第29話 知の殿堂と偏屈なる賢者(前編)
深い霧がゆっくりと晴れ、調査隊の眼前には北方平原に屹立する巨大な尖塔群がその全貌を現した。
学術都市ヴィルシュタット。
国の歴史を積み上げた知の宝庫であり、都市の至る所に配置された時計塔が、規則正しい音を響かせて時を刻んでいる。
交易都市ゼファムからこの都市までは、本来であれば整備された街道を予定通りに進むだけの、それほど苦になる行程ではない。
しかし、道中で遭遇した盗賊団「灰色の飢狼」による執拗な襲撃と、それに伴う命懸けの死闘が、この行軍を過酷なものへと変質させていた。
それゆえに、石造りの巨大な正門は、ようやく辿り着いた安息の地への入り口のように、彼らの目に映っていた。
正門に到達すると、まずはこの旅の大きな懸念材料であった首領バザルの引き渡しが行われた。
待ち構えていたヴィルシュタットの憲兵隊に対し、捕縛されたバザルが引き渡される。
腕輪を砕かれ、魔術的な「蛇神化」の力を失った男は、去り際まで混濁した記憶の淵で不気味な呪詛を漏らしていたが、その声はやがて石畳を打つ足音にかき消されていった。
その様子を、副隊長のロバートや調査員たちは深い安堵の溜息と共に見送った。
彼らにとって、バザルという脅威が完全に去ったことは、この不測の事態に満ちた旅路の第一段階が完結したことを意味していた。
大型馬車三台、中型馬車二台の車列は、憲兵隊の見送りを受けながら、都市の中央へとゆっくりと進み始めた。
ヴィルシュタットの内部は、ゼファムとはまた異なり、知的な静寂と活気に満ちている。
石造りの家々が並ぶ通りには、本を抱えた学生や学者が行き交い、広場のベンチでは年老いた賢者たちが議論に花を咲かせている。
街灯が立ち並ぶ整然とした街並みを、馬車は蹄の音を響かせて進んでいく。
カイは、最後尾で馬車の列に並び、淡々と歩を進めていた。
馬車の窓からは、エリーナが外の景色を眺めていた。
彼女にとって、ヴィルシュタットは単なる目的地ではない。
ごく最近まで、この都市で恩師ゼーベルク教授に師事し、学生としての日々を過ごした研鑽の地である。
石造りの校舎や、通い詰めた図書館。
視界に入る景色の一つひとつが、自らの意志で学問の道を切り拓こうと決意した当時の記憶を呼び覚ましていた。
肩に乗ったハヌは、エリーナから贈られた赤いストールを風になびかせながら、4本の腕を器用に動かして窓枠を掴み、初めて見る巨大な時計塔に興味津々な様子で「きゅい!」と声を上げている。
しかし、一行が目指すのは、この煌びやかな都市の中央部ではない。
車列は石畳のメインストリートを外れ、徐々に人気の少なくなった郊外へと舵を切った。
そこには、都市の喧騒を嫌い、研究に没頭するために森の境界に居を構えたゼーベルク教授の屋敷がある。
周囲を鬱蒼とした森が囲み始め、空気が一段と冷涼なものへと変わっていく。
「……この先だな。屋敷の周辺の気配は、数年前と変わっていないようだ」
先頭を行くゲイルが、警戒心を保ちつつも、どこか感慨深い口調で呟いた。
彼はかつて、エリーナが学生として滞在していた際の護衛任務で、何度もこの屋敷を訪れていた。
当時のゲイルは、名門騎士としての自尊心に凝り固まり、この郊外の静寂すらも「退屈な時間の浪費」としか思わなかった。
だが、今は違う。数々の死闘を潜り抜け、女神イリテスの祝福という重荷を背負い、自らの「嫉妬」を力に変える術を知った今の彼には、この静寂の持つ意味が理解できる気がしていた。
やがて、森の奥深く、深い霧に包まれるようにして、蔦に覆われた古色蒼然たる大屋敷が姿を現した。
庭先には用途不明の観測装置が野ざらしにされ、何かの祭壇を模したような不気味な石碑が散乱している。
一行を乗せた馬車の車輪が、屋敷の重厚な門前でピタリと止まった。
「さあ、着いたわ。……ここがゼーベルク教授のお屋敷よ」
エリーナの声には、恩師との再会への期待と、教授の厳しさを知る者特有の微かな緊張が混ざり合っていた。
カイは普通の荷物を担ぎ直して門を見上げ、この静かな屋敷の中に、「真実」への手掛かりが眠っていることを予感していた。




