第9話 奈落の底の歪んだ本音(前編)
二日間の休息を終えた調査隊は、前夜の検討会で決定した『南側の崖道』へと足を踏み入れていた。
だが、その日の霧は昨日までとは比較にならないほどに濃かった。
立ち込める白霧は、まるで生き物のようにうねりながら調査隊の視界を容赦なく奪っていく。
数歩先を行く仲間の背中すらおぼろげで、足元を見下ろせば、そこには底も見えない暗い谷底が広がっている張り詰めた難所だった。
「全員、足元に気をつけて! 壁際に体を寄せて、ゆっくり進むのよ!」
先頭を行くエリーナの声が、霧に遮られてくぐもって聞こえる。
彼女のすぐ傍らには、白銀の小獣ハヌがぴたりと寄り添い、周囲の気配を警戒していた。
調査隊の面々は、エリーナの指示通り細心の注意を払いながら、一列になって亀のような歩みで進んでいく。
その列の最後尾。
カイは、変わらず超重量の結晶機材をしっかりと背負い、一歩一歩確実に進んでいた。
悪路であればあるほど、彼の膝の真価が発揮される。
荷物の重心をコントロールし、滑りやすい岩肌を一歩ずつ確実に踏みしめていく。
――だが、その背後に迫る、音のない殺意があった。
霧が一際濃くなり、前後の視界が完全に遮断された瞬間。
先頭付近にいたはずのゲイルが、気配を消してじりじりと列を下がり、カイの真後ろへと迫っていたのだ。
背負子への細工という搦め手を、カイの『習慣』だけで無力化されたゲイルの心は、すでに限界を迎えていた。
エリート騎士としてのプライドはズタズタになり、焦燥と歪んだ嫉妬が彼の理性を完全に焼き尽くしていた。
(この霧と崖だ。ここで突き落とせば、誰もがただの滑落事故だと思う。お嬢様を惑わす不浄な平民め、荷物もろとも谷底へ消え失せろ!)
ゲイルは声を殺し、全身の力を足に込めた。
そして、無防備に背中を向けているカイに向けて、力任せの体当たりを敢行した。
「死ねぇっ!!」
ドン、と鈍い衝撃音が霧の中に響く。
いくら体幹の優れたカイとはいえ、大人一人が命がけで放った不意の一撃、それも超重量の荷物を背負い、片側が断崖絶壁という状況では、踏みとどまることは不可能だった。
カイの身体が、ふわりと崖の外――底の見えない奈落の闇へと投げ出される。
「うわっ!」
「ははっ、やった――」
ゲイルの顔に、下劣な歓喜の笑みが浮かんだ。
だが、それは一瞬のことであった。
崖下へと落下する刹那。
無意識に伸ばしたカイの右手が、電光石火の速さで、ゲイルの金属鎧の肩当ての隙間をガッチリと掴み取ったのだ。
カイの指先は、万力のような力で鋼鉄の縁に食い込んでいる。
「え――あ?」
ゲイルが間抜けた声を上げる間もなく、超重量の結晶機材とカイの体重がゲイルの身体を崖の外へと猛烈な力で引きずり込む。
「う、うわああああああああっ!?」
ゲイルの短い悲鳴とともに、二人の身体はもつれ合うようにして、白い霧が巻く谷底の闇へと真っ逆さまに落下していった。




