第8話 霧の迷い森と、職人の矜持(中編)
夜が更けるにつれ、ハヌが見つけた湖の周囲は、より一層幻想的な静寂に包まれていった。
鏡のような水面には、夜空に浮かぶ満月がくっきりと映り込み、時折吹く微風がかすかな銀の波紋を広げている。
張り詰めた強行軍の連続だった調査隊にとって、この場所は文字通りのオアシスだった。隊員たちは火を囲んで穏やかに談笑し、連日の疲労を静かに癒やしている。
そんな中、エリーナは一人、湖畔の岩に腰掛けて月を見つめていた。その膝の上では、ハヌが丸くなって気持ちよさそうに寝息を立てている。
ふと、近くの草を踏み鳴らす規則正しい足音が聞こえた。振り返ると、そこには夜の巡回を終え、背負子や機材の最終点検を終えたカイが立っていた。
「……お疲れ様、カイ」
エリーナが声をかけると、カイは短く「ああ」とだけ答え、少し離れた位置で足を止めた。
エリーナはハヌの白い毛並みを優しく撫でながら、ずっと胸の中で不思議に思っていたことを口にした。
「ねえ、カイ。前から聞きたかったのだけれど……。あなたはなぜ、そこまで荷物を運ぶことにこだわるの?あなたの身体能力なら騎士や冒険者、何にだってなれると思うのだけど?」
月光に照らされたカイの横顔は、相変わらず感情の起伏が見えなかった。しかし、その声には、職人としての揺るぎない芯があった。
「俺は今も昔もただの荷運び屋だ。それ以外にやりたいことはないよ。だから、運ぶと決めた依頼品は、どんな悪路だろうと、無事に目的地に届ける。それがプロの仕事だ。それに今回は……」
カイは一度言葉を切り、エリーナを真っ直ぐに見つめた。
「エリーナ。今回の旅は何か譲れないものがあるのだろう」
その言葉に、エリーナは小さく息を呑み、それから観念したように寂しげな、だがどこか愛おしそうな苦笑を浮かべた。
「……気づかれていたのね。ええ、その通りよ。私には、この調査が失敗したら、もう『次』はないの」
エリーナは湖面に映る月を見つめながら、ぽつりぽつりと自らの胸の内を明かし始めた。
「私のお父様はとても過保護なの。私が幼い頃から神話や古い遺跡に興味を持って、いつか遺跡調査の旅に出たいと、言っていたのをずっと『危なっかしい』って大反対していたわ。女の子なんだから、そんな埃っぽい過去の遺物をあさるなんて無駄なことはやめて、早く安全で立派な家柄のところへ嫁ぎなさいって……そして」
彼女の脳裏に、出発前に父親から告げられた冷酷な言葉が蘇る。
『エリーナ、これが最後だ。一度だけ、お前の気の済むように調査隊を出してやる。だが、何の成果も得られずに戻ってきたなら……その時はすべての研究を禁止し、私が用意した相手と結婚してもらう』
エリーナは膝の上のハヌをそっと抱きしめ、強い光を宿した瞳でカイを見た。
「だから、お父様は自分の信頼する若い騎士――ゲイルを私の監視役として同行させたの。私が途中で音を上げて、すぐにでも街へ引き返すようにね。この旅は、私が私の人生を、大好きな学問の道を歩み続けるための、自由を賭けた最初で最後の戦いなの。あの結晶魔導具は、遺跡の真実を解き明かすための私の命。だから、あなたが無事に運んでくれていることが、本当に嬉しいのよ」
エリーナの覚悟の重さを知ったカイは、静かに目を伏せた。
過保護な親から自立しようと必死にもがいている高貴な令嬢。
目の前の少女は自らの足で人生を歩もうと、極限の旅に身を投じている。
「……そうか」
カイの返答は、相変わらず短かった。しかし、その声音には、単なる依頼主に対するものを超えた、静かで、強固な誓いが込められていた。
「なら、安心しろ。お前が夢を叶える場所まで――俺が送り届けてやる」
無愛想だが、これ以上ないほどに頼もしい職人の約束。
エリーナの胸に、じんわりとした温かいものが広がっていく。
「ありがとう、カイ」と微笑む彼女の横顔を、静かな湖水と月光が優しく包み込んでいた。
だが、そんな二人の美しい対話を、暗闇の奥から、憎悪に歪んだ目で見つめている影があることに、誰も気づいていなかった。




