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1話 運命の激走(後編)

「――ッ!?」

ハッと息を吹き返した瞬間、濁流の咆哮と、叩きつける激しい雨の冷たさがカイの感覚を引き戻した。

現実世界。崖の底。

カイの手は、未だに泥に埋もれた古い石像を、ちぎれんばかりの力で握り締めている。

だが、決定的な違いがあった。

(……熱い……っ!?)

右の膝頭が、内側から爆発せんばかりに熱を帯びていた。

つい先ほどまで脳髄を焼き焦がしていた、あの絶望的な激痛が嘘のように消え去っている。それどころか、皮膚の奥の関節が、まるで未知の鋼鉄に置き換わったかのような、凄まじい質量感と力が満ち満ちていた。

カイは泥まみれの顔を上げ、見上げるような泥の崖を睨みつける。

そして、掴んでいた石像から手を離し、力強く一歩を踏み出した。

――カチリ。

脳内で、あの心地よい駆動音が微かに響く。

その瞬間、カイの目が見開かれた。

(なんだ、これ……っ!?)

足を踏み入れたのは、紛れもない底なしの泥濘だ。

普通の人間なら、足首までズブズブと飲み込まれ、二度と引き抜けないはずの泥の罠。

しかし、カイの足裏から膝にかけて伝わってきたのは、絶望ではなかった。

泥の柔らかさを一切無視した、まるで『強固に舗装された岩盤』を全力で踏みしめているかのような、狂おしいほどの硬質の手応え。

泥が沈まない。足を取られない。

踏み込めば踏み込むほど、強靭な膝のバネが、そのまま100%の推進力へと変換される。

「これなら……」

カイの唇から、自然と笑みがこぼれ落ちていた。

前傾姿勢。野生動物のごとく発達した大腿筋が、限界まで圧縮される。

ドンッ!!

一歩。ただの一歩で、崖下の泥が爆発したように弾け飛んだ。

凄まじい風圧が雨のカーテンを切り裂く。

カイは目の前にそびえ立つ、絶望の象徴だった崖の斜面へ向かって、一直線に突撃した。

一歩、二歩、三歩。

垂直に近い泥の斜面すら、今のカイにとっては『均された直線の街道』と何ら変わりはない。泥の壁を、まるですぐそこの床であるかのように、力強く踏みしめて駆け上がる。

そして、崖の最上部、街道の縁へと達した瞬間――。

「おおおおおおおおおッッ!!」

カイは右膝を深く曲げ、渾身の力で大地を蹴り上げた。

バチィィィンッ!!!

空間そのものが爆ぜたかのような、凄まじい破裂音が荒野に木霊する。

次の瞬間、カイの身体は重力の束縛をあざ笑うかのように、天高くへと舞い上がっていた。

豪雨の空をバックに、背中に巨大な荷を背負った少年のシルエットが、大きく弧を描く。

眼下に広がるのは、土砂崩れで完全に崩落した街道。

鳥にでもなったかのような圧倒的な浮遊感の中、カイは街道へと、吸い込まれるように着地した。

――ストッ。

信じられないことに、あれほどの高さを飛び越えて着地したというのに、膝はきしむ音一つ立てず、完全に無音のまま衝撃を受け流していた。

驚愕に震える己の両足を見つめる。

もう、どこにだって行ける。どんな悪路だろうと、今の自分を止めることはできない。

前方を睨む。この先に、薬を待つみんながいる。

「待ってろ……今、届ける!」

悪路を「硬い地面」へと変える鉄脚が、再び爆発的な加速を生み出す。

降りしきる雨を弾き飛ばし、泥煙の尾を引きながら、カイは一本の矢と化して彼方へと消え去っていった。

嵐の残響が響く崖の底。

半ば泥に埋もれた苔むした石像が、一瞬だけ、満足げにカチリと音を立てて微かに輝いた気がした。


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