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第17話 神鳴る森と、燻る残火(中編)

 木々をすり抜けていくカイの背中は、またたく間に小さくなり、深い緑の彼方へと消えていく。

 あまりの速度の差に、ゲイルは奥歯を噛み締めた。

 全力で地を蹴り、長剣の柄を握りしめて木々の間を疾走するが、どれほど息を切らせてもその距離は開く一方だった。

 肺が焼けるように熱い。

 だが、それ以上にゲイルの胸を焦がしていたのは、あの日からずっと燻り続けている惨めさだった。

 代々騎士を輩出してきた名家に生まれ、己のすべてを剣と誇りに捧げてきた。

 誰よりも強くあるために過酷な鍛錬を重ね、若くしてエリーナの護衛を任されるに至ったという自負があった。

 しかし、一介の運送屋『カイ』に出会って全てが変わった。

 私はエリーナ様に気に入られるカイに嫉妬し、殺意を向けた。

 そしてカイに命を助けられ、過ちに気づいた。

 それからは騎士として自分の任務を全うした。

 エリーナ様だけでなく、全てを守ろうとした。

 それだけを胸に自分を守っていた。

 だが、あの遺構で出会ったゴーレムを前に、ゲイルの全ては粉々に打ち砕かれた。

 渾身の斬撃は通じず、ただの一撃でなす術もなく弾き飛ばされ、地面に転がることしかできなかった。

 そして、そんな自分を救い、あの化物と互角以上に渡り合ってみせたのは、魔術も剣術も使えないはずの一介の運送屋『カイ』だったのだ。

(俺のこれまでの歩みは、血の滲むような鍛錬は、一体何のためのものだったんだ……!)

 頭では分かっている。

 カイは奇跡とも呼べる神の祝福を授かったのだと。

 だが、それを差し引いても、命を救われた感謝の裏側で、己の無力さに対するおぞましいほどの嫉妬と劣等感が、ゲイルの心を暗く蝕んでいた。

「くそっ……俺は…醜いな……」

 口をついて出たのは、カイへの憎しみではない。 

 そんな感情を抱いてしまう、己の器の小ささに対する、吐き気がするほどの自己嫌悪。

 だが、それでも、エリーナを守る盾として、今度こそ己の役目を果たしたかった。

 嫉妬に狂い、泥を啜ってでも、強くありたかった。

 気がつけばゲイルの足は止まり、周囲の景色から色彩が消えていた。

 否、止まったのはゲイルだけではなかった。

 風の音が消え、飛び立つ鳥たちの羽ばたきが空中でピタリと止まっていた。

 世界そのものが一瞬にして凍りついたかのような静寂。

『──未だ迷いの中にありますか、我が愛しき子よ』

 脳裏に響くのは、鈴の音のように清らかで、しかしどこか慈愛に満ちた女性の声だった。

 ゲイルは息を呑み、周囲を警戒する。

 だが、敵意は感じられない。

 むしろ、凍えた身体を包み込むような、暖かさがそこにはあった。

「誰だ……っ。姿を見せろ!」

『私は剣と……感情を司る神。そして、誇りを胸に、牙を研ぎ続ける者に微笑む者』

 ゲイルの目の前で、淡い黄金の光が粒子のように集まり、一尊の神々しい女性の輪郭を形作っていく。

『あなたの心に宿る火は、確かに醜く、昏い嫉妬そのもの。泥にまみれ、己の小ささにのたうち回る、矮小な人間の足掻きです』

 女神の紡ぐ言葉は、ゲイルの逃げ場を塞ぐように冷徹だった。

 ゲイルは思わず歯を食いしばる。

 しかし、女神の微笑みは、むしろ深みを増したように見えた。

 その瞳には、侮蔑ではなく、悍ましいほどの熱が宿っている。

『……ですが、私はそんなあなたの醜さが、愛おしくて堪らない。己の弱さに絶望しながらも、その醜い感情さえも糧にして前へ進もうとする、その飢えた魂が、これほどまでに美しい』

「何……?」

『嫉妬を恐れるな、我が愛しき子よ。その醜い感情こそが、あなたをさらなる高みへ引き上げる火種となるのです。私の神力を以て、あなたに剣の祝福を授けましょう。その心の内の炎で、あなたの道を切り拓いて見せなさい。そして愛しき子よ。あなたの行く末を見せなさい。』

 眩い光の奔流が、ゲイルの胸へと流れ込む。

 そして、全身の血管を駆け巡り、身体の隅々までが、かつてないほどの活力で満たされていくのが分かった。

 手にした長剣の白刃が、陽炎の様に揺らめく黒炎を帯び始める。

『さあ、行きなさい。その醜くも美しい炎で、あなたの誇りを示して御覧なさい』

 声が遠ざかると同時に、一気に世界の「時間」が動き出した。

 耳を突き刺す風の音、鳥の羽ばたき、そして凄まじい地鳴りが再びゲイルの感覚を捉える。

「……今のは夢か?……違う」

 ゲイルは足元の小さな石像に気づき、剣を捧げた。

 そして、ゲイルは再び地を蹴った。

 先ほどとはまるで違う。

 足元から爆発的な推進力が生まれ、景色が後ろへと音を立てて吹き飛んでいく。

 己の嫉妬を全て飲み込み、力へと変えたゲイルのは、カイと同じく人智を越えたの領域へと至った。

 これなら、カイに追いつける。

 いや、先に行ける。

 前方を遮る巨大な倒木を、ゲイルは黒炎を纏った長剣の一閃で容易く両断し、爆風を巻き上げながらさらに加速した。


 その頃、はるか前方──かつて「巨躯の山羊」が守っていた遺跡の入り口にいち早く到達していたカイは、ハヌを肩に乗せたまま、その光景に息を呑んでいた。

「……冗談だろ」

 崩壊した石造りの遺跡。

 その中央で、大地を抉りながらのたうつ、凄まじい巨躯があった。

 全長約十メートルを超える巨体、巨大な口と牙を持ち、硬質な漆黒の鱗に覆われた四肢を持つ蛇のような魔獣だった。

 その背中からは不気味な黒い霧が立ち上り、周囲の木々を触れるそばから腐食させている。

 魔獣が巨大な顎を開き、天に向かって咆哮を上げた。

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