第12話 その神の名(前編)
「神の祝福……?」
静まり返ったテントの中に、エリーナの間の抜けた声が響いた。
先ほどまでの張り詰めた空気はどこへやら、彼女は綺麗な顔を完全にフリーズさせ、目の前であぐらをかいたカイを凝視している。
隣に座るゲイルもまた、涙の乾きかけた目を見開き、彫像のように固まっていた。
「ああ、神様だ」
カイは至って大真面目な顔で、己の両膝を叩いてみせる。
「以前、俺の村にひどい流行病が広まって薬を届けるため、嵐の中大きな街まで走った事がある。その時に、崖崩れに巻き込まれ、崖を滑落して両膝を痛めて歩けなくなったんだ。そして、夢の中なのかな?目の前が一瞬で白く変わってスキンヘッドのおじさんが俺の膝を指差して何か言ったんだ。気がつくと俺は嵐が吹く土砂の中で倒れていたんだが、膝の痛みがなくなって、土砂でできた崖も、泥濘んだ街道も石畳みたいに走れる様になっていたんだ。あれは、膝か何かの神様だったんだろうな。」
最後にカイは固まったままの2人に神から祝福を受けた時のことを話した。
「……歩けないくらいの怪我を負ったのに膝の痛みが無くなったって、その怪我というか膝はどうなってるの?」
一瞬間を置いて意識の彼方から戻ったエリーナは当然のことをカイに質問した。
「膝は触っても普通の膝だ。ただ、あの谷底に落ちた時もそうだが、力を込めようとすると、まるで『強靭な膝』っていう概念がそこにガチッと嵌まるような、不思議な感覚があるんだ。俺がポーターとして重い物を運べるのも、崖底からゲイルを抱えて戻ってこれたのも、全部これのおかげなんだ。……だから、膝の神様の祝福。そうとしか説明がつかない」
「ちょっと、待ちなさい……」
エリーナはこめかみを指で押さえ、深く息を吐き出した。
あまりにも現実離れした、そしてあまりにも斜め上すぎる単語の登場に、彼女の優秀な頭脳でも処理が追いついていない。
「神の祝福……? そんなものが、個人の、しかもよりによって『膝』に宿るなんて話聞いたことがないがないわ。これでも神捨ての遺構を調査するために国立図書館の古の神々についての蔵書は隅から隅まで読破してるのよ。カイ、あなた私をからかっているの?」
「からかってどうする。大体、俺がそんな嘘をつけるように見えるのか?」
「それは……確かにそうだけど」
エリーナは唸った。
カイという男は、職人としての利害やチームの平穏のために“方便”を使うことはあっても、自らの能力を誇示するために突飛な嘘を吐くような人間ではない。
何より、彼の見せてきた数々の『異常な脚力』という厳然たる事実が、その言葉を裏付けていた。
先日の崖道。
ゲイルの手によって意図的に突き落とされた、あの底の見えない暗闇。
カイは結晶機材を背負ったまま、鎧を着込んだゲイルを小脇に抱え、あの崖を跳躍しながら舞い戻ってきたのだ。
人間の筋肉の限界を超えたその質量移動は、それこそ物理的な法則を無視した『魔法』――あるいは『神の御業』とでも定義しなければ説明がつかない。
エリーナ達が使う魔術は学問を学べば誰でも使うことができるが、才能と時間、そしてお金がかかる。
しかし、カイは崖崩れで負傷し、気がつけば走れる様になっていたという。
魔術が使えなかった人間が、突然魔術を使えるようになったと言う話は聞いたことがないが、神様から力を貰ったなんて、古の時代であればまだしも、現代では全く聞いたことがない。
エリーナは腕を組み、テントの天井を見上げながら、自身の持つあらゆる知識の引き出しをひっくり返し始めた。
「……膝……跳ぶ……跳躍……」
ぽつり、とエリーナの唇から、この核心たる単語が零れ落ちた。
「お嬢様?」
ようやく思考が復帰したゲイルが、怪訝そうに彼女を見る。
「ゲイル、私たちは今、かつて神々が地上に遺し、そして捨て去ったとされる古代の領域を調査しているわ。その歴史の断片のなかに、神々の名と権能を記した古い碑文の写しがあったはずよ」
エリーナの瞳に、学者としての鋭い光が宿る。
彼女はカイを真っ直ぐに見据えた。
「カイ。あなた、その夢に現れたという老人から、名を名乗られたの?」
「いいや。じいさんは何も喋ってない。ただ俺の膝を指差して、ニヤッと笑っただけだ。名前なんてあるのか? 俺が勝手に『膝に祝福をくれた神様なんだろう』って思ってるだけだが」
「……いい、カイ。古代の伝承において、肉体の部位や特定の概念を司る神格はいくつか存在するわ。その中に、こう呼ばれる神がいるの」
エリーナは一呼吸置き、その厳かな名を口にした。
「――歩みと跳躍を司る、神『カリウス』」
「カリウス……?」
カイがその名を口の中で繰り返す。
心なしか、その瞬間に彼の両膝の奥へ、目に見えない世界の楔がより深く定着したような、奇妙な感覚が駆け抜けた。
「ええ。確か、カリウスはかつて神たちの進軍を支え、山を越え、海を渡る脚力を与える神とされていたわ。今は神々が世を捨てて権能は失われたはずだったけれど……」
エリーナは一歩、あぐらをかくカイへと歩み寄り、その膝をじっと見つめた。見ても触っても何も分からない、だが確かにそこに宿る、世界の理を書き換えるほどの力。
「神の力が、直接『人の肉体』に作用しているなんて事例、聞いたことがない。……でも、もしそれが本当に『神カリウス』の力の残滓なのだとしたら、あなたのあの常軌を逸した脚力にも、説明がつくわ」
エリーナの言葉を聞いていたゲイルが、己の手のひらを見つめながら、深く、深く息を吐き出した。
「……そうか」
ゲイルの呟きには、落胆ではなく、どこか突き抜けたような納得の響きがあった。
「俺は、そんな存在と競おうとしていたわけか。人間としての技量や、騎士としての鍛錬の次元ではない……神の力をその身に宿した男に、嫉妬し、勝手に絶望していた。本当に、道化だったな、俺は」
自嘲気味に笑うゲイルの肩を、カイはあぐらをかいたまま、腕を伸ばしてポンと叩いた。
「言っただろ。お前は悪夢を見ていただけだ。神の祝福があろうがなかろうが、俺がただの平民のポーターだってことは変わりない」
カイは不敵に笑い、エリーナを見上げた。
「名前が分かったのはありがたいが、俺としては、カリウスだろうが何だろうが、荷物が運べれば何でもいい。」
その言葉に、エリーナの端正な唇が、ようやくいつもの綺麗な弧を描いた。




