第9話 奈落の底の歪んだ本音(後編)
谷底に漂う冷たい霧の中、しんと静まり返った空間にゲイルの荒い息遣いだけが響いていた。
腰を抜かしたまま地面にへたり込むゲイルは、涙にまみれた顔を歪め、己を救った宿敵――カイを睨みつけた。
「なぜだ……! なぜ俺を助けた……! 俺はお前を殺そうとしたんだぞ! 大人しく死ねばよかったんだ、お前のような平民の荷物持ちなんか!」
ゲイルは地面を拳で叩き、堰を切ったように感情を爆発させた。
その叫びは、エリート騎士として育てられてきた彼の、歪んだ世界の崩壊の音でもあった。
「俺は幼い頃から、高貴なる血筋として、平民とは違うのだと教え込まれてきた!それなのに、エリーナ様も、みんな平民のお前のばかりを見て……誰も俺を見ない!俺の誇りを、お前が全部踏みにじったんだ!」
ゲイルの目から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。
「俺は……俺はただ、エリーナ様をお救いしたかっただけだ!今回の調査が失敗すれば、お嬢様は街へ連れ戻される。だが、エリーナ様の父君のヴァルハイト閣下は俺にこう約束してくださったんだ!『調査が失敗に終われば、エリーナはお前と婚約させる。お前が夫となって、我が家の一員としてエリーナを守ってやってくれ』と!俺がこの手で調査を失敗させれば、お嬢様は俺のものになり、俺が一生あの方を幸せにできるはずだったんだ!なのに、お前が現れて、ますますエリーナ様は夢を見るようになった!あの方は夢を諦めない!俺の手の届かないところへ行ってしまう……!」
涙ながらに吐き出されたゲイルの本音。
それを静かに聞いていたカイの脳裏に、数日前の夜、湖畔でエリーナが寂しげに語った父からの言葉が鮮明に蘇った。
『何の成果も得られずに戻ってきたなら……その時はすべての研究を禁止し、私が用意した相手と結婚してもらう』
エリーナの言葉、そして今ゲイルが口にした言葉。
2人の矛盾に気づいたカイは目を鋭く細め、冷徹な声音で、ゲイルの言葉を遮った。
「……おい。それはお前が、その父親に騙されているだけだ」
「な……んだと……?」
ゲイルが涙に濡れた目を丸くする。カイは淡々と、しかし決定的な事実を突きつけた。
「エリーナ本人から聞いた。調査が失敗した時、父親が決めた『どこか別の貴族』のところに嫁がされるとな。そこに、お前の名前は一言も出てこなかったぞ」
「そんな、バカな……! ヴァルハイト閣下が俺に、嘘を吐いたというのか……!?」
「お前は、エリーナを街へ引き返させるために都合のいい『監視役』として使われただけだ。お前がエリーナと婚約できる保証などどこにもない。もし本当に婚約させる気があるなら、最初からエリーナ本人にそう伝えているはずだ。」
ゲイルは雷に打たれたように硬直した。
自分が信じていた「エリーナを救うための約束」が、ただの過保護な父親による二枚舌の罠であり、自分は愛する人の夢を壊すためだけに踊らされていた道化だったのだと、ようやく気づかされたのだ。
「俺は……俺は、ヴァルハイト閣下に利用されて、エリーナ様の自由を、一番大切なもの奪おうとしていたのか……。」
ゲイルは己の卑劣さと醜さを深く恥じ、激しい後悔の念に震えながら項垂れた。
そんな男を、カイは静かに見つめる。
「貴族の考えなんてものは俺には分からない。だが、いまの俺たちは、遺跡を目指すひとつの『調査隊』だ。協力し合わなければ、生きて帰ることさえ難しい。エリーナのことが本当に大切なら……自分の今の姿が彼女に誇れるものなのか、一度よく考えてみることだな」
その言葉に、ゲイルは力なく、しかし確かに頷いた。
彼は震える手で地面を押し、なんとか立ち上がると、必死に上を見上げた。
「戻らなければ……。エリーナ様の元へ戻り、騎士として、今度こそあの方の力に……!」
だが、ゲイルは茫然と立ち尽くすしかなかった。
周囲にそびえ立つのは垂直に近い、掴みどころのない岩壁だけだった。
その時、カイがゲイルの肩をポンと叩いた。
「しっかり掴まっていろ」
「え?」
カイは再び、ゲイルの金属鎧を片腕でガッチリと抱きかかえた。
背中には大人二人分を超える結晶機材の箱、片腕には屈強な鎧の騎士。
常人であれば直立することすら不可能な総重量。
だが、カイの『膝』が、大地のエネルギーを吸い上げるように深く沈み込んだ。
限界まで溜められた筋肉のバネが、一瞬ののちに解放される。
ドンッ!!!
大気が爆発したかのような駆動音が谷底に響き渡り、二人の身体は真上へと跳ね上がった。
一歩、また一歩。カイは重力をあざ笑うかのように、垂直の崖を弾かれた矢のような速度で駆け上っていく。
「な、なんだこれは……! お前は本当に、人間なのか……っ!?」
ゲイルが風圧のなかで驚愕の悲鳴を上げる。
自らの過失に気づき、改心を誓ったゲイルを抱え、カイの身体は霧を突き抜け、光が差し込む崖の「上」へと一直線に突き進んでいくのだった。




