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第8話 霧の迷い森と、職人の矜持(後編)

 神秘的な湖畔に到着してから、調査隊は二日間の滞在を決め、極限まで摩耗していた肉体と精神を休ませることにした。

 だが、休息の間も、目の前に広がる「霧の迷い森」を突破するための準備は着々と進められていた。

 数名の斥候は、昼間のうちに森の奥へと何度も足を運び、安全に進める足場や地形の情報を貪欲に集めていた。

 その中に、カイの姿があった。

 他の者が疲労を訴える中、カイはそこまでの疲労は感じてはいなかったことや、人生を賭けたエリーナの為にできることを考えた時に、走ることしか思い浮かばなかった為志願したのだ。

 そして滞在二日目の夜。

 エリーナの天幕では、次の目的地への進路を決める重要なルート検討会が開かれていた。

 天幕の中央に広げられた古びた地図を囲むのは、エリーナ、数名の学者、そしてカイだった。

「カイ、あなたが今日見つけてきてくれた南の崖道のルートだけれど……本当に結晶機材を背負ったまま通れるかしら?」

「傾斜は急だが、地盤は硬い。俺なら問題ない。皆も時間をかければ歩けるだろう。」

 淡々と、しかし昼間の入念な偵察に基づいた的確な助言を口にするカイ。

 今や学者たちも、この寡黙なポーターに信頼を寄せており、熱心に彼の言葉をメモしている。

 ――その光景を、天幕の外から忌々しげに覗き見る影があった。

 ゲイルである。

「くそが……平民の荷物持ちの分際で、お嬢様と対等に机を囲むなど、片腹痛いわ……!」

 ゲイルの心は、焦燥と歪んだ嫉妬で完全に狂っていた。

 あの平民は戦うことは出来ないと聞いているが、あの白銀の珍獣がいる時には手を出せない。

 ならば、あの男の「運び屋としての存在価値」を根底から叩き潰せばいい。

 カイが会議に没頭し、自分の荷物置き場を完全に空けている今こそが、最大の好機だった。

 ゲイルは足音を殺し、暗闇に紛れてカイの天幕へと忍び寄った。

 そこには、あの超重量の結晶機材を運ぶための、頑丈な革と木で作られた背負子が静かに置かれていた。

 ゲイルは懐から短剣を抜くと、背負子の革紐の根元へ、深く切り込みを入れた。

(ふん、これなら明日出発してしばらくすれば、荷物の重みで完全に引きちぎれて、機材は真っ逆さまだ。お嬢様の人生を賭けた研究機材を木っ端微塵にしたポーターなど、その場で即刻クビ……調査もそこで終了だな!)

 暗闇の中で、ゲイルは音を立てずに歪んだ笑みを浮かべ、己の天幕へと戻っていった。

 ――翌朝。

 二日間の休息を終え、活力を取り戻した調査隊が、霧の森へと出発する準備を始めた。

 ゲイルは、今か今かとカイが背負子を担ぐ瞬間を、ニヤニヤとした笑みを隠しながら遠巻きに見つめていた。

 しかし、カイの行動は、ゲイルの予想とは全く異なるものだった。

 カイは荷物を背負う前に、跪いて背負子をじっくりと見つめていた。

 それは、彼が毎朝欠かさず行う、プロのポーターとしての『儀式』――徹底的な道具の点検だった。   

 命を預ける道具のわずかな違和感も見逃さない。

 それが彼の日常だった。

 カイの指先が、ゲイルが切り込みを入れた革紐の根元でピタリと止まる。

 その指先は、不自然に毛羽立った革の傷に触れていた。

 明らかに、刃物で入れられた、深い一条の切り込み。

 遠くで見守っていたゲイルの心臓が、跳ね上がった。

(クソっ……。 なぜ担ぐ前に気づく!たが、壊れたままで担げまい!)

 カイは表情一つ変えず、犯人を探す素振りも見せなかった。

 そんな無駄な時間を割くよりも、今すべきことは荷物を完璧に運ぶための処置だけだからだ。

 カイはバックパックの中から予備の極太の麻紐と、補強用の予備革を取り出すと、手慣れた手つきで傷ついた部位を限界まで強固に巻き直した。

 ものの数分で、背負子は頑丈に補修されていく。

 トントン、と補修した部位を叩いて強度を確かめると、カイは何事もなかったかのように超重量の結晶機材箱を背負い、立ち上がった。

 その背中は、ゲイルの小細工など最初から存在しなかったかのように、あまりにも堂々としていた。

「それで、出発します!」

 調査隊の面々を確認したエリーナの声が響き、調査隊が再び霧の奥へと歩き出す。

「……あ、あり得ん……なんだあの男は……!」

 列の先頭へ歩きながら、ゲイルは屈辱と怒りで全身を震わせていた。

 自分の仕掛けた完璧なはずの罠が、声を荒らげるまでもなく、ただの「出発前の点検」という当たり前の習慣だけで、完全に、無意味になったのだ。

(搦め手が通じないというのなら……もう手段を選んでいられるか。次の目的地に着くまでに、私の手で直接、あの男を葬り去ってやる……!)

 ゲイルの目に、もはや騎士としての誇りは微塵も残っていなかった。

 ただの暗い殺意を宿したゲイルの後ろ姿を、カイは何も言わず、ただ静かに見つめながら、一歩一歩、確実な足取りで霧の森を進んでいくのだった。

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