1話 運命の激走(前編)
びしゃり、と冷たい泥が頬を叩いた。
「――ハッ、ハッ、ハッ……!」
18歳のカイは、濁流のような雨の中、ひたすら脚を動かしていた。
背中には、大人の身体ほどもある巨大な荷嚢。
中身は、彼の故郷である開拓村で大流行している、熱病を抑えるための『緊急特効薬』だ。
現在、都市と村を繋ぐ『街道』は、最悪の地獄と化していた。
連日の豪雨による土砂崩れ。
舗装などされていない大地は底なしの泥濘となり、馬車はおろか、並の旅人なら一歩踏み出した時点で足首まで埋まり、身動きが取れなくなる。
並の運び屋なら、とっくに白旗を上げて都市の宿に引き返している悪路。
だが、カイは止まらない。いや、止まるわけにはいかなかった。
(俺が届ける。……俺が、いま届けなきゃ、みんな死んでしまう……!)
衣服の隙間から覗く太ももとふくらはぎは、長年の運び屋稼業によって、まるで野生動物のように引き締まり、異常なほど発達している。
飛沫を上げ、泥を蹴り、カイはただひたすらに前だけを見て突き進んでいた。
だが。
道は、人間の覚悟など嘲笑うかのように残酷だった。
ドクン。
出発して数時間。
限界を超えて走り続けたカイの右膝に、とうとう焼きゴテを押し当てられたかのような激痛が走った。
「が、あ……ッ!?」
一歩ごとに、脳髄を直接突き刺してくるような鈍い痛み。
長距離の激走による疲労、そして悪路の衝撃。そのすべてが、人間の歩行における最重要関節――『膝』の寿命をガリガリと削り取っていた。
血管がちぎれんばかりに脈打つ右膝を、カイは自らの拳で強く叩きつける。
痛みを気迫で麻痺させるように奥歯をガチガチと鳴らし、凄絶な形相のまま、決して速度を落とさない。
しかし、不運は重なる。
ゴゴゴゴゴゴ、と足元から不穏な地鳴りが響いた。
「え――」
気づいた時には、遅かった。
豪雨で完全に地盤が緩んでいたのは、街道の路面だけではなかったのだ。
視界が、ぐにゃりと歪む。
足元の地面ごと、斜面が凄まじい音を立てて崩落した。
「うわあああああああッッ!?」
抗う術などなかった。
カイは背中の重い荷物ごと、濁流となった土砂に巻き込まれ、見上げるような崖下へと真っ逆さまに転落していった。
視界が激しく回転し、泥と岩の衝撃が全身を襲う。
――ドサァッ!!
どれほどの時間が経っただろうか。
叩きつける雨の冷たさで、カイは辛うじて意識を浮上させた。
「が、はっ……げほっ、ごほっ……!」
口の中に入った泥を吐き出し、這いつくばったまま顔を上げる。
幸い、大量の泥がクッションとなり、骨折などの致命傷は免れたようだった。背中の荷物も、傷ついてはいるが中身は無事だ。
だが、安堵したカイの目に飛び込んできたのは、本当の絶望だった。
「……嘘、だろ……」
見上げるような高さの、ぬかるんだ崖。
自分が落ちてきたルートだ。
まともな足場など一つもない。
ただでさえ悪路に体力を奪われ、まともに立つことすら難しいというのに。
何より――。
「あ……が, あああああッ!!」
立ち上がろうとした瞬間、右膝に狂うような激痛が走った。
落下の衝撃で、限界だった右の膝頭を、岩に強打してしまっていた。
激痛に身体が激しく震え、まったく力が入らない。
この状態で、あの崖を上り詰めて街道に戻る?
常識で考えれば、100%不可能な絶望的状況だった。
雨は激しさを増し、体温を容赦なく奪っていく。
指先が震え、体力が底を突きかけ、視界が白く霞み始める。
脳裏に、村で苦しむ妹の顔が、優しかった近所のおじさんたちの顔がよぎる。
悔しさと痛みに視界がにじみ、目尻から溢れた涙が、激しい雨の滴と混ざり合って泥に落ちた。
それでもカイの目は死んでいなかった。泥まみれの顔を歪ませ、唇から血が出るほど強く噛み締めながら、なおも崖の上を睨みつける。
一歩でも前へ、一歩でも上へ。
引きずった右膝が泥に深い溝を刻む中、カイは朦朧とする意識を振り絞り、這い上がるための足がかりを求めて、泥まみれの手をがむしゃらに上方へと伸ばした。
――ガチリ、と。
滑る泥の感触の奥で、指先が確かな「硬い拒絶」を捉える。
それが何かも確かめる余裕すらない。カイはただ、これ幸いとばかりにその冷たい硬度へ必死にしがみつき、指をへし折らんばかりの力で強く握り締めた。
それは、崖の土砂に半ば埋もれるようにして佇んでいた、苔むした小さな石像だった。
いつからそこにあるのかも分からない。
激しい雨風に晒され、頭部や腕の形はとうに風化して崩れている。かろうじて「かつて人の形をしていた」ということだけが判別できる、世界から忘れ去られた神の遺物。
言葉にはならなかった。声を出す気力すら、とうに尽き果てている。
ただ、怨念にも似た凄まじい執念を込め、カイは石像を掴んだ手に全体重をかけ、ボロボロの右膝にグッと力を込めた。
死んでも、諦めない。
少年の意地と祈りが、泥まみれの掌を通じて、物言わぬ石像へと伝わった――その瞬間。
ドクン……ッ!!
世界から、すべての音が消えた。




