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第4話 後編 火床のそばと吟遊詩人

第4話 後編 火床のそばと吟遊詩人


① 黒パンと豆の汁


② 火を囲む声


③ 最初の寝床


④ 一日目の終わり


【アユミ視点/異世界生活一日目・夜】


① 黒パンと豆の汁


「……食べられます」


 そう答えた瞬間、自分の声より先に、胃の奥が返事をした気がした。


 喉は湯で少し戻った。手も洗った。用足しも済ませた。足の湿りも取れて、借りた服へ着替えた。そうやって身体のあちこちが順番に戻されていくうちに、最後まで棚の奥へ押し込められていた空腹が、ようやく表へ出てきたのだと思う。火床の向こうから届く匂いが、それをはっきり形にした。黒パンの重い香り。豆の丸い匂い。根菜の甘さ。薄い脂の気配。知らない家の夕食なのに、身体だけが先に「これは食べるものだ」と分かっている。


 エリナさんは、私の返事を聞いてすぐには食卓へ座らせなかった。


 器を一つ手に取り、火床のそばの鍋から汁をよそい、湯気の立ち方を見てから、ほんの少しだけ匙で混ぜる。熱すぎないか、具が偏っていないか、私が飲み込める濃さか。そういうものを一つずつ見ている手だった。誰かの顔色や喉の動きまで、鍋の湯気と同じくらい当たり前に見る手。


「じゃあ座りな。まず汁からだよ。腹が空いてるからって、一気に詰めるんじゃない。喉は戻ってきたけど、腹の方はまだ驚いてるかもしれないからね。少し飲んで、大丈夫そうならパンを浸して食べる」


「はい」


「はい、だけじゃなくて、気持ち悪くなったら言う。遠慮される方が面倒だよ」


「……分かりました。気持ち悪くなったら言います」


「よし」


 また「よし」が来た。


 私は低い椅子に座りながら、ちょっこしだけ息を吐いた。安心、というほど簡単なものではない。知らない家の食卓で、知らない料理を前にして、まだ自分が何者なのかもまともに説明できていない。普通に考えたら、落ち着ける状況では全然ない。けれど、エリナさんの「よし」は、ここまでは手順通りだと教えてくれる。大きな問題は棚の奥にあっても、今この器の前では、まず食べ方を間違えなければいい。


 食卓は大きかった。


 今この場にいる人数に対して、少し広い。トルヴァンさんとエリナさんと、私。それから足元のアーミヤ。実際に座っている人間は三人なのに、机の表面にはもっと多くの手が触れてきた跡があった。端の方は少し丸くなり、よく手を置く場所だけ色が違う。傷も、器を置いた跡も、細かな凹みもある。


 今は静かだ。


 でも、ずっと静かだった机ではない。


 この食卓は、たぶん、何人分もの肘と、子どもの手と、熱い器と、慌ただしい朝と、誰かの叱る声を知っている。そう思うと、目の前の木目がただの板ではなくなった。今ここに座っている私は、そこへ急に差し込まれた知らない一人だ。けれど、食卓の方は、知らない人間を一人受け止めても、少しきしむだけで崩れないくらいには、長く使われてきたのだと思った。


 そこへ、エリナさんが木の器を置く。


 湯気が上がった。


 白い。


 さっきの湯とはまた違う白だ。豆と根菜と、少しの脂を含んだ湯気。鼻先に届いた匂いは、強いご馳走の匂いではなかった。けれど、身体を中から戻すための匂いだった。豆の粉っぽい丸さ。煮崩れた根菜の甘さ。たぶん鶏から出たのだろう、薄い脂の香り。そこに、細かく刻まれた香草みたいな青い気配がほんの少しだけ混じっている。


「匙は使えるかい」


「使えます」


「なら、まず汁だけ。具は焦らない」


 私は匙を持った。


 木の匙は、現代のスプーンより少し厚い。柄の形も、口に入れる角度も違う。けれど、使えないほどではない。器の中をそっとすくうと、薄い茶色がかった汁と、小さな豆、柔らかくなった根菜の欠片が匙の上へ乗った。湯気が鼻へ触れる。


 ゆっくり口に入れる。


 最初に来たのは塩気だった。強すぎない。でも、ぼやけてもいない。喉を通る時に、塩と脂が薄く膜を作るような感じがした。そのあとで豆の粉っぽさが来て、根菜の甘みが少し遅れて広がる。香草の気配は強くない。強くないのに、最後に口の中を軽くしてくれる。


 私は、思わずもう一口いきそうになって、手を止めた。


 エリナさんに見られている気がしたからだ。


 顔を上げると、やっぱり見ていた。責める目ではない。急いでいないか、気持ち悪くなっていないか、飲み込めているかを見ている目だった。


「……大丈夫です。熱すぎないです。気持ち悪くもないです」


「そう。それなら少しずつ食べな」


 私は頷いて、もう一口飲んだ。


 今度は、身体の方が受け取り方を少し思い出していた。喉を通って、胃の中へ落ちる。そこが驚いて跳ね返す感じはない。むしろ、さっきまでぎゅっと閉じていた場所が、恐る恐る開いていくようだった。私はその感覚に少しだけ驚いた。食べるだけで、身体はこんなに分かりやすく反応するのか。


 なまら単純。


 でも、なまらありがたい。


 トルヴァンさんは、向かい側で黒パンを手に取っていた。何かを長く説明するでもなく、ただ手でちぎる。分厚い黒パンは、見た目からして軽くない。ふわふわではなく、しっかり詰まっている。トルヴァンさんはそれを大きな手で割り、割った一片を自分の器の汁へ沈めた。


「パンは浸せ」


 それだけ言って、自分で食べる。


 実演つきだった。


 私は目の前の黒パンを見た。表面は黒っぽく、ところどころ乾いている。手に持つと、思ったより重い。軽いパンではない。中身が詰まっていて、指で押してもふわりと戻る感じは少ない。家で食べていた食パンとも、コンビニのパンとも全然違う。これは、たぶん日持ちと腹持ちを重視したパンだ。


 断定はしない。


 何の粉かも分からないし、どう作るのかも分からない。けれど、生活の中で強いパンだということだけは、手に持った重みで分かった。


「そのまま齧ると、最初は固いよ」


 エリナさんが言った。


「慣れてる者はそれでも食べるけど、今のあんたは汁に浸した方がいい。噛む力まで無駄に使うことはないからね」


「分かりました」


 私は黒パンを小さめにちぎった。


 指に粉のざらつきがつく。乾いた表面の下から、少し酸味を含んだ香りが出てきた。私はそれを器の汁へそっと浸す。パンが汁を吸って、重さが少し変わる。引き上げると、黒い表面に豆の汁がしみて、端が少し柔らかくなっていた。


 口に入れる。


 最初に酸味が来た。


 思ったよりはっきりしている。でも嫌な酸っぱさではない。噛むと粉の香りが広がり、汁を吸ったところが舌の上でほどける。そのまま食べたらたぶん強かった黒パンが、豆の汁を吸うことでぐっと食べやすくなっていた。重い。けれど、その重さが今は安心だった。胃の中へ、ちゃんと「食べ物」が落ちていく感じがする。


「……おいしいです」


 口から、素直に出た。


 エリナさんの手が少しだけ止まる。


「そうかい」


「はい。酸味があるんですけど、汁に浸すと丸くなるというか。豆の粉っぽさと合って、根菜の甘みもあって……えっと、すみません。考えながら食べる癖があります」


 言いながら、自分でちょっと恥ずかしくなる。


 初めて泊めてもらった家で、いきなり食レポ分析を始める女子高生。いや、異世界の食卓で何をしているんだ私は。普通に「おいしいです」だけでいいしょや。なのに口が勝手に、何がおいしいかまで探しに行ってしまう。


 エリナさんは、呆れたというより、少し面白そうに私を見た。


「食べながら考える子なんだね」


「たぶん……いや、そうです。うちでもよく言われました。食べるか分析するか、どっちかにしなさいって」


「なら、今日は食べる方を多めにしな。考えるのは、腹に入ってからでもできる」


「はい」


 やっぱり実務で返される。


 でも、その返しがまたありがたかった。変だと笑うでもなく、感心しすぎるでもなく、今は食べな、と戻してくれる。私の癖を否定するのではなく、順番を直されている感じだ。


 アーミヤが、足元で小さく動いた。


 私は視線を落とす。アーミヤは食卓には上がっていない。えらい。えらいけれど、鼻先は完全にこちらの匂いを追っている。火のそばも確保したい。食べ物も気になる。両方狙っている顔だった。


 王冠付きのくせに、食欲は完全に猫。


「その猫にも、少しならやれる」


 トルヴァンさんが言った。


 いつの間に用意したのか、低い木皿に小さな鶏肉の欠片がいくつか乗っている。汁気はほとんどない。塩気も薄そうだ。トルヴァンさんはそれを足元へ置いた。アーミヤはすぐには飛びつかない。まずトルヴァンさんの手を見て、それから皿を嗅ぎ、さらに私をちらりと見た。


「食べていいよ」


 私が言うと、アーミヤはようやく鶏肉を一つ口にした。


 ゆっくり噛む。


 次にもう一つ。


 しっぽの先が、ほんの少しだけ動いた。


 気に入ったんだ。


 分かりやすすぎるんね。


「猫も食べられるようだね」


 エリナさんが言った。


「食べられるみたいです。というか、かなり気に入ってる顔です」


「顔に出るんだね」


「出ます。すごく」


 アーミヤは聞こえていないふりをして、残りの鶏肉を食べた。王冠は相変わらず落ちない。木皿に顔を寄せるたび、王冠の縁が火の明かりを受けて少し光る。その光景が妙におかしくて、私は危うく黒パンを噛み損ねそうになった。


 エリナさんはそれを見て、口元を少しだけゆるめる。


「食卓へ上がらないなら、しばらくはいいだろうね。けど、勝手を覚えたら困るよ」


「もう覚え始めてる気がします」


「じゃあ、今のうちから線を引くことだね。猫でも人でも、最初に許したことは後から直しにくい」


 さらっと出た言葉が、妙に重い。


 猫の話だ。たぶん本当に猫の話をしている。でも、少しだけ私にも刺さった。この家にいる間、どこまで許されて、どこからが駄目なのか。そういう線も、最初に覚えなければいけないのだろう。


 私は小さく頷き、また黒パンを汁へ浸した。


 食べる。


 噛む。


 飲み込む。


 そうしているうちに、身体の中の空白が少しずつ埋まっていく。劇的に元気になるわけではない。疲れはまだある。眠気も少しずつ近づいている。それでも、さっきまでの私は明らかに空っぽだったのだと分かった。喉だけでなく、腹も、足も、頭も、何かを待っていた。


 黒パンをもう一切れ。


 豆の汁をもう一口。


 根菜の柔らかい欠片が舌の上でほぐれた。甘い。強い甘さではない。けれど、塩気と豆の丸さの中で、ちょっとした灯りみたいに感じる甘さだった。薄い脂が口の中を滑って、香草の青さが最後に残る。毎日の食事として強い。派手じゃないのに、身体をちゃんと支える方へ向いている。


 母の料理を思い出しかけた。


 出汁の取り方とか、スープの温度とか、疲れている時に何を食べさせるかとか。ママンはそういうところが妙に強かった。細かい説明をしながら、でも最後は「まず食べなさい」で押し切る人だった。そこまで思い出しかけて、胸の奥がきゅっとする。


 私は慌てて、目の前の器へ戻った。


 ここは白雪家ではない。


 これはママンのスープではない。


 エリナさんの豆の汁だ。


 そう思い直して、もう一口飲む。


 逃げているわけではない。たぶん。いや、ちょっこし逃げているのかもしれない。でも今はそれでいい。食べている最中に元の家の食卓まで全部開いたら、きっと飲み込めなくなる。


「止まったね」


 エリナさんが言った。


「あ、すみません。気持ち悪いわけではないです。ちょっと、思い出しかけただけで」


「ならいい。止まるのが悪いんじゃないよ。気持ち悪いのか、考え込んでるのか、そこを黙られると困るだけだ」


「……はい。今のは、考え込んでました」


「じゃあ、もう一口。食べられるならね」


 私は頷いて、黒パンを小さくちぎった。


 エリナさんの言葉は、やっぱり甘くない。けれど、甘くないからこそ、手すりみたいに掴める。考え込んだら戻される。食べられるなら食べる。無理なら言う。大丈夫という大きな札ではなく、小さな札を一つずつ出す。


 食べ終える頃には、器の中身はだいぶ減っていた。


 黒パンも、自分で思っていたより食べられた。最初は小さくちぎっていたのに、途中からは少しだけ大きめに浸せるようになった。胃が受け取ってくれている。そこに、安堵と驚きが混ざる。


 食べられる。


 こんな状況でも。


 その事実が、少しだけ怖くて、少しだけうれしい。


 トルヴァンさんは自分の器を空にして、水を飲んだ。それから私の器を一度だけ見て、短く言う。


「食えるなら、それでいい」


 私は匙を持ったまま、少しだけ顔を上げた。


「……はい」


「腹が空のままだと、考えることもろくにできん。今日は考えすぎるなとは言わんが、考えるなら食ってからだ」


 トルヴァンさんにしては、少し長かった。


 そして、その言葉はまっすぐだった。


 考えることを止められているわけではない。けれど、考えるにも身体がいる。そう言われているのだと思った。父も時々、似たようなことを言っていた。数字を見る時でも、眠い時と腹が減っている時は判断が荒くなる、と。そこで父の顔まで浮かびそうになって、私はまた器へ目を落とした。


 今日は、目の前の器へ戻る日だ。


 何度でも。


 私は最後の豆を匙ですくった。


 少し崩れた豆と、黒パンの小さな粒が一緒になっている。それを口に入れると、粉っぽさと酸味と塩気が混ざって、ひどく地味なのに、妙においしかった。


 器の中身がほとんどなくなる。


 私はしばらく、その器を両手で持っていた。底には、豆の欠片と、汁を吸った黒パンの小さな粒が残っている。さっきまで空っぽだった腹の奥に、温かい重さがある。その重さは、答えではない。帰る方法でも、王冠の説明でも、身体の違和感の解決でもない。


 でも、食べられた。


 私は、食べられた。


 その事実だけが、火の明かりの中で、妙に大きく見えた。


 エリナさんが、私の顔色を確かめるように見た。


「悪くなさそうだね」


「はい。お腹が、ちゃんと食べたって言ってます」


「変な言い方だね」


「自分でもそう思います。でも、そんな感じです」


 エリナさんは、少しだけ笑った。


「なら、しばらく座ってな。すぐ動くと腹が驚くよ」


「はい」


 私は器を置き、両手を膝の上に重ねた。


 火床の赤い光が、木の机の傷を薄く照らしている。アーミヤは小皿を空にして、追加を期待するような顔でこちらを見ていた。エリナさんは器を片づけるでもなく、少しだけ手を止めている。トルヴァンさんも、まだ席を立たない。


 食べ終えたあとの、ほんの少しだけ緩んだ時間。


 その中で、火の音が小さく鳴った。


 次の話が始まりそうな、静かな隙間だった。


② 火を囲む声


 食べ終えたあと、すぐに席を立つ人はいなかった。


 器の底に残っていた豆の欠片も、黒パンの小さな粒も、もうほとんどない。なのに、私はしばらく木の器から手を離せずにいた。中身は空に近いのに、器そのものにはまだ少しだけ温かさが残っている。その温かさを両手で包んでいると、食べたものが腹の中へ落ちていった事実まで、手のひらから確かめられる気がした。湯を飲んだ時とは違う重さだ。喉を通すための温かさではなく、身体の中に居場所を作るための重さ。


 火床では、薪が小さく鳴った。


 細い木の皮が熱でほどけるような、小さな音だった。その音に合わせるみたいに、広間の空気が少しだけ緩む。エリナさんはすぐに器を片づけようとはせず、私の顔色を見ていた。トルヴァンさんは水を飲み、黒パンの残りを布で包み直している。アーミヤは足元で小皿を空にし、皿の底をじっと見ていた。


 完全に追加を待つ顔だ。


「アーミヤたん、もうないと思うよ」


 私が小さく言うと、アーミヤは皿から顔を上げ、こちらを見た。目が細い。いや、私に言われても困る、みたいな顔をしないでほしい。食卓へ上がらず、ちゃんと床で待ち、出された分を食べたのは偉い。偉いけれど、追加待ちの圧がなまら強い。


 エリナさんが、それを見て笑うでもなく言った。


「その子にはもうおしまい。初めての家で、初めてのものを食べたんだ。腹を悪くされたらこっちが困るよ。猫だって、食べられるからって食べさせすぎちゃいけない」


「はい。たぶん本人は不服です」


「不服でも終わり。火のそばへ行きたいなら、皿は諦めな」


 アーミヤの耳が、ぴくりと動いた。


 聞いている。


 絶対に聞いている。


 アーミヤは少しだけ皿を見たあと、ゆっくり立ち上がった。そして、何事もなかったみたいな顔で火床の近くへ歩いていく。熱すぎない距離を選び、長い毛をふわりと広げるようにして座る。王冠の縁が火の明かりを受けて、ほんの少し光った。


 この家の火床、もう自分の領土みたいな顔してるんね。


「その猫、変わったものを乗せているな」


 トルヴァンさんが、今さらのように言った。


 今さら、というより、やっとそこへ触れたのかもしれない。川辺でも、荷車でも、戸口でも、土間でも、王冠はずっとそこにあった。けれど、誰も最初から真正面に突っ込んではこなかった。今は湯を飲ませる。今は手を洗う。今は足を見る。今は食べさせる。そうやって後回しにされていた札が、食後の火の前でようやく表に出てきた感じだった。


「王冠、みたいなものです」


「みたいなもの?」


「えっと、外してもいつの間にか戻るんです。私もちゃんと説明できなくて。気づいたらまた頭に乗っているというか」


 言いながら、自分でもだいぶ怪しい説明だと思った。


 王冠みたいなものです。外しても戻ります。気づいたら乗っています。こんなの、まともな説明ではない。けれど、他に言いようがなかった。アーミヤは火のそばで前足を揃え、まるで自分の話ではないみたいな顔をしている。いや、アンタの頭の話だからね。


 トルヴァンさんは、しばらくアーミヤを見ていた。


「取れんのか」


「取っても戻ります」


「そうか」


「……それで済むんですか」


「今はそれ以上、分からんのだろう」


 私は少しだけ言葉に詰まった。


 そうだ。分からない。王冠のことも、白い空間のことも、アーミヤが少し若返ったように見えることも、何一つ分からない。分からないものを、分かるふりで埋めても仕方ない。トルヴァンさんの「そうか」は、雑に流したのではなく、分からないものを分からないまま置いた音だった。


 エリナさんが、器を一つ手元へ寄せながら言う。


「まあ、王冠つきの大きな猫が家の火の前でおとなしくしてる時点で、変わってることは変わってるよ。けど、今のところ皿を割るでもなし、鶏を追い回すでもなし、アユミのそばから離れすぎるでもなし。変でも、すぐ追い出す理由にはならないね」


「……ありがとうございます」


「礼はまだ早いよ。猫は慣れた頃に勝手をするからね」


 その言い方が、妙に現実的で、私は少しだけ笑ってしまった。


 王冠の不可思議さより、まず皿を割るか、鶏を追い回すか、火のそばで勝手をするか。エリナさんの判断軸が徹底して生活側にある。そのおかげで、王冠というありえないものまで、少しだけ家の中の問題へ引き下ろされている気がした。


 トルヴァンさんが、黒パンを包み終えて言った。


「この家に変なものが来たのは、初めてじゃない」


「そういう言い方をすると、うちが変なのを呼ぶ家みたいじゃないか」


 エリナさんがすぐ返す。


 トルヴァンさんは悪びれた様子もなく、火を見た。


「前にも拾った」


「拾った、じゃないよ。あれはあんたが道で拾ってきたんだろう。吟遊詩人だか何だか、よく分からないのをさ」


 吟遊詩人。


 その単語が出た瞬間、私は思わず顔を上げた。


 聞き間違いではない。吟遊詩人。しかも、だか何だか、よく分からないの。急に物語っぽい単語が火の前に転がり込んできたのに、エリナさんの言い方は完全に生活の愚痴だった。


「吟遊詩人……?」


「ああ。何年も前だよ。街道の外れで声だけは元気なのに、足元がふらふらしていたとかでね。この人がまた、荷より先に人を拾って帰ってきたんだ。本人は吟遊詩人だと言っていたけど、歌うより喋る方が長いし、荷物の中身もよく分からないし、家の中が三日ほど騒がしかったよ」


「悪い奴ではなかった」


 トルヴァンさんが短く言う。


「悪い奴じゃないのと、家が騒がしくなるのは別だろう」


「子どもらは喜んでた」


「それが困るんだよ。面白い大人が来ると、子どもはすぐ真似する。変な言い回しだの、余計な節回しだの、いらん身振りだの。あのあと数日、家の中で妙な歌が回ってたんだからね」


 エリナさんの口調は呆れている。


 けれど、本気で嫌だったというより、思い出すと疲れるけれど笑い話にできる類の呆れ方だった。トルヴァンさんも、否定はしない。火を見たまま、少しだけ口元を動かした気がした。


 私は、その夫婦のやり取りを聞いて、胸の奥が少し緩むのを感じた。


 この家に拾われたのは、私が初めてではない。


 もちろん、私の事情はたぶん全然違う。白い空間から落ちてきて、王冠付きの大型猫を連れていて、元の世界も分からない。吟遊詩人らしき人とは、さすがに種類が違うと思う。でも、「トルヴァンさんが何かよく分からない人を拾ってきて、エリナさんが呆れながら家へ入れる」という前例があったことが、変なところで効いた。


 私だけが、いきなりこの家の秩序を破壊したわけではない。


 いや、王冠猫つきなので破壊力は高いかもしれないけど。


「その人、どうなったんですか」


 気づけば聞いていた。


 エリナさんは、器の縁を布で拭きながら答える。


「三日ほど泊まって、食べて、喋って、歌って、子どもらを笑わせて、次の集荷の便に合わせて出ていったよ。礼だと言って妙な節の歌を一つ置いていったけど、あれは礼だったのか置き土産だったのか、今でもよく分からないね」


「道中で会った者に話を集めて、またどこかへ持っていくと言っていた」


 トルヴァンさんが補足する。


「そういう暮らしの者もいる。定住しない。冬前には大きな町へ入ると言っていたな」


「……すごいですね」


 私はぽつりと言った。


 すごい、というのは、吟遊詩人がすごいというだけではない。そんな人を三日も泊めるこの家も、その後に笑い話として残している夫婦も、なかなかすごい。私だったら、いきなり知らない人が家に来たらかなり警戒する。いや、今の私は来た側だけど。


 エリナさんは私を見た。


「すごいというより、この人は昔からそういうところがあるんだよ。倒れそうなものを見たら、まず拾う。拾ってから困る。困ったら家でどうにかする。順番が逆なんだ」


「見捨てるよりはいい」


「そりゃそうだけどね。だからって、毎回家の方で受け止める人間がいることを忘れちゃいけないよ」


 その言葉に、トルヴァンさんは何も言い返さなかった。


 代わりに、少しだけ頭を掻く。


 私はその様子を見て、また少し笑いそうになった。大きな人なのに、エリナさんの正論の前ではちゃんと黙る。川辺で出会ってからずっと、トルヴァンさんは頼りになる大人としてそこにいた。でもこの食卓では、エリナさんに釘を刺される夫でもある。その当たり前の感じが、妙に温かかった。


 火床の音が、また小さく鳴る。


 アーミヤは、その会話の間に火のそばで毛づくろいを始めていた。長い毛を整え、前足を舐め、王冠をまったく気にしない。小皿の追加が来ないと判断したらしい。切り替えが早い。


 親善大使、営業成績良すぎでは。


 すでに火床を取り、鶏肉をもらい、トルヴァンさんに足を拭かれ、エリナさんに線を引かれている。私より先にこの家での立ち位置を確保している気がして、ちょっとだけ悔しい。


「アーミヤの方が、順応早い気がします」


 私が小さく言うと、エリナさんが火の方を見た。


「猫は場所を取るのが早いからね。火のそばと食べ物と、安心できる相手が分かれば、あとは自分で居場所を決めるよ」


「私はまだ、どこに立てばいいかも教えてもらってばかりです」


「それでいいんだよ。猫と人間を同じにしちゃいけない。あんたは言葉で聞けるんだから、分からないことは聞きな。勝手に分かったふりをされる方が危ない」


 その台詞は、軽く言われたのに、ちゃんと残った。


 分からないことは聞く。


 勝手に分かったふりをしない。


 この家の中で何度も繰り返されていることだ。大丈夫と言う前に、どこがどうか言う。できるならできる、できないならできない。手順が分からなければ呼ぶ。そうやって一つずつ確認しなければ、知らない場所ではすぐ危なくなる。


「……はい。聞きます」


「そうしな。聞かれて困ることなら、こっちがそう言う」


 エリナさんはあっさり言った。


 そのあっさりさが、今はありがたい。全部を教えてもらえるわけではない。でも聞いていい。分からないことを分からないと言っていい。その線があるだけで、頭の中の緊張が少しだけほどけた。


 トルヴァンさんが、ふと思い出したように言う。


「そういえば、あの吟遊詩人も最初は何でも聞いてきたな」


「そうだったかい?」


「井戸の水はどこから来るのか、鶏は何羽いるのか、冬はどこまで雪が積もるのか、子どもは何人いるのか。喋るだけでなく、聞くのも多かった」


「だから余計に騒がしかったんだよ」


 エリナさんはそう言いながらも、嫌そうではなかった。


 私は少しだけ身を乗り出しかけて、慌てて戻った。今の話、なまら気になる。井戸、水、鶏、冬、子ども。まるで情報収集のチェックリストだ。吟遊詩人というより、聞き取り屋さんみたいな人だったのかもしれない。


 でも、ここで深掘りしすぎるのは違う。


 これは笑い話だ。


 今は、火の前で少し緩むための話。


 そう自分に言い聞かせる。


「アユミも、聞く顔をしてるね」


 エリナさんに言われた。


 ばれている。


「……出てました?」


「出てたよ。食べ物の時と同じ顔だね。何でそうなるのか考え始める顔」


「癖です。ほんとに。すみません」


「謝らなくていい。けど、今日はもう増やしすぎない方がいい。あんたの頭、もうだいぶ荷を積んでるだろう」


 荷を積んでる。


 その表現が妙にしっくりきた。


 白い空間も、川辺も、鶏舎も、湯も足も服も黒パンも、そこへ吟遊詩人まで積まれている。しかも道はがたがた。そりゃ揺れれば落ちる。


「……はい。かなり積みすぎです」


「なら、今日はもう下ろす方へ回しな。全部を今夜のうちに分けなくていい」


 エリナさんの言葉は、やっぱり実務の形をしている。


 心の話をしているようで、荷の話でもある。分類しなくていい。分けなくていい。今夜は下ろす。そう言われると、頭の中の棚まで少しだけ暗くなるような気がした。悪い意味ではない。店じまいに近い。


 それでも、吟遊詩人の話はもう少しだけ続いた。


 エリナさんは、あの人は食べる時だけ妙に静かだったと言った。トルヴァンさんは、話を聞く時も静かだったと返した。子どもたちが妙な節回しを真似して、家のあちこちで同じ歌を歌ったせいで、エリナさんがしまいには「外で歌いな」と追い出したこともあったらしい。


「そういえば、変な歌も残していったね」


 エリナさんが、火の方を見ながら言った。


「腹が空いたら火のそばへ、泣くなら食べてからにしろ……だったかね。妙な節でさ。子どもらがしばらく真似して、家じゅうで歌うもんだから、こっちは耳に残って困ったよ」


「悪い歌ではなかった」


 トルヴァンさんが短く言った。


「悪い歌じゃないのと、朝から晩まで聞かされるのは別だよ」


 エリナさんがそう返すと、トルヴァンさんはまた少しだけ口元を動かした。二人はそれからも、その吟遊詩人が残していった歌のことを、呆れ半分、懐かしさ半分でいくつか話していた。歌詞の全部は私には拾えなかった。古い言い回しなのか、聞き慣れない単語なのか、火の音や器の音に紛れてしまったのかも分からない。


 けれど、その中の一節だけが、なぜか耳の奥に引っかかった。


 意味は分からない。


 分からないのに、引っかかった。


 でも、今それを追いかけるには、頭が重かった。黒パンと豆の汁で腹は温かくなったのに、その温かさに押されるように、疲れの方も前へ出てきている。目の奥が鈍く重い。肩も少し落ちている。私は笑い話につられて頬が緩んでいたはずなのに、その頬の奥で、眠気がゆっくり近づいてくるのが分かった。


 火の前で少し笑っただけなのに、身体の奥に溜まっていた疲れが、急に顔を出した。


 さっきまで食べることに使っていた力が切れたのかもしれない。お腹は温かい。喉も乾いていない。足も洗った。服も替えた。だからこそ、残っていた疲れが一気に分かる。


 エリナさんは、それを見逃さなかった。


「食べられて、少し笑えたなら十分だよ」


 そう言って、低い台の上の布を一枚手に取る。


「次は寝る場所だね」


③ 最初の寝床


 エリナさんは、食卓の器をすぐには片づけきらなかった。


 私の顔色をもう一度見て、喉の動きと、椅子から立てるかどうかを確かめるように視線を動かす。それから、火床の横に置いてあった布を一枚取り、手早く畳み直した。寝る場所、と言われた瞬間から、食卓の温かさが少し遠くなる。さっきまで黒パンと豆の汁で身体の中を戻されていたのに、今度はその身体を横たえる場所へ運ばれるのだと、遅れて理解した。


 寝る。


 今日、初めてそこまで行ける。


 そう思った途端、背中の奥に溜まっていた疲れが、こっそり蓋を開けたみたいに広がり始めた。さっきまで食べることに集中していたから気づかなかっただけで、私はもうかなり眠かった。いや、眠いというより、処理落ち寸前の脳みそが、そろそろ強制終了したがっている感じだった。


「立てるかい」


「立てます。気持ち悪くはないです。お腹も、今のところ大丈夫です」


「よし。言い方が少し上手くなったね」


 褒められたのか、確認されたのか、たぶん両方だった。


 私は椅子から立ち上がる。足元には、さっき巻いてもらった布の感触がまだある。室内履きでも靴下でもないけれど、湿ったものを履いていた時よりずっと落ち着く。白いブラウスとオレンジのスカートも、まだ借り物感はある。でも制服の湿りを脱いだあとだから、布が乾いていること自体がなまらありがたかった。


 乾いた服を着ている。


 食べた。


 立てる。


 今日の自分には、それだけでも十分に大きい。


 アーミヤは火のそばからこちらを見ていた。


 エリナさんが部屋の方へ動くと、当然みたいに立ち上がる。さっきまで火床を自分の場所みたいな顔で占拠していたくせに、私が動くならついてくる気らしい。王冠の縁が火の明かりを受けて、ちらっと光る。長い毛は拭かれたせいで少し整っていて、ますます堂々として見えた。


「アーミヤも来るんね」


 小さく言うと、アーミヤは返事の代わりにしっぽをゆるく動かした。


 来るに決まっている、みたいな顔だ。


 エリナさんはそれを見て、少しだけ目を細めた。


「猫も一緒でいい。ただし、布の上へ上がる前に足を見せるんだよ。さっき拭いたから大丈夫だとは思うけど、勝手に潜り込まれると毛だらけになる」


「はい。アーミヤ、勝手に先行しない」


 アーミヤは聞いているのかいないのか、私たちより半歩先を歩こうとして、トルヴァンさんに低く名前を呼ばれた。


「アーミヤ」


 それだけで止まった。


 止まるんだ。


 私はちょっとだけ目を丸くした。アーミヤは不服そうにトルヴァンさんを見上げたけれど、進まなかった。トルヴァンさんはそれ以上何も言わない。ただ戸口の方へ視線を向け、外の気配を確かめてから、私へ短く言った。


「夜は勝手に外へ出るな。犬が吠えても、戸は開けるな。用があるなら呼べ。ここは家の中だが、外はまだ村の夜だ」


「……はい」


 短いけれど、重い注意だった。


 外はまだ村の夜。


 その言い方で、私は戸の向こう側を少しだけ意識した。昼の村を私はまだほとんど知らない。まして夜の村なんて、何も知らない。犬がいて、鶏舎があって、畑が広がっていて、その先には暗い木立もある。獣も、魔物も、本当にいるかもしれない。


 家の中にいると、火の匂いで忘れかける。


 でも、外は安全な住宅街ではない。


 白雪家の玄関を出るみたいに、ちょっとコンビニまで、みたいな世界ではないのだ。


 私は頷いた。


「勝手に出ません。何かあったら呼びます」


「それでいい」


 トルヴァンさんはそう言って、火床の方へ戻った。薪の位置を直し、戸口の掛け具を確かめる。食後に寝床へ案内される私の横で、家の夜支度が静かに進んでいく。火を残す場所、戸を閉める場所、水を置く場所。どれも大げさではないのに、ひとつ抜ければ夜が少し危なくなるのだろう。


 エリナさんについて、広間の奥へ向かう。


 さっき着替えた小部屋とは別の部屋だった。戸を開けると、まず布の匂いがした。強い香りではない。乾かした布と、木の箱と、しばらく使っていなかった部屋をきちんと手入れしている匂い。空き部屋の冷たさではなく、いつでも誰かを寝かせられるように保たれている部屋の匂いだった。


「ここを使いな」


 エリナさんが言った。


「前に娘が使っていた部屋だけど、今は空いてる。寝具は干してあるし、布も替えてある。水はそこの台。夜中に気持ち悪くなったら呼ぶ。外へ出るなら声をかける。遠慮して黙って動く方が危ないからね」


 部屋の中には、寝台が一つあった。


 大きすぎるわけではない。でも、ちゃんと身体を横にできる幅がある。木の枠は新しくない。角のところが少し丸くなっていて、何度も手が触れた跡があった。布はきれいに敷かれている。柔らかすぎる寝具ではなさそうだけれど、乾いていて、整っていて、夜を越すための場所として十分すぎるくらいだった。


 壁際には低い箱があり、その上に予備の布が畳んで置かれている。棚の下には、昔そこに別のものが置かれていたような跡があった。木の色が、そこだけ薄く違う。壁の低い位置には小さな傷がいくつかあり、床の端にも何かを引きずったような細い線が残っていた。


 子どもが使っていたのか、荷物を動かしたのか、細かいことは分からない。


 でも、ここがずっと静かな部屋ではなかったことだけは伝わってきた。


 この家には、前はもっと人がいた。


 荷車の上で聞いた「最後の娘が巣立った」という言葉が、ここでまた別の重さを持った。広い家。大きめの食卓。多くの器を収められる棚。今は空いている部屋。使われていないのに、放置されていない寝具。人が出ていったあとも、家はその人たちの形を少しだけ残している。


 私はその部屋へ足を踏み入れながら、ほんの少しだけ胸がいずくなった。


「本当に、ここを使っていいんですか」


 聞くつもりはなかったのに、口から出ていた。


 エリナさんは私を振り返る。


「使っていいから案内してるんだよ」


「でも、娘さんの部屋だったなら」


「今は空いてる。空いている寝台は使うためにある。遠慮して床で丸くなられる方が困るよ。明日の朝に具合を悪くされたら、こっちの手間が増える。寝台があるなら寝台で寝る。それだけ」


 それだけ。


 まただ。


 この家では、やたらと「それだけ」が強い。布は使うためにある。桶は使うためにある。空いた寝台は使うためにある。そこに思い出や遠慮や申し訳なさが絡まないわけではないのに、エリナさんはまず生活の手順として置いてくれる。だから私は、申し訳なさを抱えたままでも、そこへ座っていいような気がしてくる。


 それに、たぶん。


 この部屋を使わないまま空けておくことと、誰かが今夜ここでちゃんと眠れることは、別の話なのだ。思い出を踏むわけではない。借りるだけ。今日の夜を越すために、少し場所を貸してもらうだけ。


「……ありがとうございます」


「礼は明日の朝、起きてからでいいよ。今は寝る準備」


 エリナさんはそう言って、台の上の水差しと木の器を指した。


「喉が渇いたら、少し飲む。飲みすぎると夜中に起きるから、そこは加減しな。気分が悪い時は我慢しない。あと、用足しで裏へ行きたいなら、ひとりで出る前に呼ぶこと。夜は足元も見えにくいし、犬が反応することもある」


「分かりました。水はここ。気持ち悪くなったら呼ぶ。外へ出る時も呼ぶ」


「よし」


 寝るための手順まで、ちゃんとある。


 それが少しだけ可笑しくて、少しだけありがたかった。私は今日、ずっと手順に助けられている。湯を少しずつ飲む。用足しのあと灰を落とす。手を洗う。足を拭く。服を替える。食べる。今度は、寝る。異世界転移の初日とは思えないほど、身体の具体的な作業ばかりだ。


 でも、その具体がなければ、私はたぶん白い空間の記憶に足を取られていた。


 アーミヤが、部屋へ入ってきた。


 当然みたいに寝台へ近づき、布の匂いを嗅ぐ。前足で軽く踏む。布の沈み方を確かめるように、もう一度踏む。王冠付きのくせに、布の踏み心地を見るところは完全に猫だった。


「アーミヤ、まだ勝手に上がらない」


 私が言うより早く、エリナさんが言った。


 アーミヤの前足が止まる。


 止まるんね。


 私はまた変なところで感心してしまった。アーミヤは不満そうに耳を動かしたが、寝台へ飛び乗りはしなかった。かわりに、こちらを見てくる。許可はまだか、みたいな顔だ。


「足、もう一度見せな」


 エリナさんがしゃがむ。


 アーミヤは嫌そうにしながらも、前足を出した。さっき火のそばへ行く前に拭いたばかりなので、大きな汚れはない。エリナさんは毛先を軽く見て、小さな藁の欠片を一つ取った。


「よし。上がっていい。ただし暴れない」


 許可が出た瞬間、アーミヤは寝台へふわりと上がった。


 大きな身体なのに、音が軽い。布の上でくるりと向きを変え、まず端の方に座る。それから、私を見る。完全に先に宿泊審査を済ませた顔だった。


「親善大使、宿泊審査まで始めたんですか」


 小さく言うと、アーミヤは目を細めた。


 その顔で返事しないでほしい。ちょっと腹立つ。


 エリナさんが口元だけをゆるめる。


「その子がそこで落ち着くなら、あんたも少しは眠りやすいだろうね」


「はい。たぶん、かなり」


「たぶんは抜きたいところだけど、眠れるかどうかは寝てみないと分からないね。今日はそれでいいよ」


 その言い方が、少しだけ柔らかかった。


 私は寝台のそばへ近づいた。布に手を置く。思ったよりしっかりしている。柔らかく沈み込む感じではない。でも、身体を支える力がある。外の草でも、川辺の石でも、荷車の藁でも、土間の低い腰掛けでもない。人の家の中にある、夜を越すための場所だった。


 寝台へ腰を下ろす。


 布が、私の重さを受け止めた。


 その瞬間、今日一日の疲れが足元から上へ戻ってくるようだった。川辺で目を覚ました時の混乱。トルヴァンさんの背中。荷車の揺れ。鶏舎の声。エリナさんの目。湯の白。足を洗う布。黒パンの酸味。火の前の笑い話。全部がばらばらの荷物みたいに頭の中へ積まれているのに、寝台へ座っただけで、その荷物をいったん降ろしていいと言われた気がした。


 ここで寝るんだ。


 そう思った瞬間、胸の奥にあった力が少し抜けた。


 安心だけではない。怖さもある。知らない家で、知らない世界で、元の家ではない天井の下で眠る。それはやっぱり怖い。でも、外で倒れるより、荷車の上で丸くなるより、ずっといい。火の匂いがまだ遠くにあり、アーミヤが隣で丸くなり始めていて、水の場所も、呼べばいい相手も分かっている。


 それだけで、今夜を越える足場にはなる。


 エリナさんは、戸のところで最後にもう一度私を見た。


「布が足りなければ言いな。暑ければ一枚どける。寒いというより、今日は疲れで体の感じがずれることがあるからね。無理に我慢しないこと」


「はい。分かりました」


「眠れなくても、横になって目を閉じるだけでいい。考えごとは明日の朝に回しな。夜の頭は、ろくな方へ転がらないから」


 その言葉に、私は静かに頷いた。


 考えごとは明日の朝。


 そう言われても、たぶん考えてしまう。私はそういう人間だ。でも、少なくとも今夜は、考え続けるより横になる方が大事なのだと分かった。全部を整理しようとしたら、白い空間からここまでの道がまた頭の中で暴れ出す。だったら今は、寝台と布と水差しと、隣のアーミヤだけを見ていればいい。


「……はい。今日は、横になります」


「それでいい」


 エリナさんは短く頷いた。


 それから、少しだけ声を落とす。


「おやすみ、アユミ」


 名前を呼ばれた。


 それだけで、少しだけ胸に来た。


 この家で、私はまだ客なのか、拾われた子なのか、預かりものなのか、自分でも分からない。けれど、寝る前の声の中で名前を呼ばれると、少なくとも今夜だけは、ここに置かれているのだと分かる。曖昧な立場でも、名前だけはちゃんとそこにあった。


「おやすみなさい」


 私が返すと、エリナさんは戸へ手をかけた。


 戸が静かに閉まる。完全に閉じ切らず、細く空気が通るくらいの隙間が残っている。広間の火の匂いが、そこからほんのわずかに届いた。


 アーミヤは当然みたいな顔で、寝台の端へ丸くなった。


 私はその重みを横に感じながら、ようやく息を吐いた。


 今日一日ずっと探していた「横になれる場所」に、私はやっと辿り着いていた。


④ 一日目の終わり


 寝台に腰を下ろしたまま、私はしばらく動けなかった。


 布が、身体の重さをちゃんと受け止めている。柔らかすぎない。けれど、硬くもない。外の草の湿りでも、川辺の石の固さでも、荷車の藁のちくちくでもない。人の家の中にある、夜を越すための場所だった。そこへ自分が座っていることが、なんだかまだ少し信じられない。


 戸の向こうから、かすかな生活音がした。


 器を置く音。布を畳む音。火床の薪が小さく崩れる音。たぶんトルヴァンさんが戸口か外を確認しているのだろう、低い床板のきしみも聞こえた。エリナさんの声はもう聞こえない。でも、あの人の手がまだ家の中のどこかで動いている気配はある。水を置き、火を見て、布を整え、明日の朝へ向けて家を閉じていく。家の外では、遠くの犬が一度だけ短く鳴いた。


 夜だ。


 異世界の、知らない村の、知らない家の夜。


 私はゆっくり寝台へ横になった。布が背中を受け止める。寝台は少しだけ軋んだが、不安になるような音ではなかった。人が使ってきた道具の音だ。私一人を乗せたくらいでは驚かない、という感じの古い木の音だった。


 天井には、木の板が見えた。


 節のある板。少し色の違う筋。小さな傷。どこかに薄い影。白雪家の自室の白い天井ではない。机も、本棚も、積みっぱなしの参考書も、みかんの皮も、暖房の低い音もない。寝る前にスマホをちょっと見ることもできないし、弟の部屋から妙なゲーム音が漏れてくることもない。


 それでも、火の匂いがした。


 戸の隙間から、ほんの少しだけ流れてくる。薪の匂い。豆の汁の名残。黒パンの重い香りが遠くなったもの。布と木の家の匂い。私の家の匂いではないのに、身体のどこかが、それを安全の方へ分類しようとしている。


 なまら勝手だと思う。


 頭はまだ何も納得していないのに、身体の方が先に「ここは外じゃない」と判断し始めている。風の中ではない。白い空間でもない。知らない草の上でもない。喉も、足も、腹も、先にそれを覚え始めていた。


 アーミヤが、寝台の端で丸くなった。


 大きい。


 丸くなっても存在感がある。長い毛が布の上へふわりと広がって、王冠だけが、丸い毛玉の上に当然みたいに乗っている。寝る時も落ちないんね。ほんと、なした仕組みなの。そう思ったけれど、今はそこを考える気力がなかった。


 私はそっと手を伸ばして、アーミヤの背中へ触れた。


 温かい。


 さっきまで火のそばにいたからか、毛の奥にぬくもりが残っている。指を沈めると、長い毛が少し遅れて戻ってきた。生き物の温かさだった。王冠も、若返りも、白い空間も、全部わけが分からない。でも、この毛の下にアーミヤがいて、息をしていて、私の横で丸くなっている。それだけは分かる。


 アーミヤは目を開けなかった。


 でも、しっぽの先だけがほんの少し動いた。触るな、ではなさそうだった。好きにしろ、でもなさそうだった。たぶん、今だけ許す、くらいの顔を目を閉じたまましている。想像だけど、かなり合っている気がする。


「……アンタ、ほんと順応早いよね」


 小さく言うと、アーミヤは喉の奥で短く鳴った。


 返事なのか、寝言なのか、相変わらず分からない。


 でも、それで少し戻れた。


 今日のことが、少しずつ浮かんできた。


 白い空間。


 音も上下も分からなくなる、あの白。そこから川辺へ落ちた。草が濡れていて、手に土がついて、喉が乾いていて、私は何が起きたのか分からないまま膝をついていた。そこへトルヴァンさんが来た。大きな背中。水袋。短い言葉。荷車の揺れ。川の匂いが離れて、土と柵と畑の匂いが近づいて、犬の声が聞こえた。


 鶏舎も見た。


 ミラ。ヨハン。シア。


 卵の籠。羽の音。王冠付きのアーミヤを見て、子どもたちが目を丸くしていた。シアが「その猫、へん」と言った時の顔まで思い出して、暗い部屋の中で少しだけ口元が緩みそうになる。変なのは本当だから、否定できなかった。たぶん明日も、あの子たちはアーミヤのことを気にするんだろう。


 それから、火のある家。


 エリナさん。


 大丈夫って顔じゃないよ、と言われた。手を洗った。湯を飲んだ。用足しの場所を教わった。足を洗った。服を借りた。黒パンと豆の汁を食べた。アーミヤは鶏肉をもらって、火のそばを自分の場所みたいにした。トルヴァンさんとエリナさんは、前に吟遊詩人だか何だかも拾った話をしていた。


 いろいろありすぎる。


 情報量がわやだ。


 それなのに、いちばん身体に残っているのは、湯の器の熱と、黒パンの重さと、足を拭いた布の感触だった。大事件の中で、人間の身体はこういう小さいものを先に覚えるらしい。なんも解決していないのに、喉が戻ったとか、足が乾いたとか、腹に温かいものが入ったとか、そういうことだけが妙に確かだ。


 ふと、火の前で聞いた吟遊詩人の話が戻ってきた。


 エリナさんは呆れた顔をしていた。


 トルヴァンさんは、悪い奴ではなかった、と短く言っていた。


 歌うより喋る方が長くて、子どもたちが変な節回しを真似して、家じゅうで歌って、エリナさんが困ったらしい。そこまでは笑い話だった。私も、つられて少し笑った。火の前でそんな話を聞くと、この家が今だけの静かな家ではなくて、前にも誰かを泊めて、騒がしくなって、あとで笑い話にしてきた家なのだと分かった。


 腹が空いたら火のそばへ、泣くなら食べてからにしろ。


 その一節は、変だけれど分かりやすかった。


 今日の私には、むしろ分かりやすすぎるくらいだった。泣くより先に、私は湯を飲まされて、足を洗われて、服を借りて、黒パンと豆の汁を食べさせられた。泣く余裕を与えられなかったとも言えるし、泣く前に倒れない形へ戻されたとも言える。


 でも、もう一つ。


 会話の途中で、エリナさんかトルヴァンさんがうろ覚えで口にした、別の一節があった。


 その場では、火の音と器の音に紛れていた。古い言い回しも混ざっていた気がするし、私の頭ももうかなり重かった。だから、全部を正しく聞き取れたわけではない。けれど、その中の言葉だけが、妙に耳の奥へ引っかかっていた。


 灯が集まり、輪を閉じる。


 名のないものが外で鳴る。


 風の入らぬ火は痩せて、


 戸口の火だけ夜を越す。


 意味は、よく分からない。


 変な歌だと思った。火だの輪だの、戸口だの、いかにも旅の人が好きそうな言葉を並べた節なのかもしれない。どこかの古い言い伝えかもしれないし、ただ節回しを面白くするための言葉遊びかもしれない。歌というものは、たぶんそういう曖昧さも一緒に運ぶものなのだろう。


 けれど、なぜかそこだけ耳に残っていた。


 輪を閉じる。


 名のないものが外で鳴る。


 今日の私は、たぶん戸口の外にいたものだ。名前は名乗った。アユミ、と言った。でも、この村の人間ではない。どこの者なのかも、何者なのかも、まともに説明できない。名があっても、ここでの身元がない。そういう意味では、名のないものと大して変わらないのかもしれない。


 私は戸口の外にいて、トルヴァンさんに拾われた。


 エリナさんの家の火のそばへ置かれた。


 戸口の火だけ夜を越す。


 そこまで考えて、私は目を閉じかけた。


 考えるな。


 いや、考えるなと言われると考えたくなるのが私の悪い癖なんだけど、今夜は本当にやめた方がいい。エリナさんに言われたばかりだ。夜の頭は、ろくな方へ転がらない。今の私の頭は、白い空間からここまでの荷物を積みすぎて、もう車輪がぎしぎし言っている。ここで輪だの火だの名のないものだのを分類し始めたら、たぶん棚が崩れる。


 分からない言葉は、明日の朝へ送る。


 それでいい。


 今日はもう、寝る。


 元の家のことが、また少しだけ近づいてきた。


 ママンの「急いで飲まないの」という声。パパンの短い返事。弟の茶化す声。自室の天井。机の上のノート。書きかけの課題。暖房で乾いた空気。みかんの匂い。


 胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。


 開けたら駄目だ、と思った。


 今そこを全部開いたら、たぶん泣く。泣いたら、何に泣いているのか自分でも分からなくなる。戻れないかもしれないことなのか、戻りたいことなのか、ここで助けられていることなのか、助けられてしまっていることなのか、全部混ざってしまう。


 私はアーミヤの背中へ置いた手に、少しだけ力を入れた。


 アーミヤは目を開けなかった。ただ、喉の奥で小さく鳴った。ごろ、とも、ん、ともつかない音。肯定なのか、うるさいのか、眠いだけなのか、分からない。


 でも、それで少し戻れた。


 ここは白雪家ではない。


 けれど、今夜は外ではない。


 火の匂いが残る家の中で、布の上に横になっている。水の置き場所も分かる。具合が悪ければ呼べと言われている。アーミヤが横にいる。王冠は相変わらず謎だけど、今は落ちない謎として、そこに乗っていればいい。


 帰り方は分からない。


 ここがどこなのかも、まだちゃんとは分からない。


 私の身体がどうなったのかも、アーミヤがどうして少し若返ったみたいなのかも、あの白い違和感が何だったのかも、何も分からない。


 でも、今日は生き延びた。


 たぶん、そこだけは言っていい。


「……とりあえず、生き延びたってことでいいんだべか」


 小さく呟くと、アーミヤは目を開けないまま、喉の奥でまた短く鳴いた。


 肯定なのか、もう寝ろなのかは分からない。


 でも、今夜はどちらでもよかった。


 私はアーミヤの背に手を置いたまま、木の天井をもう一度見た。知らない天井。知らない家。知らない村。けれど、火の匂いだけはまだ届いている。戸の隙間から細く流れてくるその匂いが、ここが外ではないことを何度も教えてくれる。


 初日から満点なんて無理だ。


 帰り方も分からないし、説明できることも少ない。自分の身体のことさえ、まだちゃんと分からない。けれど、白い空間から落ちて、川辺で固まって、知らない大人に拾われて、知らない村へ入り、知らない家の火のそばで湯を飲み、黒パンと豆の汁を食べて、今は布の上にいる。


 満点ではない。


 でも、零点でもない。


 いや、異世界初日採点とか始めるの、さすがに脳が疲れすぎてるしょや。


 私は目を閉じた。


 まぶたの裏に、火の赤と、湯気の白と、オレンジのスカートの色が少しだけ残った。そこへ、さっきの歌の一節が薄く混ざる。


 灯が集まり、輪を閉じる。


 名のないものが外で鳴る。


 意味は分からない。


 分からないままでいい。


 今夜は、分からないものを全部抱えたままでも、眠っていい。


 異世界生活一日目。


 何も解決していない。


 けれど、外ではなく、火の匂いが残る部屋で眠れる。


その事実を抱えたまま、私はようやく眠りの方へ落ちていった。

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