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第5話 前編 村長と朝の広場 ① 火の残る朝

第5話 前編 村長と朝の広場


① 火の残る朝


② 朝の器と借りた靴


③ 広場へ向かう


④ グレッグ村長


【アユミ視点/異世界生活二日目・朝】


① 火の残る朝


 火の匂いで目が覚めた。


 最初に聞こえたのは、薪が小さく崩れる音だった。ぱちん、と弾けるほど強くはない。眠っていた炭の奥へ、誰かが細い枝を差し込んで、そっと息を戻しているような、低くて乾いた音。そこへ、木の床を踏む足音と、布を動かす音と、鍋のふちが軽く触れる音が重なってくる。朝の音だ、と分かるまでに、少し時間がかかった。自分の家なら、暖房の低い運転音とか、遠くでママンが食器を置く音とか、雪の日なら除雪車の気配とか、そういうもので朝だと分かる。けれどここでは、火が先に起きていた。


 目を開けても、天井は白くなかった。


 節のある木の板が、薄い朝の光を受けてぼんやり見えている。昨日の夜にも見た。見たはずなのに、寝起きの頭は一瞬だけ素直に受け入れなかった。自分の部屋の天井じゃない。カーテン越しの冬の光もない。机も、本棚も、出しっぱなしのノートも、みかんの皮もない。スマホの充電コードが布団の脇へ落ちていることもない。


 耳を澄ませても、家の中の音は違っていた。


 ママンが台所で小さく咳払いする音も、パパンが朝のニュースか何かを低く流している気配も、弟が階段を雑に降りる足音もない。スマホの通知音も、暖房の低い唸りも、窓の外を車が通る音もない。代わりに聞こえるのは、薪が崩れる音と、知らない家の床が人の重さを受ける音だった。


 音だけで、戻っていないことが分かる。


 目で見て分かるより、そっちの方が少しきつかった。


 ここは、北海道の家じゃない。


 分かっていたのに、もう一度そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。


「……夢、じゃないんだ」


 声にすると、思ったより小さかった。


 泣きたいのか、怒りたいのか、まだよく分からない。ただ、夢じゃないという事実だけが、寝起きの身体へ先に落ちてくる。昨日の森も、トルヴァンさんの背中も、エリナさんの手も、黒パンの重さも、火床の明るさも、全部ちゃんと続いていた。寝れば自分の部屋へ戻っている、なんてことはなかった。


 夢なら、ここで自室の天井へ戻ってほしかった。


 戻ってない。


 ほんと、なしたのこれ。


 そう思ったところで、寝台の足元から、低い喉鳴りが聞こえた。


 アーミヤがいた。


 大きな身体を丸めて、長い毛の端だけを朝の火の色に染めている。茶色寄りの長い毛並みは、昨日より少しふくらんで見えた。王冠は相変わらず頭に乗っていて、火の揺れを受けるたびに、金属とも宝石とも言い切れない小さな光を返している。何度見ても、そこだけ現実の文法がずれている気がする。猫に王冠。しかも落ちない。普通なら、そこでひとつの謎として独立して騒いでいいはずなのに、今はそれ以外にも分からないことが多すぎて、頭の中の棚がもう足りない。


 でも、その姿を見た瞬間、胸の縮みが少しだけほどけた。


 アーミヤも、ちゃんといる。


 私だけが知らない場所へ落ちたわけじゃない。アーミヤも一緒にいる。それだけで、ここが完全な孤立地点ではなくなる。理屈としては何の解決にもなっていないのに、身体の方は少しだけ安心するから不思議だった。


 昨日の夜、寝台に入る時もそうだった。知らない布の重みも、藁の匂いも、火床の音も、全部が自分の外側にあったのに、足元で丸くなるその重みだけは、知っているものだった。触れば毛がある。喉が鳴る。嫌な時は耳を伏せる。王冠は相変わらず意味が分からないけれど、その下にいるのは、私の知っているアーミヤだった。


 完全に安心できるわけじゃない。


 でも、ひとつでも昨日から続いているものがあると、頭はそこへつかまりに行く。


「おはよ」


 小さく呼ぶと、アーミヤは片目だけ開けた。耳がこちらへ向き、しっぽの先が一度だけ動く。返事なのか、うるさいと言っているのか、どちらとも取れる態度だった。


「そこ、もう自分の場所みたいにしてるんね」


 アーミヤは答えない。


 答えないまま、火床の方へ顎を少しだけ寄せる。火がある場所を、もう知っているみたいな動きだった。昨日の夜、私より先にこの家の空気を読んでいたのかもしれない。


 ずるい。


 なまらずるい。


 でも、そのずるさに今朝は助けられていた。王冠つきのデカ猫が、知らない家の火のそばで当然みたいに丸くなっている。状況だけ並べるとわやなのに、その落ち着きが、私の足元へ小さな杭を一本打ってくれる。ここにいていいかどうか、まだ何も決まっていない。けれど少なくとも、今この瞬間、私とアーミヤは火のある部屋で朝を迎えている。


 それだけは本当だった。


 寝台の上で身体を起こすと、背中のあたりに藁の感触が返ってきた。昨日、初めて横になった時は、硬さも匂いも全部が異物だった。いまも自分のベッドとはまるで違う。沈み方も、布の重さも、枕の高さも、何ひとつ慣れていない。けれど、一晩眠った身体は、そこを完全には拒まなかった。寝返りを打った跡が布に残っていて、足元の方には、たぶんアーミヤの毛が少しだけついている。


 喉は、昨日よりましだった。


 腹の奥も、空っぽで震える感じは少し薄い。足はまだ気になる。昨日借りた靴と、自分の足とのあいだに、まだ距離がある感じだ。歩けなくはないけれど、歩き続けたらきっとどこかが擦れる。あと、身体そのものの違和感も消えていない。若返ったのか、調整されたのか、健康に戻されたのか、言葉にすると急に怪しくなるけれど、とにかく昨日までの自分とぴたり同じではない。


 肌の感覚も変だ。


 外は冬ではない。空気は涼しいけれど、北海道の冬みたいに頬を刺してこない。それなのに胸の奥の季節感だけ、まだ厚着を脱ぎきれていない。薄い布の下で、身体が「本当にこれでいいの?」と何度も確認してくる感じがある。


 手首を回すと、動きが軽い。肩も、昨日までより少しだけ違うところで止まる気がする。痛みがないのはありがたい。けれど、ありがたいだけでは済まない。自分の身体なのに、知らない人が内側から掃除して、ついでに家具の配置まで少し変えていったみたいな、そういう落ち着かなさがある。


 健康になった、で片づけるには妙だ。


 若返った、なんて言葉を頭の中で置くと、もっと妙になる。


 だから今は、変だ、で止めるしかない。


 いずい。


 何もかもが、ちょっこしずつ、いずい。


 それでも、起き上がれる。


 それは大きかった。


 昨日の私は、たぶん、人間としての輪郭がかなり崩れていた。喉が渇いて、足が痛くて、知らない言葉が分かって、知らない人に拾われて、王冠つきのデカ猫と一緒に異世界らしき場所へ来ていた。文字にしたら、混乱どころの話じゃない。情報量だけで人は転ぶんだなと、昨日の自分を思い出して少しだけ遠い目になる。


 でも、いまは火の匂いがある。


 細い薪が温まり始めた匂い。灰の奥に残った熱の匂い。どこかで温め直されている汁の匂い。昨日の夜、火床のそばで食べた黒パンと豆の汁の記憶が、その匂いに引っ張られて戻ってくる。あれを食べたから、私は寝台へ入れた。寝台へ入ったから、今こうして朝を迎えられた。そんな順番が、まだぼんやりした頭の中で、ゆっくり並び直していく。


 火って、ずるい。


 怖いものも、分からないものも、全部消してくれるわけではないのに、火のそばにいると、まず身体の方が「まだ大丈夫」と言い出す。


 寝台から足を下ろすと、床のひやりとした感触が足裏へ来た。


 冷たい。


 けれど、つらいほどではない。


 私は足の指を軽く曲げて、床の感触を確かめた。家の木の床は、現代のフローリングみたいに均一ではない。ほんの少しざらついていて、板と板のあいだに細い影がある。足裏へ返る感覚も場所によって違う。そこがまた、ここが自分の家ではないのだと知らせてくる。


 借りている服は、椅子の背にきちんと掛けられていた。


 昨日、エリナさんが用意してくれたものだ。白いブラウスと、オレンジ色のスカート。朝の光の中で見ると、オレンジは昨日の夜より少しやさしい色に見えた。火の色とも、外から入る薄い光とも違う。ちゃんとそこだけ、自分の好きな色として目に入ってくる。


 好きな色だ。


 異世界二日目の朝に、好きな色がちゃんと目に入るだけで少し救われるの、単純すぎる。でも、単純でいい。今の私は、そういう小さいものまで拾っていかないと、頭の中がすぐ知らない世界に飲まれる。


 着替えながら、昨日の夜に考えかけたことがまた胸の奥へ戻ってきた。


 私をこの場所へ連れてきたのは、誰なのか。


 誰か、なのか。


 それとも、何か、なのか。


 転移の直前に、何かがあった気はする。あの白い輪。ノートから浮いたような光。声のような、でも声になりきらなかった何か。遠くからこちらへ届こうとして、途中でざらついて、途切れた通信みたいな気配。


 けれど、ちゃんとした説明はなかった。


 ようこそ異世界へ、もない。


 あなたには使命があります、もない。


 元の世界へ帰るには、もない。


 ここで何をすればいいのかも、なぜ私なのかも、何ひとつ分からない。物語なら、最初に誰かが教えてくれるところじゃないの。白い空間とか、案内役っぽい人とか、システム音声とか、チュートリアルとか。少なくとも、最低限の説明くらいはあってもいいと思う。


 ない。


 なまら不親切。


 いや、もしかしたら、向こうは何か伝えようとしていたのかもしれない。そこだけは、かすかに引っかかっている。声にならなかったものが、届かなかっただけ。そんな気配は、ほんの少しあった。けれど、届かなかったものは、今の私には使えない。使えないものを握りしめていても、足元の床は変わらないし、借りた服の袖も勝手には通らない。


 胸の奥で、ちり、と小さな怒りに火がついた。


 怒っていいのかどうかさえ、まだ分からない。


 助けられたのかもしれない。何かから逃がされたのかもしれない。逆に、ただ巻き込まれただけなのかもしれない。どれも可能性で、どれもまだ手に取れない。なのに、私の身体だけはここにあって、服を借りて、火の匂いを吸って、二日目の朝を始めようとしている。


 置いていかれたのか、連れてこられたのか。


 その違いさえ分からないのが、なまら腹立つ。


 色々言いたいことはある。


 かなりある。


 説明書なしで放り込むなとか、最低限の地図くらい寄こせとか、猫に王冠つけたまま同行させるならせめて理由を言えとか、言いたいことだけなら山ほどある。もし向こうから本当に連絡が来る日があるなら、私はたぶん第一声をかなり厳選しないといけない。怒りの方が先に出ると、だいぶ口が悪くなりそうだから。


 ただ、今ここで怒っても、火は消えないし、朝も止まらない。


 エリナさんはもう起きている。


 トルヴァンさんもたぶん外を見ている。


 アーミヤは足元で、私の混乱など知りません、みたいに毛づくろいを始めている。


「……アンタ、ほんと通常運転だね」


 小さく言うと、アーミヤは前足を舐めたまま、ちらりとこちらを見た。


 その目が、何を今さら、と言っているようで、私は少しだけ息を吐いた。


 まあ、いい。


 今は、その通常運転に助けられている。


 ブラウスの袖へ腕を通す。布はまだ少し他人の匂いがした。洗われた布の匂い、木の家の匂い、火のそばで乾いた匂い。自分の服ではない。それでも、昨日の森で着ていた制服のままだったら、もっと心が縮んでいた気がする。借り物でも、今この場所で動くための服がある。それだけで、昨日より少しだけ外へ出る準備ができる。


 袖口は、私の手首より少し広かった。布が肌をこすって、昨日の制服とは違う重さで腕へ落ちる。制服の袖なら、どこに縫い目があって、どのくらい曲げれば手が出るか、考えなくても分かる。けれどこの服は、腕を通すたびに少しだけ確かめなければならない。肩の位置、袖の余り、裾の落ち方。全部が、私のために作られたものではない。


 でも、着られる。


 借り物だけれど、動ける。


 それが今は、かなり大きい。


 スカートの紐を整えながら、私は自分の呼吸を数えた。


 大きな方針なんて、まだ決められない。


 この世界でどう生きるとか、帰る方法を探すとか、誰かが何かを伝えようとしていた理由を突き止めるとか、そういう大きいことは、今考えても手に余る。考え始めると、胸の奥がすぐいっぱいになる。


 でも、今日の段取りなら追える。


 着替える。


 顔を洗う。


 朝食を食べる。


 今日の予定を聞く。


 自分がこの村でどう扱われるのかを聞く。


 勝手に歩ける範囲も、やっていいことも、たぶんそこで決まる。


 生きるって、今はそういう細かい段取りのことなんだと思った。


 扉の向こうで、鍋のふちがまた小さく鳴った。


 その音に押されるように、私はブラウスの裾をもう一度整える。袖が少し余る。肩もぴったりではない。けれど、動けないほどではない。火の前へ出ても、昨日ほどみっともなくはないはずだ。たぶん。いや、たぶんって言ってる時点でちょっと心配だけど、なんも、今はこれで行くしかない。


 アーミヤが立ち上がった。


 大きな身体を伸ばし、背中を反らす。長い毛がふわりと揺れ、王冠が朝の光を拾う。落ちない。やっぱり落ちない。あまりにも当然みたいに乗っているせいで、逆にこちらの認識がおかしいのかと思えてくる。


「アーミヤたん、その王冠、ほんとどうなってるんね……」


 もちろん答えはない。


 ただ、しっぽの先だけが一度動いた。


 そうですか。秘密ですか。


 猫に秘密を持たれると、たいてい人間側は負ける。昔からそうだ。たぶん異世界でもそう。


 私は扉へ向かった。


 手をかける前に、一度だけ部屋を振り返る。寝台、椅子、借りた服を掛けていた背、火の匂いが薄く届く空気。昨日の夜は、ただ倒れ込むための場所だった。今朝は、ここから出ていく場所になっている。


 ここを自分の部屋だと思うには、まだ早すぎる。けれど、昨日の夜にただ倒れ込んだ場所よりは、少しだけ形が見えていた。椅子には服を掛ける。寝台には布を戻す。火の匂いは広間から薄く届く。アーミヤは、先に出るのかと思えば、こちらの足元を一度見てから戸口へ向かう。


 私が動くのを待っていたのか。


 それとも、ただ自分の出るタイミングを見ていただけなのか。


 分からないけれど、その間が少しだけありがたかった。


 扉を開けると、火の匂いが少し濃くなった。


 広間へ続く空気は、もう完全に朝のものだった。火床の奥で赤く残っていた炭に、細い薪が足されている。炎はまだ大きくない。けれど、家の中心に火があるというだけで、空気の立ち方が変わっていた。


 広間では、エリナさんが鍋の蓋を少しずらしていた。


 昨日の夜は遠く聞こえた薪の音が、今朝は少しだけ近かった。

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