2話 禁忌の森と白銀の悪魔(前編)
「おい、聞いたか? 嵐の中、泥濘んだ街道をすっ飛んで村まで薬を運んだ奴がいるらしいぞ」
「冗談だろ。あの嵐の中走った奴がいたのか?舗装されてないから泥濘だらけだぞ。ギルドから警告が出てただろうが」
「本当さ。村の連中は、そいつが嵐の中を矢みたいに走って、薬を届けてくれたって拝んでたぜ」
都市の冒険者ギルド。
喧騒の中、酒杯を傾ける男たちの噂話を耳にしながら、カイは静かに依頼書を受け取っていた。
『鉄脚の運び屋』。
あの雨の夜以来、ギルドの連中はカイをそう呼ぶようになっていた。
どれだけ走っても痛まない。どれだけ悪路を駆けても、足裏から膝にかけて『強固な岩盤を踏みしめているかのような』確かな手応えが返ってくる。
忘れ去られた膝の神『カリウス』から授かった無敵の膝は、今もカイの脚の奥で、カチリと心地よい駆動音を響かせていた。
そんな彼のもとに舞い込んだのは、ある大商人からの破格の緊急依頼だった。
「――期日は明日の正午。隣国の取引先へ、この魔導具を無傷で届けてほしい」
大商人が差し出してきたのは、頑丈な革のトランクに収められた、繊細なガラス細工のような魔導具だった。
街道が土砂崩れで完全封鎖されている今、遠回りをすれば期日には絶対に間に合わない。間に合わせるルートは、ただ一つ。
曰く付きの難所――『禁忌の森』を突っ切る。
かつて迷い込んだ旅人が「白銀の悪魔」に襲われ、命からがら逃げてきた絶望の原生林。
誰も通らない森のため討伐隊が送られたという話は聞いていない。
「……分かりました。俺の脚で、必ず期日までに届けます」
戦うためじゃない。待っている人がいるなら、その荷物を届けるのが運び屋だ。
カイは迷うことなく依頼を引き受け、特製の巨大な荷嚢にトランクを厳重に固定すると、都市の門を飛び出した。
ギチ、ギチ、と鬱蒼とした巨木と蔦が太陽の光を遮る『禁忌の森』。
一歩踏み外せば底の見えない腐葉土の沼が広がり、行く手を阻むように太い根がのたうつ、まさに三次元の迷宮だった。
だが、今のカイにとっては関係ない。
「――ふっ!」
ドン、と地を蹴り、カイは地表を走るのをやめた。
空間を跳び、目の前の巨木の幹へ真っ直ぐに着地する。
――カチリ。
本来なら滑るはずの苔むした樹皮が、カイの足裏が触れた瞬間だけ『舗装された石畳』へと変貌する。
膝のバネが衝撃を100%の推進力へと変換し、カイの身体はそのまま真横の巨木へと弾け飛んだ。
右の幹から、左の幹へ。
さらに頭上を這う太い枝へと、ジグザグに空中を爆走していく。
背中の荷物を微塵も揺らさない、完璧な重心制御。泥を跳ね上げる荒野の激走とはまた違う、圧倒的なスピードの立体機動だった。
(このペースなら、日没前には森を抜けられる……!)
風を切り裂き、順調に距離を稼いでいたカイ。
しかしその時、背後に「異様なプレッシャー」を察知した。
ピキィン。
頭上で、硬い枝が限界までしなるような異音が響く。
続いて、ピキィン、ピキィンと、カイの爆走に追従する形で、背後の頭上から凄まじい速度の『跳躍の気配』が迫ってきた。
ガサガサと木々を揺らすような、雑な動きではない。
獲物を確実に捉えるための、極めて洗練された、かつ圧倒的な質量を持つ何かの気配。
( 追いついつかれてる……!?)
カイの背筋に、冷たい戦慄が走った。
この森の支配者にして、かつて多くの旅人を恐怖に陥れた『白銀の悪魔』の影が、すぐそこまで迫っていた。




