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第3話 後編 火のある家

第3話 後編 火のある家


① 火の向こうにいる人


② 土間と、止まらない手


③ 手を洗って、息をする


④ 器へ注がれる湯


【アユミ視点/異世界生活一日目・夕方〜夜】


① 火の向こうの人


「トルヴァン? ずいぶん遅かったね」


 家の奥から聞こえた声は、よく通った。


 怒鳴っているわけではない。けれど、戸口のきしみや、外から入り込む夕方の風や、背後に残っている鶏舎の声に埋もれない声だった。家の中で何度も誰かを呼び、誰かへ返事をし、鍋や布や火の様子を見ながら、それでも必要な言葉をちゃんと相手へ届けてきた人の声。柔らかさはあるのに、床や壁にぶつからず、すっとこちらまで届く声だ。


 私は戸口の前で、室内履きの底を土へつけたまま固まっていた。


 開いた戸の向こうには、火の色があった。外の夕方の光とは違う、赤くて、少し低くて、目の奥へじんわり来る色。そこに、木の匂いと湯の気配が混ざっている。家の中はまだはっきり見えない。けれど、外ではない。風に直接さらされない場所。人が火を絶やさずにいる場所。その内側へ、私は今、入ろうとしている。


 入りたい。


 でも、怖い。


 荷台の上にいる間は、まだ途中だった。川辺でもない。村でもない。トルヴァンさんの背中を見ながら、どこかへ運ばれている途中だった。けれど戸口を越えたら、もう誰かの家の中だ。知らない人の暮らしの内側へ入る。助かるために必要なことだと分かっていても、その一歩はやっぱり重かった。


 トルヴァンさんが、戸の横で少し体をずらした。


「遅くなった。川の方で拾った」


「拾った?」


 声の主が、こちらへ近づいてくる。


 火の明かりを背にして、女の人が戸口へ出てきた。年は、ママンより少し若いくらいだろうか。柔らかい顔立ちをしている。けれど、最初に感じたのは優しさよりも、目の速さだった。


 その人は、まずトルヴァンさんを見た。


 次に、私の顔を見た。


 顔色。


 服。


 赤いマフラー。


 手。


 袖口。


 膝の汚れ。


 足元。


 土のついた室内履き。


 そして、私の横で戸口を嗅いでいるアーミヤ。


 最後に、アーミヤの頭の上の王冠。


 そこで、ほんの一瞬だけ止まった。


 止まるよね。


 そこは止まるしょや。


 でも、その人は声を上げなかった。王冠についてすぐ聞きもしなかった。目だけがほんの少し細くなって、それからもう一度、私の顔へ戻ってくる。驚きより先に、今この場で何を見ればいいかを選んでいる目だった。


 なまら見られてる、とは少し違う。


 これは、見定められてる。


 私は思わず背筋を伸ばしかけて、すぐに失敗した。身体がまだ荷車の揺れを覚えている。膝のあたりが少し頼りない。立っているだけなのに、足元の室内履きがやけに薄く感じた。湿った草と土を吸った底が、家の前の踏み固められた土にうまく馴染まない。


 女の人は、それも見たらしい。


「……トルヴァン」


「ああ」


「川の方、って言ったね」


「川辺にいた。水は少し飲ませた。怪我は大きくなさそうだが、足元がこれだ。歩かせるより乗せた方がいいと思ってな」


 説明は短かった。


 でも、必要なところだけが入っていた。川辺にいた。水は飲ませた。怪我は大きくなさそう。足元が悪い。歩かせるより乗せた。トルヴァンさんの言葉の中で、私の事情はまだほとんど説明されていない。けれど、今すぐ動くための材料は揃っている。


 女の人は私の足元をもう一度見た。


「そりゃ歩かせるもんじゃないね」


 ものすごく即断だった。


 私は反射で口を開く。


「あの、大丈夫で」


「大丈夫って顔じゃないよ」


 最後まで言わせてもらえなかった。


 強い。


 声が荒いわけではない。怒っているわけでもない。けれど、こちらの言い訳が差し込まれる隙間がなかった。大丈夫です、と言えば通る世界ではないらしい。いや、今の私はたぶん、どの世界でも通らない顔をしているのかもしれない。


 その人は、次に私の手を見た。


 土がついている。爪のところにも少し入っている。袖口は草と土で汚れて、制服の膝も湿っている。川辺で座り込み、荷台に乗り、ここまで来たのだから当然だ。自分でも分かっていたはずなのに、その人の目に拾われると、急に全部が見えてしまう。


 なんも言えない。


 私は器用に取り繕う余裕もなく、ただ小さく手を引っ込めた。


「名前は」


 女の人が訊いた。


「あ、アユミです」


「アユミ」


 その人は、私の名前を一度だけ口にした。トルヴァンさんの時と同じように、聞き慣れない音を確かめるみたいな言い方だった。でも、変だと笑う感じはない。


 それから、その人は自分の胸に軽く手を当てた。


「私はエリナ」


 その一言で、私はようやく名前を受け取った。


 エリナさん。


 トルヴァンさんの家の人。たぶん、この家の火と手順を動かしている人。


 そう思いかけて、すぐに止めた。まだ何も知らない。私はこの人の名前を聞いたばかりだ。分かった気になるのは早い。けれど、戸口に立っただけで、家の空気が少し整ったように感じたのは確かだった。


 エリナさんは、私の名前を置くと、すぐアーミヤへ視線を移した。


「で、その大きい猫は」


「アーミヤです」


 私は少しだけ早口になった。


「噛むのかい」


「私が嫌だって思った相手には、たぶん……」


「たぶんが多いね」


「今日は全体的に多いです」


 言ってから、しまったと思った。初対面の大人へ返す言葉として、ちょっと軽い。けれど、エリナさんは変な顔をしなかった。むしろ一瞬だけ、口元が動いた気がする。


 アーミヤは、そんなやり取りをまるで自分の話ではないように聞いていた。戸口の木を嗅ぎ、土間の匂いを嗅ぎ、火の方へ鼻先を少し向ける。王冠は相変わらず落ちない。エリナさんの視線がもう一度その王冠に止まる。


 止まる。


 やっぱり止まる。


 でも、聞かない。


 この人、全部見てるんね。


 王冠も、服も、足元も、手も、顔色も、たぶん全部見えている。見えているのに、今すぐ問い詰める場所を選んでいない。そこが、少し怖くて、少しだけありがたかった。


 エリナさんは、アーミヤへ指を出したりはしなかった。猫に慣れていないのか、慣れているからこそなのかは分からない。ただ、距離を取ったまま一度だけ頷く。


「猫は後で見る。まず、この子だね」


 この子。


 その言い方に、ほんの少しだけ胸が引っかかった。


 私は高校三年生だった。少なくとも、今朝まではそうだった。受験生で、課題をやっていて、制服を着ていて、家の二階にいて。なのに、今ここでエリナさんに「この子」と呼ばれても、あまり反論できない。身体が少し若返ったかもしれない違和感。袖口のゆるさ。足元の頼りなさ。ミラやヨハンやシアと並んだ時に、完全に大人側へ立っている気がしなかったこと。


 その全部が一瞬だけ胸の内側をちくりとした。


 でも、エリナさんの目は、怪しい客を見る目というより、濡れた袖の子をどう座らせるか考える目に近かった。そこに気づくと、反論する言葉はますます喉の奥へ引っ込んでしまう。


 今はそこを掘る余裕がない。


 エリナさんの目が、私をまた現実へ戻す。


「気分は悪くないかい。喉は。足は痛まない?」


「喉は渇いてます。足は……痛いほどじゃないです。でも、少し湿って、気持ち悪いです」


「よし。そっちの方がましな返事だ」


 返事に採点が入った。


 私は思わず目を瞬かせる。エリナさんはもう私から視線を外し、戸口の内側を少し片づけるように足元のものを寄せていた。動きが早い。けれど雑ではない。私を急かすためではなく、私が中へ入れる場所を作るために動いている。


 その声の強さを、私はどこかで知っている気がした。


 大丈夫かと聞きながら、答えを丸ごと信じるわけではない声。口より先に顔色と手足を見る声。こちらが平気だと言っても、平気ではなさそうなら段取りを変えてしまう声。


 ママンの声が、ほんの一瞬だけ頭の端をかすめた。


 熱はないの。喉は。ちゃんと水飲んだの。


 そういう声。


 でも、そこまで考えたところで、胸の奥がきゅっとした。


 今その記憶を引っ張るのは、だめだ。


 火のある家に入れそうになっているからこそ、元の家のことを考えたら、足元から崩れそうな気がした。私は目の前のエリナさんだけを見る。ママンではない。知らない村の、知らない家の人だ。けれど、誰かを家の中へ入れる時の声には、少し似た温度があった。


 トルヴァンさんも、後ろで荷車の位置を少し直していた。


 二人の動きが、ほとんどぶつからない。言葉が少ないのに、どちらが何をするかが決まっているみたいだった。家の入り口が、私を前にして、止まらずに動いている。


 それが不思議だった。


 私は大事件を抱えている。少なくとも私にとっては、世界がひっくり返ったくらいの事件だ。白い空間。若返り。翻訳。知らない川辺。王冠付きのアーミヤ。魔法らしき冷気。全部、普通ではない。


 でも、この家では、まず戸口を空ける。


 喉を見て、顔色を見て、汚れを見て、足元を見て、中へ入れる。


 その順番が、私の大事件より先に動いていた。


 それが少しだけ、救いだった。


 エリナさんは、最後にもう一度、私とアーミヤをまとめて見た。


「服は後。足も後。手はすぐ洗う。トルヴァン、水袋は?」


「空じゃない。残ってる」


「ならいい。湯もある」


 湯。


 その単語が、私の身体のどこかに直接触れた。


 川辺では、水を飲むかどうかであんなに迷った。革袋の一口の水だけで、喉が戻った。今度は湯。火のある家の中で、誰かが用意している湯。身体が芯から冷えているわけではない。外は夏で、風も冬のものではなかった。それでも、湯という言葉には、喉と手順と家の内側がまとめて入っている気がした。


 喉の奥が少し熱くなる。


 泣くほどではない。


 でも、たぶん私は、自分で思っていたよりずっと、家の中の湯というものに弱っていた。


 アーミヤが、戸口の内側へ一歩入ろうとして止まった。エリナさんがそれを見る。


「猫も入るんだろうね」


「はい。置いていけないので」


「置いていける顔じゃないね。猫の方も」


 アーミヤは当然みたいな顔をしていた。


 エリナさんはそれ以上、王冠にも大きさにも触れなかった。ただ、土間の端を指で示す。


「そこから。あんたも、猫も、まずそこで止まりな。いきなり奥へ上がるんじゃないよ」


「はい」


 私は反射で頷いた。


 指示がある。


 どこに立てばいいかが示される。


 それだけで、少し息がしやすくなった。知らない家の中で、どこへ足を置いていいか分からないのは怖い。逆に、ここまで、と線を引かれると、緊張は残ったままでも動ける。


 エリナさんは、王冠のことも、私の服のことも、たぶん全部いったん棚へ置いた。


 そして、戸口から一歩引く。


「話はあと。まず中へ入れな」


② 土間と、止まらない手


 中へ入る、という言葉は簡単だった。


 けれど、戸口の向こうへ足を出そうとした瞬間、私はまた少し固まった。外から見る家の中と、実際に誰かの家へ入ることは違う。ましてここは、知らない世界の、知らない村の、知らない人の家だ。川辺で膝をついていた時より安全に近づいているはずなのに、境界を越える怖さは別の形でちゃんとあった。


「そこ。まず土間で止まりな」


 エリナさんの声が、迷いかけた私の足を止めた。


 助かった、と思った。どこを踏んでいいか分からないのは、なまら怖い。家の入口ひとつでも、土のままでいい場所と、上がってはいけない場所がある。そんな当たり前のことを、今の私は何一つ知らない。だから、「そこ」と言われるだけで、足の置き場ができた。


 私は言われた通り、戸口を越えたすぐ内側で止まった。


 足元は土間だった。外の道より細かく踏み固められた土で、ところどころ灰のような薄い色が混ざっている。雨の日や泥のついた日、外の汚れを持ち込んでも、ここでいったん受け止める場所なのだろう。土間の端には薪が積まれ、桶が二つ、三つ重ねて置かれていた。壁際には外で使うらしい道具が立てかけられ、縄や布袋、小さな木箱も収まっている。雑多なのに、散らかってはいない。毎日使うものが、毎日戻る位置にある感じだった。


 その先に、一段上がった板の間があった。


 木の床は新しくはない。足で磨かれたような艶があり、火の明かりを低く受けている。さらに奥には火床らしき場所があって、赤い光がゆっくり揺れていた。鍋が掛かっているようにも見える。湯気なのか煙なのか、薄い白いものが火の上でほどけて、家の中の匂いに混ざっていた。


 火の匂い。


 木の匂い。


 少し湿った布の匂い。


 人が暮らしている家の匂い。


 それらが一度に来て、私は胸の奥を押されたような気がした。安心、というにはまだ怖い。ここが自分の家ではないことは、足の裏からでも分かる。でも、外ではない。風に吹かれている場所ではない。誰かが火を見て、湯を沸かして、道具を置き、夜へ向かう準備をしている場所だ。


 わやな一日なのに、ここだけ手順がある。


 そう思った瞬間、目の奥が少し熱くなりかけた。


「トルヴァン、戸。風が入る」


「ああ」


 トルヴァンさんは短く返事をして、後ろで戸を閉めた。


 外の空気が一段薄くなる。完全に遮られたわけではないけれど、戸が閉まっただけで、家の中の音が少し変わった。火の小さな音、木の軋み、桶が床へ触れる音。外の犬の声や鶏舎のざわめきが遠くなり、代わりに家の中の音が前へ出てくる。


 その音の近さに、胸が少しだけ詰まった。


 私の家にも、家の中だけの音があった。台所の換気扇。階段を上がる足音。ママンが何かを探しながら棚を開ける音。パパンが帰ってきた時に、玄関の方でほんの少し響く靴の音。思い出しかけて、私はすぐにそこから目を逸らした。


 今それを開けたら、たぶん駄目だ。


 ここは、私の家じゃない。


 でも、家の音がする。


 その事実だけを、いったん手元に置く。


 アーミヤは私の足元で、土間の匂いを真剣に確認していた。鼻先を床へ近づけ、戸口、桶の近く、薪の前、火の方角と順に見ていく。王冠は当然のように頭の上だ。知らない家でも、王冠付きの大型猫は王冠付きのまま検分を始めるらしい。


「猫も、そこで止まりな」


 エリナさんが言った。


 アーミヤの耳がぴくりと動く。


 私は思わずアーミヤを見た。アーミヤは少しだけ不満そうな顔をしたけれど、それ以上は進まなかった。言葉の意味を理解したというより、声の強さと場の空気で止まった感じだ。それでも止まるのがすごい。というか、エリナさん、猫にも普通に指示するんだ。


「アーミヤ、そこで待って」


 私も小さく言う。


 アーミヤは、聞いていますけど、という顔でしっぽを一度だけ揺らした。火の方へ行きたそうだった。でも、土間で止まっている。偉い。シアに言われた通り、本人的にもえらいのかもしれない。


 エリナさんは、アーミヤが止まったことを確認すると、今度は私へ戻った。


 手が止まらない。


 視線を動かしながら、壁際の布を取り、棚の下から桶を引き寄せ、火床の近くに置かれていた小さな柄杓を見た。何を見て、何を後回しにして、何を今使うかが、もう決まっているみたいだった。


「上へはまだ上がらない。アユミ、手はそのまま。袖、濡れてるね」


「川辺で、ちょっと」


「ちょっとじゃない顔をしてるよ」


 また顔で判定された。


 私は何か言い返そうとして、やめた。実際、ちょっとではない。川辺で座り込み、草と土をつかみ、荷台に乗せてもらってここまで来た。私の中では出来事が大きすぎて、汚れの程度なんて後回しになっていたけれど、エリナさんの目から見れば、袖も膝も手も足元も全部、すぐ処理するべきものなのだろう。


 この人、家の中でも全部見てるんね。


 エリナさんの目は、怪しい客を見る目というより、濡れた服の子をどう座らせるか考える目に近かった。そこに少し引っかかりはある。私は高校三年生だったはずなのに、今ここで子どもみたいに扱われても、反論できるだけの足場がない。でも、その目に助けられているのも確かだった。


 その声の種類を、私は少しだけ知っている気がした。


 人を心配しているのに、手は止めない声。大丈夫という返事より、顔色と手元を見る声。こちらの言葉を聞いてくれるのに、言葉だけでは判断しない声。


 でも、そこへ近づきすぎると、今度は元の家の方へ引っ張られる。


 だから私は、エリナさんの手元だけを見た。


 エリナさんは桶を土間の真ん中ではなく、私が少し手を出しやすい位置へ置いた。動きが速いのに、こちらを乱暴に扱わない。自分の家の中で、自分の道具を、迷いなく動かしている。


「トルヴァン、水袋はそこ。外道具は奥へ持ち込まない。荷は後でいい」


「分かった」


「斧は戸口の外側」


「ああ」


 トルヴァンさんは、さっきからほとんど余計なことを言わない。けれど、エリナさんの指示に合わせて、荷車から持ってきたものを所定の場所へ置いていく。水袋は土間の端へ。畳まれた布は壁際へ。荷台に固定されていた大斧は、家の奥へは入れず、戸口の外側の決まった位置に置いたようだった。


 その動きが、妙に落ち着く。


 見張られている感じではない。家が家として動くために、二人がそれぞれ自分の手順を進めている。私が大事件を抱えていても、家の中の段取りは止まらない。むしろ、その段取りの中へ私が巻き取られていく。


 親切にされている、というより、生活の手順に回収されている。


 その感覚が、少し不思議で、かなりありがたかった。


 火床の方で、小さく薪が鳴った。


 ぱち、と乾いた音がして、赤い光が一度だけ強くなる。火のそばには鍋があり、その近くに器が伏せて置かれている。壁の棚には皿や深鉢、小さな壺、布袋が並んでいた。きれいに飾ってあるのではなく、手を伸ばせば届く場所に収まっている。上の方には乾かした草らしい束や、小袋も吊るされていた。


 家の中には、ものが多い。


 けれど、使っていないものがただ積まれている感じではなかった。火に近いもの、水に近いもの、外へ持っていくもの、食卓へ出るもの。それぞれの場所に、それぞれの理由がある。私はそれを全部読めるわけではない。むしろ、分からないものばかりだ。でも、分からないなりに、この家がずっと手を動かしてきたことだけは分かった。


 板の間の端には、低い棚の跡みたいな傷が残っていた。


 今は何も置かれていないけれど、そこだけ木の色が少し違う。小さい子が手をかけたのか、何度も器を出し入れしたのか、細かい擦れもある。壁の低いところにも、背の低い人がぶつけたような跡がいくつかあった。


 この家には、昔もっとたくさんの動きがあったのだと思った。


 子どもの足音。


 誰かが呼ばれる声。


 急いで棚へ手を伸ばす音。


 今は見えないものが、傷や跡だけで少し残っている。


 私はそれを見て、トルヴァンさんが前に言っていた「最後の娘が巣立った」という言葉を思い出しかけた。でも、今それを考えすぎると、また別の寂しさまで拾ってしまいそうだったので、視線を桶へ戻した。


 アーミヤが、火の方へまた顔を向けた。


「アーミヤ、だめ。まだ」


 私が言うと、アーミヤは少しだけ目を細めた。抗議っぽい顔だ。でも、動かない。大きな身体で土間に座り、王冠をつけたまま、火の匂いに耐えている。いや、耐えているというより、いつ自分の場所にするか測っている顔だった。


 エリナさんもそれを見た。


「賢いね。けど、まだ奥へ上げないよ。毛に土がついてる」


「すみません」


「謝るところじゃない。事実だよ」


 エリナさんはそう言って、今度は私の手を見た。


「手を先に見るよ。顔色はあとでも見える」


「はい」


「袖、少し上げられるかい」


「できます」


「できるなら、ゆっくり。急がなくていい」


 急がなくていい、と言われているのに、エリナさんの手は急がないまま早い。布を用意し、桶の位置を調整し、火床の方を一度見て、また私へ戻る。私は制服の袖を少し上げた。袖口が湿っていて、肌に貼りつく。手首が、覚えているより少し細く見えた気がした。


 見なかったことにした。


 今そこを考えると、また棚が崩れる。


 エリナさんは、それにも気づいたのかどうか分からない。ただ、私の手を取る前に、一言だけ言った。


「触るよ」


「あ、はい」


 確認してくれるのが、少し意外だった。


 でも、ありがたかった。知らない大人にいきなり手をつかまれるのは怖い。エリナさんは強引に動いているようで、そういうところは飛ばさない人らしい。私はそっと手を出す。手のひらには、川辺の土が乾いて薄く残っていた。爪の間にも少し入っている。自分で見ると、急に恥ずかしくなった。


「転んだ?」


「膝をつきました。たぶん、川辺で」


「たぶんは抜き」


「膝をつきました」


「よし」


 また返事が採点された。


 でも、その「よし」が少しだけ楽だった。正解を出せという圧ではなく、曖昧な返事より、分かることを言いな、という圧だ。私は今、何もかも説明できない。けれど、膝をついたかどうかなら言える。手に土がついていることなら見える。喉が渇いているか、足が湿って気持ち悪いかなら答えられる。


 分かることからでいい。


 そう言われている気がした。


 トルヴァンさんが戸口の外を一度見て、荷車の方へ戻りかけた。


「荷は」


「後でいい。先に戸をきちんと閉めて。あと、水を少し足す」


「分かった」


 二人のやり取りは短い。けれど、その短さの中で家がどんどん整っていく。戸が閉まり、風が止まり、桶が置かれ、布が準備され、水が足される。私はその中心にいるのに、何かを決めているわけではない。決められないまま、手順の中へ入れられている。


 それが嫌ではなかった。


 むしろ、今は自分で何も決めなくていいことに、少しだけ救われていた。


 エリナさんは桶をひとつ引き寄せ、壁際の布を取った。火の明かりが布の端を赤く染める。湯の気配が、さっきより少し近くなった。


「まず手。話は、そのあとでも逃げないよ」


③ 手を洗って、息をする


 私は、その言葉を変にありがたいと思ってしまった。


 話は逃げない。そう言われるだけで、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ場所を変えた。説明しなければいけないことは、山ほどある。どこから来たのか。なぜ川辺にいたのか。アーミヤの王冠は何なのか。私の服は何なのか。足元はなぜこんなに頼りないのか。どれも答えられないまま、頭の中の端へ積まれている。でも、今はまず手。そう区切られると、分からないもの全部を同時に抱えなくてもいい気がした。


 エリナさんは桶を私の前へ寄せ、湯とも水ともつかない、ぬるい温度の水を足した。熱くはない。けれど、川辺の水をそのまま触るのとは違う。火の近くにあったせいか、指を入れる前から、少しだけ柔らかい気配がした。水の表面に火の赤が小さく揺れていて、桶の縁には使い込まれた擦れがいくつもある。


「手を出しな。こすりすぎない。皮まで赤くするんじゃないよ」


「はい」


 私は言われた通り、そっと両手を差し出した。


 手のひらには、川辺でついた土が薄く乾いていた。指の腹には草の汁らしい緑が少し残り、爪の間にも黒っぽいものが入っている。さっきまでは、汚れていることを分かっていても、ちゃんと見る余裕がなかった。けれど火のそばで、桶を前にして、布まで用意されると、急に自分の手がひどく心細いものに見えてくる。


 私は桶へ指先を入れた。


 ぬるい。


 それだけで、手の中の強張りが少し解けた。水が土をゆるめ、指の間へ入り、爪の際に残っていたざらつきを浮かせていく。私は布を受け取り、手のひらをゆっくり拭った。乾いた土が布へ移る。草の汁も、少しずつ薄くなる。何度か水を含ませて、指の腹、爪の先、手首のあたりまで拭いていくと、そこが自分の身体だったことを少しずつ思い出すような感じがした。


 手を洗うだけで、人間の形が少し戻る。


 なんか、なまら単純だべさ。


 でも、その単純さが今はありがたかった。白い空間のことも、川辺のことも、身体が少し若返ったかもしれないことも、今すぐ全部は処理できない。けれど、汚れた手を洗うことはできる。手のひらの土を落とすことはできる。布で指を拭いて、爪の間を見て、袖口を濡らさないように少し上げることはできる。


 エリナさんは、私の手元を見ていた。


 じっと見張るというより、どこを見落としているか確認する目だった。私は少し焦って、爪の間を強くこすりかける。


「そこ、そんなにやらない。痛めるよ」


「あ、はい」


「自分でできるなら、自分でやりな。こっちは見てる」


 その言い方に、私は少しだけ力を抜いた。


 全部やってもらうわけではない。放っておかれるわけでもない。できるところは自分でやる。でも、見落としたところは止められる。その距離感が、思ったよりずっと助かった。今の私は、誰かに全部を委ねるのも怖い。でも、全部自分で判断しろと言われても困る。なんも分からない家の中で、手順だけがある。その手順の横に、エリナさんの目がある。


 これ、助かってるんね。


 私は布をすすぎ、もう一度手を拭いた。


 汚れが落ちると、手首の細さがさっきより見えてしまった。袖を上げたせいで、余計に分かる。見なかったことにしたいのに、濡れた肌と布の白さがそこだけ妙に正直だった。高校三年生だったはずの手。課題のノートを押さえていたはずの手。スマホを取ろうとして、でもスマホは机の上に置いたままだった手。


 その手が、今は知らない家の土間で、知らない世界のぬるい水に触れている。


 胸の奥が少し変になった。


 私は慌てて、指先へ意識を戻した。今はそこじゃない。そこを開けたら、また棚が崩れる。そう思って、爪の端に残っていた黒っぽい土を、布の角でそっと拭った。強くこすらない。痛めない。言われたことをそのまま守るだけで、少しだけ考えることが減った。


「袖、こっちも湿ってるね」


 エリナさんが私の右袖を見た。


「あ、川辺で膝をついた時に、たぶん」


「たぶんは?」


「川辺で膝をついた時に、湿りました」


「よし」


 また、返事を直された。


 でも今度は、少しだけ意味が分かった気がした。エリナさんは、私に完璧な説明を求めているのではない。分かることを、曖昧にしないで言えと言っている。分からないことは分からないままでいい。でも、濡れたなら濡れた。湿っているなら湿っている。痛いなら痛い。気持ち悪いなら気持ち悪い。そこをぼかすと、手当ての順番が狂うのだと思う。


 私は小さく息を吸った。


「袖、少し湿ってます。手は、洗ったら大丈夫になってきました。足は……痛いほどじゃないです。でも、室内履きの中が少し湿って、気持ち悪いです」


「そう。それでいい」


 エリナさんは短く頷いた。


「足はあと。先に手と喉。喉と腹が追いついてない時に急ぐと気持ち悪くなるからね」


「はい」


「大丈夫って言う前に、分かるところから言いな。大丈夫は、そのあとでいい」


 その言葉が、なぜか胸に残った。


 大丈夫は、そのあとでいい。


 現代日本の家でも、学校でも、たぶん私は何度も「大丈夫です」と言ってきた。ちょっとしんどくても、大丈夫。分からなくても、大丈夫。気にしないでほしくて、大丈夫。そう言えば、相手の手を止めずに済むことが多かったからだ。


 でも、この家では通らない。


 大丈夫より先に、分かるところを言う。喉が渇いている。袖が湿っている。足元が気持ち悪い。痛いほどではない。そうしないと、エリナさんの手順に乗せてもらえない。


 厳しいのに、なまら優しい。


 変な感じだった。


 その言い方を、私は少しだけ知っている気がした。大丈夫という返事より、手元と顔色を見る声。本人が平気だと言っても、平気そうに見えなければ次の手を動かす声。家の中で、誰かが倒れないように先に回り込む声。


 けれど、そこへ近づきすぎると、元の家の台所や、階段の下から聞こえるママンの声まで一緒に浮かびそうだった。


 私は指先をもう一度こすった。


 今は、手。


 今は、桶。


 今は、エリナさんの声。


 土間の端では、アーミヤがじっと火の方を見ていた。体はちゃんと止まっている。でも、目は完全に火床の近くを狙っている。長い毛の先に土が少しついていて、足先にも草の細かい欠片が絡んでいた。王冠付きの巨大猫は、まるで自分はもう家の者です、みたいな顔をしている。


 アーミヤたん、アンタ火のそば狙ってるんね。


 私が見ていると、アーミヤはちらりとこちらへ視線を寄こした。悪びれた様子はない。むしろ、何が問題なのか分からない顔だった。


「猫はまだそこ。毛を拭くまで奥へ上げない」


 エリナさんが、私の視線の先を見ずに言った。


 見てないのに分かるんだ。


 アーミヤの耳が動いた。ちょっと不服そうだった。でも、進まない。エリナさんの声には、猫でも勝手に踏み越えにくい線があるらしい。


「アーミヤ、もうちょっと待って」


 私が言うと、アーミヤはゆっくりしっぽを一度だけ振った。分かっているのか、聞き流しているのかは分からない。でも、そこにいてくれるだけで私はかなり助かっていた。知らない家の中で、知らない大人に手を見られている。そんな状況でも、足元にアーミヤの毛の気配があるだけで、現実の端がほどけずに済む。


 トルヴァンさんが、戸口の方から戻ってきた。


「水は足した」


「そこへ置いといて。湯は足りる」


「分かった」


 やり取りは短い。トルヴァンさんは、エリナさんの手元を邪魔しない場所に水袋を置き、また戸口の方へ視線を向けた。外の荷車のことも、戸締まりのことも、たぶん頭の中にあるのだろう。でも今は、私の手洗いと湯の準備が優先されている。二人の動きが重ならず、家の中の音だけが少しずつ整っていく。


 桶の水は、最初より少し濁っていた。


 私の手から落ちた土と草の色だ。たったそれだけのことなのに、私は少し申し訳なくなる。知らない家に入れてもらって、桶を汚して、布を使わせてもらって、水も湯も使わせてもらう。何も返せないのに、手順だけが先へ進んでいく。


「あの、布、汚してしまって」


「汚れを落とすための布だよ」


「でも」


「でもじゃない」


 エリナさんは、きっぱり言った。


「汚れた手で板の間に上がられる方が困る。桶も布も、使うためにある。気にするなら、ちゃんと洗いな」


「……はい」


 正論だった。


 ここでもまた、私は何も言い返せなかった。でも、その正論は冷たくなかった。使うためにある。そう言われると、布を汚すことへの申し訳なさが、少しだけ形を変える。迷惑をかけているのは消えない。でも、必要な手順の中で使っているのだと分かると、息が少ししやすくなった。


 私はもう一度、手のひらを確認した。


 土はだいたい落ちていた。爪の間に少し残っていた黒っぽいものも、布の角でそっと拭うと薄くなる。手首に残っていた草の汁も、ほとんど消えた。洗った後の手は、少し赤くなっている。けれど、感覚はむしろ戻っていた。


 指を曲げる。


 伸ばす。


 指先が、ちゃんと私のものとして動く。


 それだけで、少しだけ息が深くなった。


 火床の方から、湯気の気配がふわりと流れてくる。今度ははっきり分かった。湯だ。食べ物の匂いではなく、まず湯の匂い。水が温められて、器に注がれる前の、柔らかい気配。


 私の喉が、そこで急に存在を主張した。


 そういえば、まだ渇いている。


 川辺で革袋の水を少し飲ませてもらった。けれど、それだけで足りるはずがない。白い空間から落ちて、川辺で固まり、荷台に揺られ、村に入り、ここまで来た。緊張で忘れていただけで、喉の奥はまだ薄く乾いている。


 エリナさんは私の手を見て、ようやく小さく頷いた。


「よし。次は喉。座りな。湯を持ってくる」


 その言葉を聞いた瞬間、私はようやく、自分がまだ喉の奥まで乾いていたことを思い出した。


④ 器へ注がれる湯


 喉の渇きは、気づいた瞬間に急に強くなった。


 さっきまで、喉の奥はただの違和感だった。白い空間から川辺へ落ちて、荷車に揺られて、村に入って、知らない家の土間で手を洗っている間、ずっとそこにあったはずなのに、私はちゃんと見ていなかった。けれどエリナさんに「次は喉」と言われた途端、薄い紙みたいな乾きが喉の内側へ貼りついているのが分かった。


 トルヴァンさんにもらった水は、たしかに助けてくれた。


 川辺で、革袋から飲ませてもらった水。あれは、倒れないための水だった。知らない場所で、知らない人から差し出されて、それでも喉が勝手に求めた水。外の匂いと、革の匂いと、緊張が混ざったまま飲み込んだ水。身体が最低限、動けるところまで戻るための一口だった。


 でも、今目の前にあるのは、たぶん違う。


 火のある家の中で、誰かが温度を見て、器に注いでくれる湯だ。


「そこへ座りな。まだ奥へ上がりきらなくていい」


 エリナさんが示したのは、土間から板の間へ上がる手前の低い腰掛けだった。完全に家の奥へ入るわけではない。でも、戸口で立ち尽くしている場所でもない。外と内側の間にある、いったん身体を置ける場所。私はその位置を示されて、また少し助かった。


 どこへ座っていいか分かるだけで、身体は動ける。


 私は濡れた手を布で軽く押さえ、言われた場所へ腰を下ろした。座った瞬間、足の裏から力が少し抜けた。室内履きの底はまだ頼りないし、足元の湿った気持ち悪さも残っている。けれど、立ち続けなくていいだけで、背中の奥に溜まっていた緊張が一段下りる。荷台の揺れが身体の中にまだ残っていて、腰を下ろしているのに、どこかが微かに揺れているような感じがした。


 火床の赤い光が、低く揺れていた。


 火は大きすぎない。燃え上がって部屋を明るくする火ではなく、家の中で仕事をするために保たれている火だった。薪が短く鳴り、鍋の底で湯が小さく動く。壁の棚には器が伏せて置かれ、深鉢や小さな壺、布袋が手を伸ばしやすい高さに並んでいる。火の近くには、水を扱うもの、食べるもの、拭くものがそれぞれの位置にあった。知らない道具ばかりなのに、どれも「使われている」ことだけは分かる。


 ここには、順番がある。


 入る場所。止まる場所。手を洗う場所。座る場所。湯を待つ場所。


 私はその順番を知らない。知らないから、ひとつずつ示してもらわないと動けない。それが少し情けなくて、でも今は、示してもらえること自体がありがたかった。なんも解決していないのに、手と喉だけ先に戻されていく。身体って、こういうところだけ妙に正直だ。


 エリナさんは棚から器を一つ取り、火床のそばへ行った。


 器は陶器に近いものに見えた。分厚くて、手に熱が伝わりすぎないような形をしている。飾りはない。でも縁のところが少し丸く、何度も洗われ、何度も使われてきた色をしていた。エリナさんはその器へ湯を注ぎ、指先で外側に触れて温度を確かめる。それから少しだけ水を足した。


 湯を注ぐ。


 温度を見る。


 水で薄める。


 器を持ち直す。


 その全部が、何度も繰り返されてきた手順だった。特別な儀式ではない。けれど、今の私には、その普通の手順がひどく大きく見えた。誰かがこうして湯を調整してくれる。飲める温度にしてくれる。熱すぎないか、急ぎすぎないかを先に見てくれる。


 川辺の水は、私をその場で倒れないようにしてくれた。


 この湯は、私を家の中へ入れようとしている。


 そう思ったら、喉の奥がまた少し詰まった。


「喉が乾いてる時ほど、急ぐんじゃないよ」


「はい」


 返事をしただけで、喉が引っかかった。


 自分でも少し驚くくらい、声が細い。


 トルヴァンさんは、戸口の方を確認してから火床の近くへ戻った。私の真正面ではなく、少し斜めの位置にいる。見張っている感じではない。でも、倒れたらすぐ動ける場所。さっき荷台で揺れを小さくしてくれた時と同じで、こちらへ圧をかけない距離を知っている人の立ち方だった。


 真正面に立たない。


 でも、必要ならすぐ手が届く場所にはいる。


 その距離が、少しだけ不思議だった。何も聞かないのに、放っておかれているわけではない。話しかけすぎないのに、見捨てられているわけでもない。荷車を引いていた背中と同じで、前へ出すぎず、でもちゃんとそこにいる。


「荷はあとでいいか」


「今はいい。先にこの子と猫」


「分かった」


 短いやり取りで、家の中の順番がまた一つ決まる。


 アーミヤは土間で待っていた。待っている、というより、火のそばへ行く機会をうかがっている顔だった。長い毛の先に土が少しついて、前足の毛にも草の細かい欠片が絡んでいる。王冠は相変わらず、何事もないみたいに頭に乗っていた。


「猫も後で拭く。火のそばはそれから」


 エリナさんが、器を持ったまま言う。


 アーミヤの耳が動いた。


 たぶん、不服だ。


 アーミヤたん、アンタもう火のそばを自分の場所にする気だったんね。


 そう思ったけれど、声には出さなかった。アーミヤがそこにいてくれることが、今はなまらありがたい。知らない家の中で、私が座らされ、手を洗い、湯を待っている。その間も、足元にあの毛の塊がいる。王冠付きで、妙に堂々としていて、火のそばを狙っている。変なのに、変だからこそ、白い空間へ戻らずに済む。


 エリナさんが器を持って戻ってきた。


 湯気が、器の上から細く上がっている。


 白い揺れだった。


 白いのに、さっきまでの白とは全然違う。音も上下も奪う白ではない。机も家族の声も消してしまう白ではない。火で温められた水が、器の上でほどけている白。手を伸ばせば触れられる距離にある、家の中の白だった。


「両手で持ちな。落とすと危ない」


「はい」


 私は手を出した。


 洗ったばかりの指に、器の熱がじんわり移る。熱すぎない。けれど、ちゃんと温かい。指先から手のひらへ、手首へ、ゆっくり染みていく。さっきまで土と草の汁がついていた手が、今は湯の器を持っている。その事実だけで、身体の内側にあった緊張がほんの少し形を変えた。


 説明できないものは、まだひとつも減っていない。


 私はどこから来たのか、ここがどこなのか、どうやって戻るのか、何も分かっていない。アーミヤの王冠も、若返ったような身体も、草先に出た冷気も、全部そのままだ。スマホもノートもない。パパンの声も、ママンの足音も、弟の返事も、ここにはない。


 でも、両手で持てる器だけは、今ここにある。


 火があって、湯があって、私に飲める温度を見てくれる人がいる。


 自分の家ではない。


 けれど、家の内側にいる。


 その事実が、器の熱みたいにじんわり手の中へ移ってきた。


 エリナさんは、私の手元と顔を見比べた。急かさない。でも見ている。飲めるかどうか、気持ち悪くならないか、まだ震えていないか。たぶん、そういうものを見ている。


 私は器を持ったまま、小さく息を吸った。


 湯気が鼻先へ触れる。強い香りはない。ただの湯だ。けれど、今の私には、それが十分すぎるくらい強かった。川の水ではない。革袋の水でもない。誰かの家の火で温められた湯だ。


 外では、まだ村の音がしている。


 遠くの犬の声。鶏舎のかすかなざわめき。どこかで戸が閉まる音。知らない村の夕方が、家の壁の向こうで続いている。


 その内側で、私は湯の器を持っていた。


 異世界の最初の夜が、ここから始まる。


 エリナさんは湯気の立つ器を、私の両手へ持たせた。


 湯気は、白い空間とはまるで違う白だった。


 逃げ場を奪う白ではなく、両手の中でほどける白。



 私はその温かい器を、落とさないように抱え込んだ。



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