第13話 森の侵入者(前編)
見通しの良い平野を進む行軍は、懸念されていた通り、魔物たちとの遭遇を引き起こした。
だが、その戦闘は小規模なものが数回あったに過ぎなかった。
遮蔽物のない平野ゆえにこちらからの発見が早く、何より先頭を進むゲイルの指揮が極めて的確であったため、隊に負傷者を出すこともなく速やかに撃退していった。
前方のゲイルとエリーナが道を切り開き、中央では副隊長のロバートが隊全体のペースを管理し、最後尾ではカイが超重量の結晶機材を背負って黙々と歩を進める。
崖道から解放された隊員達は目に見えて安堵の表情を浮かべており、平野を選んだエリーナの決断と、それを後押ししたカイの現場判断の正しさは、隊の移動速度の向上という形で証明されていた。
そうして平野を突き進むこと半日。エリーナの言葉通り、調査隊の眼前には日光すら遮るほどに木々が生い茂る、広大な原生林が姿を現した。
一歩足を踏み入れれば、そこは外の喧騒が嘘のように静まり返った緑の世界だった。
しかし、その静寂は決して心地よいものではなかった。肌を刺すような濃密な気配――まるで森そのものが、侵入者である自分たちを拒絶しているかのある錯覚さえ覚える。
(……やっぱり、この中か)
最後尾を行くカイは、歩みを止めずに周囲の木々に視線を走らせた。
平野に入った時から両膝に響いていた、あの痛みとも不快感ともつかない奇妙な感覚は、この森に入ってからより一層強くなっている。隣を歩くハヌも、普段の愛くるしい様子はどこへやら、首に巻いた赤いストールを小さく揺らしながら、ぴんと耳を立てて周囲の気配を警戒していた。
異変が起きたのは、森の中を進み始めて間もなくのことだった。
ピキリ、と大気が凍りつくような緊張感が調査隊全体に走る。
「全員、止まれッ!」
先頭を行くゲイルの鋭い怒号が響き渡り、前方で騎士たちが一斉に抜剣する金属音が、後方のカイの耳にまで届いた。
行く手を阻むように立ち塞がっていたのは、一匹の巨大な『山羊』だった。
体長は優に2.5メートルを超えている。その巨体から放たれる圧倒的な威圧感は異様という他なく、何よりもねじくれた大樹の根を思わせる不気味な二本の角が、見る者に本能的な恐怖を植え付ける。
その山羊は、剥き出しの、そして明らかな『敵意』が宿る視線を調査隊へと送り、容赦なく踏み潰そうと前脚に力を込めた。
「ただの魔物じゃないな。……来るぞ!」
前方からゲイルの張り詰めた声が聞こえる。中央のロバートもまた、即座に周囲の隊員たちを下がらせるべく、的確な指示の声を飛ばし始めた。誰もが、その巨躯との衝突を覚悟した。
その刹那。
「キュイッ!!」
前方で不穏な空気を察知したのか、カイの足元にいたはずのハヌが、赤いストールを鮮やかに翻して音もなく駆け出した。木々の間を凄まじい速度ですり抜け、一瞬にして最前線、ゲイルたちの前に飛び出したのだ。
ハヌは山羊の前に立ち塞がると、その小さな体をいっぱいに使って、短く、しかし鋭い声を上げる。
その姿を見た瞬間、踏み出されようとしていた山羊の巨躯が、ピタリと制止した。
山羊の鋭い瞳が、足元に現れたハヌの小さな体を凝視する。
山羊は、ハヌの放つ何か――人間たちには感知できない、だが確実に異質な『何か』を感じ取ったようだった。
山羊の動きから、明確な攻撃の意思が消え、深い猜疑と値踏みするような気配へと変わる。
張り詰めた沈黙が、森の空気を重く支配する。
やがて山羊は、ハヌの後方にいる人間たちの様子をじっと見つめた後、フッと鼻を鳴らした。
そして、前脚の力を緩めると巨体を翻し、生い茂る木々の奥へと音もなく姿を消していった。
「……帰ったか……?」
前方で、ゲイルが剣を構えたまま啞然と呟いた。
森を支配していた異様な緊張感が霧散していくのを感じ、隊員たちは一斉に、冷や汗を拭いながら安堵の息を漏らした。
ハヌが赤いストールを揺らしながら、トコトコと後方のカイの元へと戻ってくる。
「おい、無茶するな」
カイはぶっきらぼうに呟きながら、戻ってきたハヌの頭を軽く撫でた。山羊が去ったことで、両膝に響いていたあの不快な感覚は、ひとひとまず綺麗に収まっていた。
あの不気味な山羊は一体何だったのか。そしてハヌは何を伝えたのか。ロバートやエリーナたちも動揺を隠せないようだったが、カイはただ、自分の膝が呼応したという事実に、この先に待つ『何か』への警戒をより一層強めるのだった。
「状況を確認して、出発しましょう。目的地はもうすぐよ」
前方からエリーナの凛とした声が響き、ロバートの指示のもと、調査隊は異様な緊張感を完全には拭いきれないまま、再び『神捨ての遺構』へと向かって歩み始めるのだった。




