学者たちの研究が実を結び、再び険しい北方の山々を目指すことになるまでは、この穏やかな時間が続く。
鉄脚の運び屋は、久しぶりの清潔なベッドに身を沈め、窓の外に広がる学術都市の静かな夜空を眺めながら、深い眠りへと落ちていった。




