第10話 職人の嘘、騎士の背中(中編)
――最後尾で発生した滑落事故。
先頭付近で緊張に身を硬くしていたエリーナのもとへ、ふたたび後方から伝令が息を切らせて駆け戻ってきた。
その顔は、驚愕と混乱で激しく強張っている。
「お、お嬢様! 伝令です! カイとゲイル様が……戻られました!」
「えっ……!? 戻ったって、無事なの!?」
「はい! カイがゲイル様を抱え、下から崖の上に飛び上がってきたと……! 背負っていた機材や二人自身も、信じられないことに『無傷』です!」
伝令の報告を聞いたエリーナは、あまりの衝撃に言葉を失った。
あの深淵のような奈落に落ちて、機材も含めて無傷で戻るなど、常識ではあり得ない。
しかし、ポーターとしてのカイの「人外の能力」の片鱗を知る彼女は、驚きとともに、張り詰めていた心の糸がふっと緩むのを感じた。
――だが、エリーナの目が届かない最後尾では、二人が戻ったことで不穏な空気が一気に爆発しようとしていた。
へたり込むゲイルの近くを歩いていた大柄な護衛隊員が、一歩前に進み出ると、地面のゲイルを厳しい目で見下ろした。
「おい、ゲイルの旦那……あんたに一つ聞きたいことがある」
「なんだ……」
ゲイルがびくりと肩を跳ね上げる。その瞳には、自らの過ちの罪悪感が色濃く残っていた。
「さっき、あんたが崖下に落ちていく直前……あんたの叫び声が聞こえたんだよ。『死ね』ってな。……悲鳴にしちゃあ、妙に物騒な言葉だ。あんた、まさかカイをわざと後ろから突き落とそうとしたんじゃないだろうな?」
「なっ……!」
隊員の剥き出しの疑惑の言葉に、周囲の学者たちからも「やっぱりそうなのか」「普段から目の敵にしていたしな」と、トゲのある囁き声が漏れ始めた。
ゲイルは完全に言葉を失った。
突きつけられたのは紛れもない事実だ。
自分は嫉妬と狂気に駆られ、この平民を殺そうとした。
言い訳の余地などない。
ゲイルは真っ青な顔で唇を震わせ、すべてを白状し、罰を受け入れようと、重い口を開きかけた。
「俺、は……俺が、やったのは――」
「聞き間違いだ」
ゲイルの言葉を遮るように、低く硬い声が響いた。
発言したのは、他でもないカイだった。
「え……?」
ゲイルが弾かれたようにカイを見上げる。
カイは表情を一切変えないまま、詰め寄った隊員たちを見据えて淡々と言葉を続けた。
「霧で足元が滑り、俺の身体が崖の外へ傾いた。それに気づいたゲイルが、死に物狂いで俺の腕を掴み、引っ張り上げようとしたんだ。その時の声を、お前たちが聞き間違えただけだ」
「だが、カイ! 俺は確かに――」
「『死ぬな』、だ」
カイの冷徹な一言が、隊員の反論を完全に圧殺した。
「ゲイルは俺に『死ぬな』と叫んだ。結果的に機材の重さで二人とも落ちたが、俺が今こうして無傷でここにいるのは、この男が最初に俺の身体を支えて落下の衝撃を殺してくれたからだ。これ以上、俺の命の恩人を疑うのはやめてもらいたい」
カイの言葉には、一切の揺らぎがなかった。当事者であるカイ自身が「助けようとしてくれた恩人だ」と言い切った以上、周囲の者たちはそれ以上口を挟むことができなくなる。
隊員たちも、釈然としない表情を浮かべながらも、じりじりと引き下がっていった。
周囲の視線が外れた瞬間、ゲイルは信じられないものを見る目でカイを見つめた。
なぜ庇う。なぜ嘘をつく。自分を糾弾すれば、この男は一言で俺を社会的に抹殺できたはずなのに。
ゲイルの視線に気づいても、カイの目はどこまでも冷ややかだった。
(当然だ。ここでこいつを罪人として捕らえれば、隊の空気は最悪になる。誰が誰を突き落とすか分からないような不信感を植え付ければ、これからの過酷な道中、チームは確実に崩壊する)
カイにとって、ゲイルへの個人的な怒りなどどうでもよかった。
プロのポーターとしての最優先事項はただ一つ。この『無事に依頼主と物資を目的地へ送り届けること』。
そのためには、ゲイルの犯行を暴くことよりも、隊の結束を維持するための「嘘」を選択する。
それが、カイの冷徹極まるプロとしてのビジネスライクな判断だった。




