第29話 知の殿堂と偏屈なる賢者(中編)
深い霧と静寂に閉ざされた屋敷の門前に、エリーナが奏でた呼び鈴の音が重く響き渡った。
庭先に野ざらしにされた不気味な石碑群が、夕闇の中で歪な影を伸ばしている。
その沈黙を破るように、屋敷の奥から鍵が外される金属音が聞こえてきた。
軋むような音を立てて扉が開き、現れたのは、白髪を乱し、古い羊皮紙の隙間から覗くような鋭い眼光を放つ老人――学術都市随一の偏屈者、ゼーベルク教授であった。
「……なんだ、エリーナか。研究の火を絶やさぬよう、門を閉ざしていたはずだが。私の貴重な時間を奪うだけの『対価』を、君は持ち帰ったのだろうな?」
挨拶もそこそこに投げかけられたのは、歓迎とは程遠い冷徹な毒舌だった。
エリーナは苦笑い一つせず、毅然として背筋を伸ばした。
「お久しぶりです、教授。ご期待に沿えるだけの、いえ、期待以上の『真実』を持ってきたつもりです」
ゼーベルクは教え子の言葉にわずかに眉を動かすと、視線を背後に控える護衛の騎士へと移した。
「相変わらず堅苦しい男だ、ゲイル。以前、護衛としてこの屋敷に来た時は、名門騎士の自尊心を鎧のように着込んで周囲を威圧していたが……ふん、いくぶんかマシになったようだな」
かつてであれば、この皮肉に顔を赤らめて反論していただろうゲイルは、今はただ静かに、一人の武人としての落ち着きを持って会釈を返した。
カイとの出会いや、死闘を通じて学んだ「誰を守るべきか」という芯が、彼の内心に揺るぎない静寂をもたらしていた。
老教授の目は次に、淡々と荷を降ろしているカイへと留まった。
その視線は、重い結晶機材の箱を馬車から運んでいた「運び屋」の脚――とりわけ、その膝へと向けられる。
「そこの荷運びの男。……解体して中身を見せろと言ったら、君はどんな顔をするかな? 物理的な限界を超えた出力を維持するその膝、魔術的な駆動系を埋め込んでいるようには見えんが」
不気味な知的好奇心を剥き出しにされたが、カイは特に答える必要を感じず、短く「勘弁してくれ」とだけ答え作業を続けた。
ゼーベルクもまた、カイとの会話を深める気はないらしく、すぐに興味はエリーナの連れている風変わりな同行者たちへと移った。
教授の目は、赤いストールをオシャレに巻いたハヌや、ゲイルの脚に寄り添うパンが、単なる愛玩動物ではないことを見抜いていた。
「白銀の毛並みに四本の腕。そしてその仔山羊か……。伝説のハヌマンの幼体、そして封印術式そのものが肉体を得たような不自然さ。
エリーナ、君は道中でどれほどの『奇跡の残骸』を拾い集めてきたのだ?」
教授の驚愕をよそに、ハヌは「きゅい」と鳴いてストールを整え、パンは静かにメェと応じる。
ゼーベルクは彼らを屋敷の内へと促すと、案内された広大な書庫で、調査隊が命懸けで持ち帰った資料の数々――「蛇神化の腕輪」の残骸と、各地の遺跡で観測した「澱」の変遷データを机に広げさせた。
ゼーベルクは拡大鏡を手に取り、腕輪に刻まれた粗悪な術式を読み解きながら、エリーナが記録した各遺跡の封印波形を、自らの膨大な蔵書と照らし合わせ始めた。
書庫には羽ペンの走る音と、教授の重苦しい呼吸音だけが響く。
やがて、彼は椅子に深く身を沈め、眼鏡の奥の瞳に鋭い光を宿した。
「……なるほど。エリーナ、君たちが持ち帰ったこのデータは、私の仮説を裏付けるに十分なものだ。この波形……まるで、異なる軍勢がぶつかり合った後に残る『火薬の匂い』のようではないか」
ゼーベルクは机の上の資料を一本の線で繋ぐように指でなぞり、確信に満ちた口調で呟いた。
「……やはり、教会がひた隠しにしているのは『神同士の戦』か。聖典では神々は救済者として描かれているが、事実は違う。ここは、かつて神々が互いを滅ぼそうと戦い、敗れた側を地中に封じ込めた巨大な『墓場』なのだよ。澱とは、その封じられた死神の膿だ」
調査隊が各地の遺跡で肌に感じてきた不気味な違和感が、老賢者の分析によって逃れようのない「真実」として決定づけられた瞬間だった。
しかし、教授は厳しい表情でエリーナとロバートを見据えた。
「だが、これほどの真実を学会で発表するには、まだ資料と後楯が決定的に足りない。今のまま世に出せば、君たちは真実を語る英雄ではなく、教会を冒涜する異端者として抹殺されるだろう。今後の調査には慎重を期せ。……分かったな?」
賢者の重い警告に、一同は深く頷いた。
ヴィルシュタットに辿り着いた安堵感は消え去り、一行の胸には、さらなる深淵へと足を踏み入れる覚悟が刻まれたのである。




