表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/32

第4話 前編 黒パンと湯気

第4話 前編 黒パンと湯気


① 湯気の向こう


② 家の手順と、用足し


③ 手と足を洗う家


④ エリナから借りた服


――アユミ視点/異世界生活一日目・夜――


① 湯気の向こう


 両手で持った器から、湯気がゆるく上がっていた。


 白い。


 けれど、それはさっきまで私を呑み込んでいた白とは、まるで違う白だった。音を消す白ではない。床も壁も机も、家族の声も、全部を遠ざける白ではない。火で温められた水が、器の上でほどけているだけの白。手を伸ばせば触れられる距離にあって、両手で抱え込めるくらい小さな白だった。


 私はしばらく、その湯気を見ていた。


 ただのお湯だと思う。


 少なくとも、見た目はそうだった。色がついているわけでもないし、甘い匂いもしない。薬みたいな苦い香りも、香草の強い気配もない。けれど、器越しに指へ伝わる熱だけで、ここが川辺ではないことが分かった。風の吹く外ではない。知らない草の上でも、荷車の藁の上でもない。


 火のある家の中だ。


 人の手で温められたものを、私は今、両手で持っている。


「少しずつ飲みな。慌てると気持ち悪くなるよ」


 エリナさんが、鍋の方を見ながら言った。


 こっちをじっと見ているわけではない。けれど、私が器を持ったまま固まっていることは、ちゃんと分かっている声だった。火床のそばで柄杓を置き、布の位置を直し、桶の横へ膝を少し向ける。その手は動いているのに、意識の一部だけがこちらへ残っている。


「はい」


 返事をしただけで、喉の奥がひっかかった。


 そこでようやく、私は自分がまだ喉の奥まで乾いていることを思い出した。川辺でトルヴァンさんの水を少し飲ませてもらった。けれど、あれだけで足りるはずがない。白い空間から落ちて、川辺で固まり、荷車に揺られ、知らない村へ入って、知らない家の土間で手を洗った。緊張が強すぎて、喉の渇きが後ろへ押し込まれていただけだ。


 器を少しだけ口元へ近づける。


 湯気が鼻先へ触れた。


 熱くはない。けれど、ちゃんと温かい。唇へ当てると、器の縁の丸さが先に分かって、そのあとで湯の熱が舌へ触れた。私は言われた通り、ほんの少しだけ飲む。


 喉へ落ちた瞬間、身体の中で何かが小さくほどけた。


 寒かったからではない。ここは冬ではない。外の風は、私の知っている北海道の冬の風とは全然違っていた。草の匂いも、土の柔らかさも、夏寄りのものだった。だからこれは、冷えた身体が温まった、というより、ずっと固まっていた喉と胃が、ようやく「飲んでいい」と思い出した感じに近い。


 もう一口。


 今度は、最初より少しだけ飲みやすかった。


 喉の内側に貼りついていた薄い乾きが、ゆっくり剥がれていく。白い空間のことも、川辺のことも、身体が少し若返ったような違和感も、何一つ解決していない。けれど、湯を飲むという小さな行為だけは、今ここで確かにできる。


 なんだろう。


 ただ飲んでいるだけなのに、人間へ戻されている感じがする。


 なまら単純だべさ、と思う。思うけれど、その単純さが今はありがたかった。


「一気にいくんじゃないよ」


 エリナさんの声が、ちょうど私が三口目を少し多めに飲もうとしたところへ飛んできた。


 私は器を止める。


「見えてました?」


「音で分かるよ」


 音で。


 私は思わず、器の中の湯を見た。自分ではそんなに音を立てているつもりはなかった。けれど、エリナさんには分かるらしい。飲み込みの速さ、器を傾ける角度、喉が鳴る小さな気配。家の中で人の面倒を見てきた人には、そういうものが拾えるのかもしれない。


「大丈夫です。たぶん」


 言ってから、しまったと思った。


 エリナさんの目が、すっとこちらへ来る。


「たぶんは抜き」


「……大丈夫、ではあります。気持ち悪くはないです。喉が、ちょっと戻ってきました」


「それでいい」


 短く頷かれる。


 私は器を両手で持ったまま、少しだけ息を吐いた。


 大丈夫、と言えば済む場所ではないのだ。この家では、少なくともエリナさんの前では、曖昧な大丈夫はそのまま通らない。喉が渇いている。気持ち悪くはない。足が湿って気持ち悪い。袖が濡れている。そういう、分かるところから言わないと、手順が進まない。


 それは少し厳しい。


 でも、今の私にはかなり助かる。


 全部を説明しろと言われたら、私はたぶん詰まる。どこから来たのかも、なぜここにいるのかも、アーミヤの王冠が何なのかも、まともに説明できない。けれど、湯が飲めるかどうかなら言える。気持ち悪いかどうかなら、少しは分かる。そういう小さな確認だけを先に拾ってもらえると、わやになった頭の中へ、細い道が一本通る気がした。


 トルヴァンさんは、火床の真正面にはいなかった。


 少し斜め、戸口寄りの位置。水袋と荷の方を軽く確認しながら、こちらへ背中を半分だけ向けている。見張られている感じではない。でも、もし私が器を落としたり、急に立てなくなったりしたら、すぐ動ける距離だった。


 さっき荷車で揺れを小さくしてくれた時と似ている。


 前へ出すぎない。


 でも、いなくならない。


 そういう距離感だ。


「飲めるか」


 トルヴァンさんが短く言った。


「はい。飲めます」


「ならいい」


 それだけだった。


 それだけなのに、少しだけ肩の力が抜ける。


 長く慰められたら、たぶん困る。根掘り葉掘り聞かれても困る。何も聞かれなさすぎても、きっと怖い。今の私には、このくらいの短い確認がちょうどよかった。


 土間の方で、アーミヤがしっぽを一度だけ揺らした。


 私はそちらを見る。


 アーミヤは土間の端、薪の近くで座っていた。火の方を見ている。完全に見ている。あれはもう、どうやってあの火のそばを自分の場所にするか考えている顔だった。長い毛の先には、まだ外の土と草の細かな欠片がついている。前足の毛も少し汚れていた。王冠だけは相変わらず、何もなかったみたいに頭へ乗っている。


 アーミヤたん、アンタもう火のそばを自分の席にする気でしょ。


 そう思っていたら、エリナさんがアーミヤを見ずに言った。


「猫はまだそこ。毛を拭くまで火のそばはなし」


 アーミヤの耳が、ぴくりと動いた。


 聞いている。


 絶対に聞いている。


 私は思わず器の向こうで口元を押さえそうになった。湯を持っているから危ない。笑うところではない。けれど、王冠付きの巨大猫が、知らない家の土間で女主人に火のそばを禁止されている絵面は、かなり強かった。


 アーミヤは不満そうに目を細めたが、動かなかった。


「……賢いですね」


 私が小さく言うと、エリナさんは今度こそアーミヤを見た。


「賢いけど、賢い猫ほど勝手も覚えるよ」


「たぶん、もう覚え始めてます」


「だろうね」


 当たり前みたいに返された。


 アーミヤは、知らん顔をしている。


 いや、アンタの話だからね。


 でも、そのやり取りのおかげで、胸のあたりに固まっていたものがちょっこしだけ緩んだ。アーミヤがいる。王冠付きで、デカくて、若返ったかもしれなくて、火のそばを狙っている。変なことだらけなのに、変だからこそ、私は白い空間へ引き戻されずに済んでいるのかもしれない。


 器の中の湯を、また少し飲む。


 今度は、喉がちゃんと受け取った。


 湯が胃へ落ちていく感覚がある。食べ物ではない。ただの湯だ。それでも、身体の内側が「ここから先に何かを入れていい」と少しずつ許可を出していく感じがした。緊張で強張っていた胃が、まだ警戒しながらも、ぎゅっと閉じていた手をほんの少し開く。


 喉と胃。


 手と器。


 湯気と火。


 そこだけを見ていれば、今は何とかなる。


 けれど、ふいに、元の家のことが差し込んできそうになった。


 夜にママンが、熱すぎる飲み物を置きながら「急いで飲まないの」と言ったことがあった。パパンはパパンで、熱いものを平気そうな顔で飲んで、弟が「味分かってる?」と突っ込んでいた。そういう、どうでもいい一場面が、湯気の向こうから顔を出しかける。


 駄目だ。


 今それを開けると、たぶん器を持つ手が変になる。


 私は急いで、目の前の湯気へ意識を戻した。


 ここは白雪家ではない。


 机も、本棚も、みかんの皮もない。


 ここはトルヴァンさんとエリナさんの家で、私は低い腰掛けに座っていて、土間にはアーミヤがいて、火床の赤い光が木の床に揺れている。


 今は、それでいい。


 それだけ拾えばいい。


「どうした」


 トルヴァンさんの声がした。


 私は少しだけ顔を上げる。


「いえ。ちょっと、元の家を思い出しかけただけです」


 言ってから、しまったと思った。


 そこまで言うつもりはなかった。けれど、湯のせいかもしれない。喉が少し戻ると、言葉まで少し戻ってくる。戻ってきた言葉が、必ずしも安全とは限らない。


 エリナさんの手が一瞬だけ止まった。


 トルヴァンさんも、何かを言う前に黙った。


 その沈黙は、長くはなかった。けれど、さっきまでの実務の音の中では、はっきり分かる沈黙だった。


 エリナさんは、すぐに視線を私の器へ戻した。


「思い出すのは後でもできるよ。今は喉」


 その言い方が、妙に優しくて、妙に厳しかった。


 慰めではない。


 泣いていいよ、と言われたわけでもない。


 けれど、今はそっちへ行かなくていい、と手を引き戻された感じがした。


「……はい」


 私は小さく頷く。


 ありがたかった。


 泣きたくないわけではない。泣けるなら泣いた方がいいのかもしれない。でも、今泣いたら、たぶん何が悲しいのか自分でも分からないまま崩れる。元の家のこと。戻れないかもしれないこと。身体の違和感。知らない世界。優しくされていること。その全部が混ざって、たぶん手がつけられない。


 エリナさんは、それを分かっているのかもしれない。


 分かっていないのかもしれない。


 でも、今は喉、と言われるだけで、私はその細い道へ戻れた。


 湯をもう一口飲む。


 今度は、ちゃんとゆっくり。


 器を傾けすぎない。喉が受け取るのを待つ。胃が嫌がらないか確かめる。そうやって飲むと、湯はただの水よりずっとゆっくり身体の中へ入っていく気がした。急がせない温度。急いだらだめだと教えてくる温度。


 しばらくして、器の中身が半分ほど減った。


 私は両手で器を包んだまま、指先を少し動かしてみる。手はまだ少し赤い。けれど、洗う前よりはずっと自分の手らしい。土が落ちた手で、湯の器を持っている。たったそれだけの順番なのに、世界の端が少しずつ戻ってくる。


「気持ち悪くはないかい」


 エリナさんが聞いた。


「ないです。喉は、かなりましです。胃も……たぶん、じゃなくて、今のところ大丈夫です」


「よし」


 その「よし」に、私は少しだけ笑いそうになった。


 返事を直せたから、というより、自分の身体の状態を言葉にできたことが、少しだけうれしかった。こんなことでうれしいのも変かもしれない。けれど、今日は変なことばかりだ。細かいところにしがみついていかないと、頭の棚がまた雪崩を起こす。


 外では、遠くの犬が一度だけ短く吠えた。


 家の中へ入ると遠くなったはずの村の音が、壁の向こうから薄く届く。鶏舎のざわめきも、誰かが戸を閉める音も、もう夜へ向かう準備の中に沈み始めている。私はその音を聞きながら、ここが一軒だけで完結しているわけではないのだと思った。


 村の中の一軒。


 その一軒の土間で、私は湯を飲んでいる。


 まだ客なのか、拾われた子なのか、預かりものなのか、自分でも分からない。でも、少なくとも今は、外の風にさらされてはいない。火のある内側にいて、器を持っている。


 それだけで、今日の私はだいぶ助かっている。


 エリナさんが、私の器と顔色を見比べた。


「もう少し飲めるかい」


「飲めます」


「なら、あと少し。全部飲まなくてもいい」


「はい」


 私はまた湯を口に含んだ。


 今度は、舌が熱を先に怖がらなかった。喉も拒まない。乾きが薄くなって、代わりに空腹が少しだけ輪郭を持ち始める。ついさっきまでいたはずの元の家では、夕食前に何かをつまみ食いしたくなることもあった。けれど今の空腹は、それとは違う。身体がようやく、生きるために必要な順番を思い出し始めた感じだった。


 喉。


 腹。


 足。


 服。


 寝る場所。


 そうやって、問題がいくつも並ぶ。


 帰る方法とか、王冠とか、魔法っぽいものとか、大きすぎる問題はまだ棚の奥に置かれている。でも、身体の問題は待ってくれない。喉は渇く。足は湿る。腹は減る。眠くなる。大事件の中でも、人間の身体は人間のままだ。


 それが少し腹立たしくて、少し安心した。


「アユミ」


 エリナさんが呼んだ。


「はい」


「飲めたなら、次は用足しは大丈夫かい」


 その言葉に、私は一瞬だけ固まった。


 完全に頭から抜けていた。


 抜けていたけれど、言われた瞬間、身体の方が静かに思い出す。緊張で棚の奥へ押し込んでいたものが、今になって順番を取りに来たみたいだった。


「あ……」


 私は器を抱えたまま、間抜けな声を出した。


 エリナさんは、少しも笑わなかった。


「忘れてただろう」


「……はい。完全に」


「そういう時ほど、あとで具合が悪くなる。行けるなら先に済ませるよ」


 実務。


 ものすごく実務。


 でもその実務が、今はなまらありがたい。


 私は湯の器を見下ろした。湯気はもう、最初より細くなっている。白い空間とは違う白。両手の中でほどけていた白。その向こう側で、私の身体が、まだ他にもいろいろなことを後回しにしていたのを思い出している。


「……はい」


 私は小さく頷いた。


 器の熱はまだ、手のひらに残っていた。


、しかも自分の足がまだこの世界の土にちゃんと合っていない感じがする。


「その履き物、脱げるかい」


 エリナさんが言った。


「はい。脱げます」


「じゃあ、そこへ座りな。足元を見せて」


 そう言って、エリナさんはまた桶の方へ手を伸ばした。


 私は言われた低い腰掛けへ座り直す。


 火の匂いが近い。


 湯の器の熱は、もう手のひらからほとんど消えていた。けれど、その代わりに、家の手順が次の場所へ移っていくのが分かった。


 喉の次は、用足し。


 その次は、足。


 この家は、私を少しずつ、人の形へ戻していく。




② 家の手順と、用足し


 エリナさんは、私の手から器を受け取った。


「まだ残ってるね。戻ったらまた飲みな」


「はい」


 器が手から離れると、手のひらに残っていた熱だけが、ふっと薄くなった。


 さっきまで両手の中にあった湯気の白は、もう目の前にはない。けれど、指の内側にはまだ温かさが残っている。喉の奥も、最初よりずっと楽になっていた。だからこそ、身体の方がようやく別の順番を思い出したのだと思う。


 忘れていた。


 完全に。


 緊張で棚の奥へ押し込んでいたものが、今になって「次はこっち」と札を出してきた感じだった。


 恥ずかしい。


 でも、エリナさんは笑わなかった。


「そういう時ほど、あとで具合が悪くなる。行けるなら先に済ませるよ」


 淡々としている。


 からかうでもなく、気まずくするでもない。ただ、身体の手順として処理する声だった。その実務感が、かなり助かった。ここで変に笑われたり、妙に気を遣われたりしたら、私はたぶん、どこを見ればいいか分からなくなっていた。


 エリナさんは器を低い台へ置き、土間の脇へ目を向けた。


「裏へ回ったところにある。板で囲った小さいところだよ。灰の桶が置いてあるから、終わったらひとつまみ落とす。手洗いの水は脇」


「灰、ですか」


「匂いも湿りも抑える。分からなければ呼びな。無理に触らなくていい」


 説明は短い。


 でも、必要なものは全部そこに入っていた。


 裏へ回る。板で囲った小さいところ。灰の桶。終わったらひとつまみ。手洗いの水は脇。分からなければ呼ぶ。


 私は頭の中で、急いで札を並べる。


 トルヴァンさんは、そのやり取りには入ってこなかった。戸口の方へ半歩ずれて、外の荷車の気配を見ている。聞こえていないわけではないと思う。けれど、ここはエリナさんの領分だと分かっているみたいに、余計な視線をこちらへ寄せない。


 その距離が、また助かった。


 家に入れてもらったばかりの知らない男の人に、こういう場面まで意識されたら、さすがに精神がきしむ。トルヴァンさんは短く「足元、気をつけろ」とだけ言って、あとは戸の方を見ていた。


「はい」


 私は立ち上がろうとして、足元を見た。


 室内履き。


 土と草の汁がついて、もう白っぽかった部分もくすんでいる。底は薄い。家の土間ならまだしも、外へ回るには頼りない。


 でも、今はこれしかない。


「急がなくていい」


 エリナさんが言う。


「外へ出てすぐ右。戸を閉めてから使いな。アーミヤはここ」


 最後の一言は、私ではなく土間のアーミヤへ向いていた。


 アーミヤは、当然のようにこちらへついて来る気配を出していた。いや、ついて来なくていい。さすがにそこは待っていてほしい。


「アーミヤ、待ってて」


 私が言うと、アーミヤは耳を少しだけ伏せた。


 不満そう。


 でも、動かない。


 火のそばへ行けないなら私について行く、みたいな顔だったのかもしれない。猫って自由に見えて、こういう時だけ妙に同行者ぶる。王冠付きの大型同行者。情報量が多い。


「戻ったら拭くよ。毛に土がついてるからね」


 エリナさんが言うと、アーミヤの耳がまた動いた。


 完全に理解しているとは思わない。でも、声の意味は拾っている気がする。アーミヤは火床の方を一度見て、それから土間に腰を落ち着けた。王冠は今日も落ちない。知らない家の土間で待機する猫の頭に、王冠。やっぱり絵面が強すぎる。


 私は小さく息を吸って、戸口へ向かった。


 外へ出ると、夕方から夜へ変わる手前の空気が頬に触れた。


 昼の風ではない。けれど、冬の寒さでもない。土と草と、家の壁に残った昼の温度が、ゆっくり夜へ渡されていく匂いがする。トルヴァン家の戸口からほんの数歩離れただけで、火の匂いが背中へ回り、外の匂いが前へ出てきた。


 言われた通り、家の裏側へ回る。


 足元の土は踏み固められていた。暗くなりかけているので、細かな凹凸までは見えにくい。でも、家の壁に沿って短い板囲いがあり、その先に小さな扉があるのは分かった。完全な離れというより、母屋の裏へ寄せるように作られている。雨や風を少し避けられる位置だ。


 近くまで行くと、灰と乾いた土の匂いがした。


 においは、ある。


 でも、思ったほどではなかった。


 もっとひどいものを想像していたから、少し肩透かしを食らう。もちろん、現代日本の水洗トイレみたいな無臭空間ではない。そんなわけがない。けれど、放置された汚さではなかった。乾いた土の匂い、灰の匂い、木の古い匂いが混ざっていて、そこに生活の現実が乗っている。


 ちゃんと管理されている場所の匂いだ。


 扉の前の土は、よく踏まれている。脇には小さな水桶が置かれ、布もかけてあった。灰の入った桶も、手の届く場所にある。蓋代わりなのか、板が一枚斜めに乗っていた。小さな換気窓のような隙間もある。


 私は、その構造を少しだけ見てしまった。


 変なところで感心する。


 いや、感心する場所なのかは分からない。分からないけれど、ここを雑にしていないことが妙に大きく感じられた。食べるところや寝るところだけ整っている家ではない。食べたあと、身体がどうするかまで含めて、家の中の手順として置かれている。


 生活って、そういうことだ。


 食べる。


 飲む。


 洗う。


 出す。


 手を洗う。


 灰を落とす。


 また家へ戻る。


 当たり前なのに、今の私はその当たり前を一つずつ教えてもらわないと動けない。


 それが少し情けない。


 でも、手順があること自体は、かなり安心できた。


 扉の中も、思っていたよりずっと実務的だった。木の座面。足元の乾いた土。灰の桶。小さな換気の隙間。飾りはない。けれど、必要なものが必要な位置にある。暗くなりすぎないよう、扉の上の方に細く明かりが入る隙間もあった。


 異世界生活一日目。


 最初に強く刺さるカルチャーショックが、魔法でも王族でもドラゴンでもなく、こういう場所なのは、なまら地に足がつきすぎている。


 でも、たぶんこれでいい。


 魔法があっても、王冠付き猫がいても、人間はこういうところから逃げられない。


 用を済ませ、教わった通りに灰をひとつまみ落とす。


 灰は軽くて、指先にさらりと残った。匂いを吸うというより、湿ったものを覆って、空気と切り離す感じだ。私はその動きを見て、なんとなく納得する。完全ではない。でも、何もしないよりずっといい。家の人が毎日扱いやすくするための、小さくて強い手順だ。


 外へ出て、脇の水桶で手を洗う。


 水は冷たすぎない。けれど、湯とは違う。指先に残った灰を落とすと、また手が自分のものに戻る。私は布で水気を押さえながら、もう一度だけ小さな小部屋を見た。


 食卓だけでは家にならない。


 火床だけでも家にならない。


 こういう面倒な場所まで、ちゃんと場所をもらっているから、家なのだと思った。


 そう考えた瞬間、胸の奥に変な重さが来た。


 元の家のことを思い出しそうになったからだ。


 自分の家の洗面所。トイレの明かり。手を洗ったあと、適当にタオルで拭いて、ママンに「ちゃんと拭いた?」と言われたこと。弟が長くこもっていて文句を言ったこと。そういう、どうでもよすぎる日常が、急に後ろから来る。


 駄目。


 今それを開けると、ここで動けなくなる。


 私は布をぎゅっと握って、家の方へ視線を戻した。


 トルヴァン家の戸口から、火の明かりが細く漏れている。


 あそこへ戻る。


 今はそれだけ考える。


 土間へ戻ると、火の匂いがすぐ近くなった。


 戸をくぐるだけで、外の土の匂いが背中へ下がり、家の中の木と湯と火の匂いが前へ出る。ほんの少し前までは、この匂いの内側へ入ることすら怖かったのに、今は戻ってきたと思ってしまった。


 早い。


 順応、早い。


 でも、そう思うくらいには、火の匂いに助けられている。


 エリナさんは、私が戻るとすぐに手元を見た。


「洗ったね」


「はい」


「灰は」


「ひとつまみ落としました」


「よし」


 採点みたいな「よし」だった。


 けれど、今はそれがちょっと安心する。ちゃんと手順を踏めた。知らない家の中で、ひとつだけ正しくできた。そんな気がしたからだ。


 アーミヤは土間に座ったまま、私を見上げていた。


 遅い、と言っているような顔だった。


 待ってたのは偉い。でもその顔はちょっと腹立つ。


「ただいま」


 小さく言うと、アーミヤはしっぽを一度だけ動かした。王冠は相変わらず落ちない。火のそばへ行きたそうな目も相変わらずだ。


「アーミヤ、ちゃんと待ってたんだ」


「待ってたというより、止められてただけだね」


 エリナさんがさらっと言った。


 正確すぎる。


 私は少しだけ笑いそうになった。


 その時、トルヴァンさんが戸口の方から戻ってきた。外の荷車か、置いていた斧か、何かの確認をしていたのだろう。私と目が合うと、短く言う。


「足元、滑らんかったか」


「大丈夫です。道、踏み固められてました」


「ならいい」


 また短い。


 でも、そこを気にしてくれていたらしい。


 さっきの小部屋も、そこまでの道も、慣れている人には何でもない場所だと思う。けれど、私の足元はまだ室内履きで、しかも湿っている。トルヴァンさんは、そういう実用の部分をちゃんと見ている。


 エリナさんも同じだった。


 彼女は私の手を見て、次に顔色を見て、それから足元へ視線を落とした。順番が早い。喉。手。用足し。その次は、もう決まっているらしい。


「よし。次は足だね」


 言われた瞬間、私は足元を見た。


 室内履きの底は、外へ出たせいでまた少し土を拾っていた。薄い布の内側も、相変わらず湿っている。川辺の草。荷車の藁。村の道。家の裏へ回った土。その全部を、頼りない底が吸い込んでいる。


 足の感覚が急に戻ってくる。


 痛いほどではない。


 でも、いずい。


 湿っていて、落ち着かなくて、しかも自分の足がまだこの世界の土にちゃんと合っていない感じがする。


「その履き物、脱げるかい」


 エリナさんが言った。


「はい。脱げます」


「じゃあ、そこへ座りな。足元を見せて」


 そう言って、エリナさんはまた桶の方へ手を伸ばした。


 私は言われた低い腰掛けへ座り直す。


 火の匂いが近い。


 湯の器の熱は、もう手のひらからほとんど消えていた。けれど、その代わりに、家の手順が次の場所へ移っていくのが分かった。


 喉の次は、用足し。


 その次は、足。


 この家は、私を少しずつ、人の形へ戻していく。


③ 手と足を洗う家


 低い腰掛けへ座ると、足元の頼りなさが急に近くなった。


 さっきまでは、立っているだけで精一杯だった。戸口を越えること。湯の器を落とさないこと。用足しの場所を間違えないこと。そんな目の前の手順を追っているうちは、足のことも、履き物のことも、頭の端へ押しやられていた。


 けれど、エリナさんに「足元を見せて」と言われた瞬間、全部が戻ってきた。


 湿っている。


 いずい。


 室内履きの底が薄くて、歩くたびに土の硬さや小石の気配を拾いすぎる。川辺の草の湿りも、荷車の藁の細かい屑も、村の土道も、家の裏へ回った足跡も、全部がこの頼りない足元にまとわりついている気がした。


 私は、足を少し引いた。


「痛いのかい」


 エリナさんがすぐに聞く。


「あ、痛いほどじゃないです」


「痛いほどじゃない、じゃなくて。どこがどうか言いな」


 また直された。


 私は息を吸って、足元を見た。


「湿ってます。あと、底が薄いので、歩いた時に土とか小石の感じが直接来るというか……足の裏が落ち着かないです。ちょっと擦れてるかも、です」


「よし」


 エリナさんは短く頷いた。


 怒られているわけではない。けれど、曖昧な言葉は通してくれない。喉の時も、用足しの時もそうだった。大丈夫かどうかではなく、どこがどうなのか。そういう聞き方をされると、自分の身体を雑に棚へ押し込めなくなる。


 エリナさんは桶を引き寄せた。


「脱げるかい」


「はい」


 私は室内履きへ手を伸ばした。


 その瞬間、少しだけ指が止まる。


 ただの室内履きだ。


 家の中で履いていたもの。白雪家の床を歩くためのもの。階段を下りて、台所へ行って、弟の落とした何かを避けて、ママンに「足音で分かる」と言われるくらい、当たり前に履いていたもの。


 それが今、土と草の汁で汚れている。


 異世界の川辺の湿りを吸って、リンドフェルト村の土をくっつけて、トルヴァン家の土間に置かれようとしている。


 元の世界の最後の端切れみたいに見えた。


 なのに、実用面ではなまら頼りない。


 その矛盾が、胸の奥で変なふうに引っかかった。大事にしたいのか、早く脱ぎたいのか、自分でも分からない。なんも分からない。でも、このまま履き続けたら、足がさらにいずくなるのだけは確かだった。


 私はそっと片方を脱いだ。


 湿った布が足から離れる。


 その下の靴下も、つま先のあたりが湿っていた。草の湿りと土の細かさが、布の奥へ少し入り込んでいる。家の中で履いていたはずの靴下が、知らない村の土を含んでいる。それを見た瞬間、足元だけが妙に遠くへ行っていたのだと分かった。


 もう片方も脱ぐ。


 並べて置いた室内履きは、見るからに心細かった。


 白っぽかった布地はくすみ、底には土が薄く固まり、端には草の汁らしき色が残っている。現代日本の家の中で履いていたものが、外の道を歩くとこうなる。そりゃそうだ。そりゃそうなんだけど、実物で見るとけっこう来る。


 エリナさんは、室内履きと靴下を一目見て、眉をほんの少し寄せた。


「これで川辺から来たのかい」


「荷車に乗せてもらったので、全部歩いたわけじゃないです」


「それでも十分だよ」


 その声に、少しだけ呆れが混ざった。


 でも、責められている感じではない。こんなもので外を歩いたらどうなるか、足を見れば分かる、という実務の呆れだ。


 エリナさんは私の足元へ視線を落とした。


「足、出しな。触るよ」


「あ、はい」


 確認してから触ってくれる。


 その一言が、やっぱりありがたかった。知らない家で、知らない大人に足元を見られるのは、正直かなり恥ずかしい。でも、エリナさんは恥ずかしさを面白がらない。怪我や汚れを見るために見る。それが分かるから、私はなんとか足を出せた。


 エリナさんの手は、温かすぎず、冷たすぎなかった。


 足首のあたりを軽く支え、まず土を見て、次に擦れた場所を見る。指の間、かかと、足裏。見る順番が早い。触り方も乱暴ではないのに、迷いがない。


「ここ、赤くなってる」


「そこ、少し違和感あります」


「擦れかけだね。痛みは」


「痛いというより、じわっとする感じです」


「それなら今のうちだ」


 エリナさんは桶の中へ布を浸した。


 湯気はほんの薄い。熱い湯ではない。ぬるい水に少し湯を足したくらいの温度だろうか。寒さを追い払うための熱さではなく、汚れを浮かせて、皮膚をびっくりさせないための温度。


 トルヴァンさんが、戸口の方から短く言った。


「湯は足りるか」


「少し足して」


「ああ」


 そのやり取りのあと、トルヴァンさんは桶へ余計に近づきすぎない位置から湯を足した。私の足元をじろじろ見ることはしない。湯を足し、エリナさんが使いやすい位置へ桶を少し寄せる。それだけして、また半歩引く。


 この家、大人二人の距離感がうまい。


 そう思った。


 エリナさんが前で段取りを進め、トルヴァンさんが横や後ろを支える。言葉は少ないのに、手順が止まらない。私はその真ん中で、何も分からないまま拾われた人間なのに、家の動きに少しずつ乗せられている。


 布が足先へ触れた。


 ぬるい。


 そして、ほっとした。


 足の裏についた土が、布へ移っていく。草の汁の薄い色も、指の間のざらつきも、少しずつ落ちる。エリナさんは強くこすらない。赤くなりかけているところは避けるようにして、周りから汚れを落としていく。


「自分でできるところは、自分でやるかい」


「できます」


「なら、こっちの布。強くこすらない。指の間と、足首のところ。擦れてる場所は触りすぎない」


「はい」


 私は布を受け取った。


 自分で足を拭く。


 それだけで、少しだけ恥ずかしさが薄くなる。全部をやってもらうのではなく、できるところは自分でやる。手洗いの時と同じだ。エリナさんは見ている。けれど奪わない。できないところだけ補う。その距離感が、やっぱり助かる。


 足首についた土を拭うと、肌の色が戻ってくる。


 川辺で草を踏んだ足。


 荷車から降りた足。


 トルヴァン家の戸口を越えた足。


 家の裏へ回った足。


 それが、少しずつ「私の足」に戻っていく。


 変な言い方だけど、本当にそう感じた。汚れていると、足元まで知らない場所に持っていかれている感じがする。洗うと、そこが自分の身体だったことを思い出す。


 なして足を洗うだけでこんなに効くんだろう。


 でも、効く。


 身体って、理屈より先に困っている場所を知らせてくるんだなと思った。


「ここは?」


 エリナさんが、かかとの少し上を指した。


「そこは、ちょっこし擦れます」


「歩き方が変になってたんだろうね」


「たぶん、履き物が薄すぎて」


「たぶんじゃないね」


「……履き物が薄すぎて、です」


「よし」


 また直された。


 私は少しだけ笑いそうになる。大丈夫、たぶん、ちょっと。そのあたりの言葉が、今日は次々と引っかかる。普段なら流していた曖昧さが、エリナさんの前ではそのまま残らない。


 厳しい。


 でも、その厳しさが足元を見てくれている。


 エリナさんは、濡れた布を絞り直しながら言った。


「これで歩き回れば、明日にはもっと擦れるよ。今日はもう奥へ上がる前に洗う。履き物は乾かす。靴下も替えられるなら替える」


「すみません、手間を」


「手間だから今やるんだよ」


 返しが早い。


「後に回して明日歩けない方が困る。汚れたまま寝床へ上げるのも困る。だから今やる。それだけ」


 それだけ。


 その言い方に、私はまた少し救われた。


 親切にされていると、どうしても申し訳なさが先に来る。水を使わせてもらって、湯を使わせてもらって、布を汚して、桶を使って、足まで見てもらって。私は何も返せていないのに、家の手順ばかり借りている。


 でも、エリナさんは「困るからやる」と言う。


 汚れたまま寝床へ上がられる方が困る。


 明日歩けない方が困る。


 だから今やる。


 その正論が、なまら強い。甘い言葉よりずっと逃げ道がない。でも、逃げ道がないから、受け取っていい気がする。


「ありがとうございます」


「礼は後。足を動かしてみな」


 言われて、私は足の指をゆっくり曲げた。


 さっきより、ちゃんと動く。


 湿りが取れたせいか、指の間のいずさが減っている。赤くなっていたところはまだ少しじわっとするけれど、痛いほどではない。足首も軽い。足の裏も、布の中でぐずぐずしていた時よりずっと現実感がある。


「大丈夫そうです。指も動きます。擦れてるところは、ちょっとだけあります」


「それでいい」


 エリナさんは満足したように頷いた。


 アーミヤが、土間の端からこちらを見ていた。


 いや、正確には、私の足ではなく、桶と布とエリナさんの手元を見ていた。自分も次に何かされると察しているのかもしれない。長い毛の先に、まだ土がついている。前足のあたりにも、細かな藁が絡んでいた。


「猫もあとだね」


 エリナさんが言う。


 アーミヤの耳がぴんと動いた。


 不服。


 完全に不服。


「アーミヤたん、アンタも足まわりわやだよ」


 思わず小さく言うと、アーミヤは目を細めた。


 その顔、分かってて知らんぷりしてるんね?


 王冠を乗せた巨大猫が、土間で妙に偉そうに座っている。なのに足の毛は汚れている。あまりにも情報の落差が大きい。私はちょっとだけ肩の力が抜けた。


「先に人間」


 エリナさんが言った。


「その次に猫。火のそばは、それから」


 アーミヤは、しっぽを一度だけ動かした。


 たぶん抗議している。


 でも、火のそばへ行きたいなら拭かれるしかない、ということは何となく伝わっているらしい。進まない。賢い。賢いけど、勝手も覚えそうというエリナさんの言葉がだいぶ合ってるんね。


 足を洗い終えると、エリナさんは乾いた布で水気を押さえた。


 布の感触が、足の甲から指の間へ移っていく。さっきまで土と湿りが貼りついていた場所が、少しずつ乾いていく。そのたびに、足先の感覚がはっきりした。


 足って、こんなに気分に直結するんだ。


 普段は考えもしなかった。靴を履く。靴下を脱ぐ。風呂に入る。そんな当たり前を何も考えずにやっていた。けれど、知らない世界の土を踏んで、知らない家の土間で足を洗ってもらうと、その当たり前が急に輪郭を持つ。


 足元が戻ると、心も少し戻る。


 たぶん、そういうことなのだと思う。


 私は並べて置かれた室内履きと、湿った靴下を見た。


 もう、さっきよりずっと頼りなく見える。


 元の世界の端切れではある。でも、この世界の土を歩くには薄すぎる。あれでずっと外を歩くのは無理だ。分かっていたけれど、足を洗ったあとだと、さらに分かる。


 エリナさんも同じものを見ていた。


「それは洗って乾かす。靴下もね。明日はうちの娘の残りで合う靴を探すよ。今夜はもう外へ出ないなら、布を巻くだけでいい」


「娘さんのものまで」


「残ってるものは使うためにある」


 また、その言い方。


 使うためにある。


 布も、桶も、服も、靴も。


 それを聞くたびに、私の申し訳なさが完全に消えるわけではないけれど、少しだけ形を変える。借りていることは借りている。でも、使われずにしまわれているものが、今ここで私を助けるなら、それもこの家の手順なのかもしれない。


「……はい。ありがとうございます」


「だから礼は後」


「はい」


 今度は少しだけ笑ってしまった。


 エリナさんも、ほんの少しだけ口元を動かした気がした。気のせいかもしれない。でも、怒ってはいないと思う。


 足を拭き終えたあと、エリナさんは桶の縁へ濡れた布を掛けた。


 その動きの途中で、彼女の視線が私の袖へ移る。


 次に、膝。


 制服の布は、まだ湿りと汚れを残していた。膝のあたりには川辺の土が薄くついている。袖口も少し濡れている。赤いマフラーも、見慣れたもののはずなのに、この家の火の色の中では少しだけ浮いて見えた。


 足が戻ったぶん、服の違和感が前へ出てきた。


「足だけじゃないね」


 エリナさんが言った。


「服も替えた方がいい」


 私は自分の制服を見下ろした。


 元の世界から着てきた服。


 さっきまで、それを脱ぐことを考える余裕なんてなかった。けれど、手を洗い、湯を飲み、用足しを済ませ、足を洗うと、次に何が必要かが見えてしまう。


 このままでは、食卓にも寝床にも上がれない。


 それは、もう私にも分かった。


「……はい」


 声は少しだけ細くなった。


 脱ぐのが嫌なわけではない。


 でも、制服を脱ぐことは、元の世界からまた一枚離れることみたいに思えてしまう。そんなのただの布だと分かっている。濡れて汚れたまま着ている方がよっぽど良くない。分かっているのに、心のどこかがちょっこしだけ抵抗する。


 エリナさんは、そこも見たのかもしれない。


 けれど、追及はしなかった。


「娘の残りで合いそうなのを探してくるよ」


 そう言って、エリナさんは奥の方へ目を向けた。


「そのあいだ、ここで待ってな。足は床へべったりつけない。布を巻くからね」


 私は頷いた。


「はい」


 火の赤い光が、土間の桶と、濡れた布と、洗われた足先を薄く照らしていた。


 喉の次は、用足し。


 その次は、足。


 そして今度は、服。


 この家は本当に、私を少しずつ、人の形へ戻していく。


④ エリナから借りた服


 エリナさんが奥へ向かうと、土間に少しだけ間が空いた。


 私は低い腰掛けに座ったまま、洗われた足先をそっと揃えていた。足はまだ床へ直接つけないように言われている。乾いた布が足元に軽く巻かれていて、それが思ったより心強かった。ほんの少し前まで、湿った室内履きと靴下の中で落ち着かなくなっていた足が、今はちゃんと空気に触れて、ちゃんと布に守られている。


 それだけなのに、気分が違う。


 足元が戻ると、頭の中の棚まで少し整う気がする。身体って、理屈より先に困っている場所を教えてくるし、整った場所からちょっこし落ち着いていくものらしい。


 土間の端では、アーミヤがまだ火床の方を見ていた。


 完全に見ている。


 あの顔は、もう火のそばを自分の場所として登録する直前の顔だ。けれど、長い毛の先にはまだ土と藁の細かな欠片がついている。前足のふわふわした毛にも、草の色が少し残っていた。


「猫も拭くぞ」


 トルヴァンさんが低く言った。


 アーミヤの耳が、ぴんと立つ。


 私は思わずアーミヤを見た。


「アーミヤたん、順番来たんね」


 アーミヤは、何も聞いていないみたいな顔をした。


 でも、身体は少し固まっている。


 分かってるんね。絶対に分かってるんね。


 トルヴァンさんは、大きな身体に似合わないくらい静かにしゃがんだ。手に持っているのは、濡らした布だ。さっき私の足を洗った布とは別の、少し厚手のものだった。アーミヤは逃げようとはしない。けれど、いかにも「必要なら受けてやる」みたいな態度で前足を揃えている。


 王冠を乗せた巨大猫が、農家の土間で足を拭かれる。


 ほんと、なしたこの絵面。


「暴れるか」


 トルヴァンさんが私に聞いた。


「たぶん……いや、嫌がりはします。でも本気で暴れはしないと思います」


「ならいい」


 トルヴァンさんはアーミヤの前足へ布を当てた。


 アーミヤの肩が、ほんの少しだけ上がる。嫌そうだ。かなり嫌そうだ。でも動かない。トルヴァンさんは強くこすらず、毛先についた土と草の欠片を落としていく。前足、胸の下、腹に近い毛の端。アーミヤは途中でしっぽを一度だけ動かしたが、それ以上は抗議しなかった。


「偉いじゃん」


 私が小さく言うと、アーミヤはちらっとだけこちらを見た。


 褒められる筋合いはない、みたいな顔だった。


 いや、偉いんだよ。シアにも言われてたし。


 トルヴァンさんは最後にアーミヤの足裏を軽く見て、布を桶の縁へ掛けた。


「これで火のそばへ行けるな」


 その言葉が終わる前に、アーミヤは立った。


 早い。


 なまら早い。


 さっきまでの不満顔はどこへ行ったのか、アーミヤは当然みたいに火床のそばへ歩いていった。熱すぎない距離を選び、そこでくるりと向きを変えて座る。長毛が火の赤を少し受けて、王冠の縁がちらりと光った。


 完全に定位置を決めた顔だった。


「……順応、早すぎるしょや」


 小さく呟くと、トルヴァンさんがほんの少しだけ鼻で笑った気がした。


 その時、奥から布の擦れる音がした。


 エリナさんが戻ってくる。


 腕には、畳まれた服がいくつか重ねられていた。白っぽいもの。薄い生成り色のもの。少し落ち着いた橙色の布。火の色のせいか、その橙色だけが先に目へ入った。


 私は思わず背筋を伸ばす。


「娘の残りだけど、きれいにしてあるよ」


 エリナさんはそう言って、服を低い台へ置いた。


「今夜着るなら、これがいいだろうね。家の中だし、外へ出るわけじゃない。袖は少し大きいかもしれないけど、動けるならいい」


 白い半袖のブラウス。


 それから、オレンジ系のスカート。


 見た瞬間、胸の奥がちょっこし跳ねた。


 オレンジだ。


 疲れて、怖くて、何も分からなくて、白い空間からここまで流されてきた一日の終わりに、好きな色が出てくるなんて思っていなかった。別に私のために選ばれた色ではない。エリナさんの娘さんの残りで、たまたま合いそうなものを出してくれただけだ。


 でも、それでも。


 好きな色は、ちゃんと目に効く。


 青系の制服と赤いマフラーを着たまま、私はこの家へ転がり込んだ。その私の前に、火の色に近いオレンジの布が置かれている。わやな一日の中で、そこだけ少しだけ自分の方へ戻ってくる感じがした。


「……オレンジ」


「嫌いかい」


「いえ。好きです。かなり」


 エリナさんは、少しだけ目を細めた。


「ならよかった。服に好き嫌いを言えるなら、少しは戻ってきたね」


 その言い方に、私は一瞬だけ言葉に詰まった。


 戻ってきた。


 何から、どこへ。


 そう考えかけて、やめた。今はそこを掘らない方がいい。エリナさんが言っているのは、たぶん大きな意味ではない。顔色や喉や足の次に、好きな色を好きと言えるくらいには、私の頭が戻ってきたというだけだ。


 それだけで十分だった。


「赤い布は外しておきな。家の中じゃ暑いだろうし、汚れも見る」


 エリナさんが、私の首元を見た。


 赤いマフラー。


 転移した時からずっとある。雪の夜の家にいた私と、ここにいる私をつないでいるようなもの。外では目立つし、家の中では暑い。汚れてもいる。理屈では、外した方がいい。


 でも、手が少し止まった。


 マフラーへ指をかける。


 ふわりとした布の感触が、元の家の玄関や自室の空気をほんの少し連れてくる。ママンに「それまた巻いてるの」と言われたこと。パパンが「赤は目立つからいい」と雑に褒めたこと。弟が「主人公カラーじゃん」と茶化したこと。


 駄目。


 今それを開けすぎると、また棚が崩れる。


 私はゆっくり息を吸って、マフラーを外した。


 脱ぐことと、捨てることは違う。


 そう自分に言い聞かせる。


 これは置いておく。なくすわけじゃない。一時的に外して、乾かして、汚れを見るだけ。だから大丈夫。大丈夫んね? と、自分に確認するみたいに心の中で言ってみたけれど、返事は少し遅れた。


 エリナさんは、私の手元を見ていた。


 けれど、何も急かさなかった。


「畳めるかい」


「畳めます」


「なら畳みな。無理ならこっちでやる」


「自分でやります」


 私はマフラーを膝の上で丁寧に畳んだ。


 それから、エリナさんに案内されて奥の部屋へ向かった。


 部屋は広くはない。けれど、空っぽでもなかった。壁際に低い箱があり、畳まれた布がいくつか置かれている。使っていない寝具らしいものも、整えて重ねられていた。棚の下の方には、昔何かを置いていたような跡がある。木の色がそこだけ少し違う。壁の低い位置には、小さな傷も残っていた。


 子どもがぶつけたのか、荷物を引っかけたのか、道具を置いたのかは分からない。


 でも、この部屋には前に誰かの動きがあったのだと思った。


 今は静かだけれど、ずっと静かだった部屋ではない。


 トルヴァン家には、前はもっと人がいた。


 昨日、荷車の上で聞いた「最後の娘が巣立った」という言葉が、布の匂いと木の傷の中で少しだけ形を持った。


「ここで着替えな。戸は閉めていい。分からないところがあれば呼びな」


 エリナさんは服を箱の上へ置いた。


「汚れた服は畳めるなら畳む。濡れたところは無理にしまわない。あとで干す」


「はい」


「焦らなくていいよ。けど、火のそばで食べる前に替える」


「分かりました」


 エリナさんが部屋を出る。


 戸が閉まる音が、小さく響いた。


 私はしばらく、白いブラウスとオレンジのスカートを見ていた。


 それから、自分の制服を見る。


 青系の上着。白いインナー。スカート。さっき外した赤いマフラー。土と草の湿り、川辺の跡、荷車の藁の細かい屑。全部が少しずつ残っている。


 この服で、白雪家にいた。


 この服で、白い空間へ呑まれた。


 この服で、川辺へ落ちた。


 この服で、トルヴァンさんに拾われた。


 脱ぐのが怖いのは、服そのものが惜しいからだけではない。これを脱いだら、元の世界からもう一枚はがれるような気がするからだ。


 でも、このままでは食卓へも寝床へも進めない。


 エリナさんの言う通りだ。


 汚れた服は乾かして見る。今夜着るものは別にする。手順は単純。その単純な手順に乗らないと、私はまた立ち止まってしまう。


 私は制服のボタンへ手をかけた。


 指が少しもつれる。


 スマホがない。


 ノートもない。


 ペンもない。


 制服のポケットを探しても、家へ帰るための鍵みたいなものは何も出てこない。持ち込めたのは、この服と、室内履きと、アーミヤと、記憶だけ。あまりにも少ない。少なすぎて、少し笑いそうになる。笑えないけど。


 服を脱ぐ。


 湿ったところが肌から離れると、少しだけほっとした。ほっとした自分に、また少しだけ胸が痛む。元の世界の服なのに、脱いで楽になる。その事実が、なんだか裏切りみたいでいずい。


 けれど、濡れて汚れた布は濡れて汚れている。


 それだけは、どうしようもない。


 私は制服をできるだけ丁寧に畳んだ。



 捨てない。


 畳む。


 今はそれでいい。


 白い半袖のブラウスへ袖を通す。


 布地は、現代の服より少し重かった。けれど、硬すぎるわけではない。何度か洗われて、身体に馴染みやすくなっている布だ。新品のぱりっとした感じではなく、誰かが着て、洗って、しまっておいた服の柔らかさがある。


 袖は少し大きい。


 肩の落ち方も、覚えている自分の身体とはちょっこし合わない。以前の自分なら、袖の余り方も、腰の布の落ち方も、もう少し違ったはずだった。そう思った瞬間、また身体の違和感が棚から顔を出しかけた。


 若返ったのかもしれない。


 でも鏡はない。


 確かめようがない。


 今そこを深く見ると、また全部がわやになる。


 私は視線をオレンジのスカートへ落とした。


 こっちを見る。


 色を見る。


 好きな色を見る。


 スカートは、思ったより布がしっかりしていた。手に取ると重みがあり、腰へ合わせると自然に落ちる。派手ではない。農村の家で着るための、動きやすくて、丈夫な服だ。けれど、そのオレンジは火の色とも夕方の光とも少し似ていて、知らない家の中で妙に心強かった。


 青い制服と赤いマフラーを畳んだあとだから、余計にそう見えたのかもしれない。


 冷たい場所から、少しだけ火のある場所へ移されたみたいだった。


 着替え終えると、私は畳んだ制服を箱の上へ置いた。


 赤いマフラーもその上に置く。


 完全に離れたわけではない。そこにある。手を伸ばせば触れられる。だから、大丈夫。たぶん。いや、今のところ大丈夫。


 私は戸を開けた。


 広間の方から、火の匂いが流れてくる。


 それに混ざって、黒パンの重い香りと、豆か根菜を煮たような匂いがした。まだ食卓へついていないのに、胃の奥が少しだけ反応する。喉が戻って、足が戻って、服を替えたら、今度は腹がちゃんと主張してきた。


 身体、ほんと正直すぎるしょや。


 広間へ戻ると、エリナさんがこちらを見た。


 手には布を持っている。たぶん、私の制服を受け取って干すためだろう。火床の向こうでは、トルヴァンさんが器を並べていた。アーミヤはもう火のそばに座っている。しかもかなり自然に。完全に自分の場所みたいな顔だ。


 アーミヤが、私を見た。


 目が、少しだけ細くなる。


 服変わったんね? とでも言いたげな顔だった。


「見ないでよ」


 思わず小さく言う。


 アーミヤは、知らん顔でしっぽを揺らした。


 エリナさんは私を上から下まで一度見た。


 顔色。


 袖。


 裾。


 足元。


 服の合い方。


 また、必要な順番で見ているのが分かった。


「うん。これならいい」


 短い判断だった。


 褒め言葉というより、実務上の合格判定。けれど、それが妙にうれしかった。きれいだとか似合うだとか言われるより、今の私にはずっと効く。これで食卓へ行ける。これでこの家の奥へ進める。そう言われた気がしたからだ。


「少し大きくないですか」


「動けるならいい。寝るにも困らない」


「はい」


「汚れた服はあとで見るよ。濡れたところは干す。赤い布もね」


 赤い布。


 マフラーをそう呼ばれて、少しだけ胸が引っかかる。けれど、ここではそれでいいのだと思った。名前や思い出まで説明する必要はない。まずは乾かす。それがこの家の手順だ。


 トルヴァンさんが、器を置きながらこちらを見た。


「合ったか」


「少し大きいですけど、大丈夫です」


 エリナさんの視線がこちらへ来る。


 私は慌てて言い直した。


「動けます。袖も邪魔ではないです。裾も踏みません」


「よし」


 また「よし」が来た。


 私はちょっとだけ笑ってしまった。


「だいぶ採点されてる気がします」


「採点じゃないよ。確認だよ」


「確認……」


「そう。確認できたら次に進める」


 その言葉に、私はふと黙った。


 確認できたら次に進める。


 今日、ずっとそうだった。


 喉。用足し。手。足。服。


 一つずつ確認して、一つずつ次へ進む。大きな問題は何も解決していない。帰る方法も、王冠も、身体の違和感も、魔法みたいなものも、全部そのままだ。でも、この家の中では、確認できたところから次へ進む。


 その小さな順番が、今の私を支えている。


「食べられそうかい」


 エリナさんが言った。


 その言葉と一緒に、火床の向こうから黒パンと豆の汁の匂いが届いた。


 さっきまで遠くにあった空腹が、一気に輪郭を持つ。


 黒パンの酸味を含んだ重い匂い。


 豆が煮えた、少し粉っぽくて丸い匂い。


 根菜の甘さ。


 薄い脂の気配。


 知らない家の夕食の匂い。


 私の身体は、返事より先に空腹を思い出した。


「……食べられます」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ