第7話 忘却の旧街道と、紅蓮を纏う白銀(後編)
静まり返った荒野に、生々しい獣の血の匂いと、激戦の名残である土煙だけが風に巻かれて消えていく。
呆然と立ち尽くす調査隊の面々は、信じられないものを見たというように、エリーナの腕の中に収まった小さな白銀の獣――ハヌを見つめていた。
「あれが、神の使いハヌマン……」
「ああ……俺たち護衛の出る幕なんて、最初からなかったじゃないか」
先ほどまで恐怖に震えていた学者たちも、今は感嘆の声を漏らし、手帳に筆を走らせようとしている。
張り詰めていた戦場の空気が一気に弛緩していく中、エリーナはハヌの温かい体を抱きしめ、その小さな頭を何度も優しく撫でた。
「ありがとう、ハヌ。本当に強くて、頼もしいのね……。あなたがいてくれなかったら、私は今頃どうなっていたか……」
エリーナの言葉は、偽りのない心からの感謝だった。
ハヌは「きゅぅ」と満足そうに喉を鳴らし、誇らしげに首元の赤いストールを揺らしている。
だが、その微笑ましい光景を、はらわたが煮えくり返るような思いで見つめる男がいた。ゲイルである。
「お、お嬢様! そんな正体の知れない猿に騙されてはなりません!」
ゲイルは引きつった顔で長剣を鞘に収めると、大股でエリーナへと歩み寄った。
全身から冷や汗を流し、息を荒く乱した無様な姿のまま、何とか自らの威厳を取り戻そうと声を張り上げる。
「所詮は野良の獣です! 今回は偶然、上手く奇襲が噛み合っただけに過ぎません! やはり、お嬢様の騎士であるこの私こそが、真にお嬢様をお守りすべき盾なのです。さあ、その不浄な獣をこちらへ。私がしかるべき檻に入れて管理いたします!」
そう言ってハヌに手を伸ばそうとしたゲイルだったが、エリーナはその手を冷徹な一瞥で撥ね退けた。
「触らないで、ゲイル」
「お、お嬢様……?」
「あなたが他の魔物に手こずっていた間、私に迫る危機に真っ先に動いてくれたのはハヌよ。偶然などではないわ。この子の戦いぶりは、古の英雄譚に並ぶほど見事だった。不浄などと、二度とそんな無礼な言葉を口にしないで」
エリーナの言葉は冷たく、そして明確な拒絶の意思が込められていた。
ゲイルの顔が、屈辱と羞恥でみるみるうちに真っ赤に染まっていく。
個人的に好意を寄せ、自らの手柄とするはずだった遠征で、エリーナからこれほど冷酷に突き放されたのは初めてだった。
ゲイルは拳を血がにじむほど強く握りしめ、その憎悪の矛先を、隊の最後尾へと向けた。
そこには、相変わらず超重量の機材箱を担いだまま、何が起きても動じない大樹のように佇んでいるカイの姿があった。
「……おい、ポーター」
ゲイルは周囲に聞こえないほどの低い、地を這うような声でカイに近づいた。その目は嫉妬と逆恨みで完全に濁っている。
「調子に乗るなよ、平民が。飼い犬が少しばかり吠えたからといって、お前自身が強くなったわけではない。……ただの荷物持ちの分際で、俺にこれ以上の恥をかかせるなら、この先どうなるか分かっているんだろうな」
あからさまな脅迫だった。
しかし、カイはゲイルの視線を真っ向から受け止めると、ただ一言、感情の起伏が一切ない声で答えた。
「俺の仕事は、この荷物を無事に遺跡まで運ぶことだ。それ以外に興味はない」
そのどこまでも揺るがない、強者の余裕すら感じさせる態度が、ゲイルの歪んだプライドをさらに激しく逆撫でした。
ゲイルは「……覚えていろ」と吐き捨てると、肩を怒らせて先頭へと戻っていった。
一時の危機を脱した調査隊は、ハヌという『英雄』の誕生に沸きながらも、再び歩みを再開した。
しかし、ゲイルの心に植え付けられた暗い嫉妬の火種は、道が進むにつれてより深く、より危険に、燃え広がっていくのだった。




