第3話 前編 リンドフェルト村へ
第3話前編 リンドフェルト村へ
① 荷車の揺れと、午後の道
② 人の手が入った土地
③ 鶏舎の声と、王冠猫
④ リンドフェルト村へ
【アユミ視点/異世界生活一日目・午後〜夕方前】
① 荷車の揺れと、午後の道
荷車の揺れは、一定になってくると、不思議と頭だけを起こしてくる。
眠いわけではなかった。むしろ、目だけは変に冴えている。白い空間から放り出されて、川辺で膝をついて、知らない大人に水をもらって、気づけば藁の上に座っている。そんな状況を、人間の脳みそが簡単に整理できるはずもない。けれど、木の車輪が土を噛み、荷台の板が腰へ硬さを返し、敷かれた藁が制服の布越しにちくちく触れるたびに、少なくともひとつだけは分かった。
私は今、どこかへ運ばれている。
自分の足で歩いているわけではない。頼りない室内履きで、土道を踏みしめているわけでもない。荷台の上にいて、敷かれた藁の上に座っていて、前ではトルヴァンさんが荷車を引いている。空になった木箱が端で小さく鳴り、畳まれた布の角が揺れに合わせて少しずつずれる。現代の車や電車みたいに、座席が揺れを吸い込んでくれるわけではない。木と土と車輪の都合が、そのまま背中や腰へ届く。
だからこそ、そのひとつひとつが、まだ私は消えていないと教えてくれる気がした。
荷車が小石を踏むと、身体がほんの少し浮いた。私は反射で荷台の縁を握り直す。手のひらに木のざらつきが食い込む。痛いというほどではない。でも、さっきまで白の中で上下も音も失っていた身体には、そのざらつきが妙にありがたかった。
ここに木がある。
ここに土がある。
ここに私の手がある。
そうやって確かめていないと、頭の奥がまたあの白い場所へ戻ってしまいそうだった。白い輪。音の消えた場所。上下のない感覚。腕の中に残っていたアーミヤの重さ。思い出そうとすると、順番を無視して全部が戻ってくる。戻ってこられると困る。今の私の頭には、そんな大荷物を受け止める棚がまだない。
横では、アーミヤが藁の上へ身体を低くしていた。
完全にくつろいでいるわけではない。耳は前を向き、鼻先は時々風の方へ動く。しっぽの先だけが、荷台の揺れから少し遅れて揺れた。警戒はしている。でも、逃げ出す気配はない。アーミヤの長い毛が私の膝の横で揺れ、その奥には、さっきからずっと若い張りみたいなものがある。大きさは知っているアーミヤのままなのに、首を上げる速さや、前足を踏み直す時の力が、私の記憶と少し違う。
そこを考え始めると、また棚が崩れる。
だから私は、そっと指先を毛の表面へ置くだけにした。
今は、全部を考えない。揺れ。木の音。土の匂い。風。前を歩く背中。そこだけを拾う。アーミヤの毛は相変わらず深くて、指を置くと、表面だけではどこまでが毛でどこからが身体なのか少し分からない。その奥にある体温と重さだけが、ちゃんと知っているものに近かった。
アーミヤがいる。
それだけで、私はまだ少しだけ、自分をつなぎ止められる。
トルヴァンさんの背中は、相変わらず大きかった。
ただ背が高いだけではない。荷車の柄を握る腕が厚く、肩の動きに無駄がない。道が少し柔らかくなると、歩幅がわずかに変わる。車輪が沈みそうな場所では、力を入れるというより、荷車の重さを逃がすように体を使っている。私は荷台の上にいるだけだから、細かい理屈は分からない。でも、揺れが大きくならないようにしてくれていることだけは、腰へ伝わる振動で分かった。
この人は、荷車を引き慣れている。
荷だけではなく、荷台に乗っているものが壊れないように進むことも、たぶん身体で知っている。
それを思うと、少しだけ息がしやすくなった。けれど、息がしやすくなったぶん、別の怖さも戻ってくる。川辺にいた時は、どうすればいいか分からない怖さだった。今は違う。水をもらった。名前も聞いた。荷台に乗せてもらった。少なくとも、私はさっきよりは助かっている。
でも、だからこそ怖い。
この荷車がどこへ着くのか、私はまだ知らない。
リンドフェルト村。トルヴァンさんはそう言った。そこがこの人の帰る場所なのだろう。けれど、どんな村なのか、どんな人がいるのか、私みたいな格好の人間がどう見られるのか、何も分からない。制服。赤いマフラー。土のついた室内履き。王冠付きの大きな猫。どこから説明しても怪しい。どこを黙っていても怪しい。
聞かれないことが、こんなにありがたいとは思わなかった。
でも、聞かれないまま荷車が進んでいくことも、同じくらい怖かった。
トルヴァンさんは、川辺で私の事情を深く掘らなかった。怪我、水、足元。必要な順番で見て、今ここで聞いても答えられないものを後ろへ置いてくれた。それは助かる。なまら助かる。でも、聞かれていないだけで、消えたわけではない。
私がどこから来たのか。
なぜあの川辺にいたのか。
アーミヤの王冠は何なのか。
身体が少し若返った気がすること。
草先に一瞬だけ白いものが出たこと。
スマホも、ノートも、ペンもなく、説明できる証拠が何もないこと。
全部、荷台の端に仮置きされているだけだ。仮置きの札が増えすぎて、頭の中の棚がかなり怪しい。ちょっこし揺れたら雪崩を起こしそうだ。いや、ちょっこしどころか、もう十分わやなんだけど。
私は息を吸って、吐いた。
風に、草の匂いがある。
冬の家から来た身体には、それだけでいずい。さっきまで外はしばれる夜だったはずなのに、今は午後の土の匂いがする。日差しは肩に落ちて、風は冷たすぎず、遠くで虫みたいな音までしている。なして季節まで変わってるんだろう。考えても、答えは出ない。答えが出ないものは、今は保留。保留は放置じゃない。あとで拾うための仮置き場だ。
そう何度も自分に言い聞かせる。
道の匂いは、少しずつ変わり始めていた。
最初は、川の音が近かった。水が石に触れる低い音が、荷車の横についてきていた。湿った草の匂いも強かった。青い葉と、水辺の冷たさと、日に温められる前の石の匂い。けれど、進むにつれて、その音が少しずつ遠くなる。
川が離れていく。
水の匂いが薄くなって、かわりに乾いた草と土の匂いが増えてきた。それから、木の匂い。切ったばかりの木ではない。雨に濡れて、乾いて、また使われている板や柵の匂い。誰かが手で触り、何度も直し、外に置き続けている木の気配が、風の中に混ざっていた。
道も、川辺の草地とは違ってきている。
土が何度も踏まれて、車輪が通って、浅い筋がいくつも残っている。自然にできた獣道ではない。人が同じ場所を通っている。荷車が何度も通っている。道があるなら、その先に人がいる。その当たり前が、今の私にはかなり大きかった。
「揺れるか」
前から、トルヴァンさんの声がした。
振り返らず、歩いたままの声だった。こちらを見てはいない。でも、荷台の揺れと私の息の詰まり方くらいは拾っているのかもしれない。
「大丈夫です。たぶん」
「また、たぶんか」
「今日の私、大丈夫判定の精度が低いので」
口に出してから、ちょっと変な返しをしたなと思う。でもトルヴァンさんは笑いもしなかった。呆れたように息を吐くこともない。ただ、荷車の柄を持つ腕の角度を少しだけ変えた。
次の揺れが、わずかに小さくなる。
車輪が同じように土を踏んでいるのに、荷台へ伝わる跳ね方が違った。大きな力で押さえつけたのではない。道具と道と荷の重さを知っている人が、ほんの少し力の通り道を変えただけ。
うわ。
本当に変わった。
「……ありがとうございます」
「礼は村に着いてからでいい。落ちるなよ」
「はい」
短い。
でも、その短さが今はちょうどよかった。長く話しかけられたら、私はたぶん詰まる。逆に何も言われなさすぎても、考えが勝手に悪い方へ転がる。今の「揺れるか」と「落ちるなよ」くらいが、ぎりぎり現実に足を戻してくれる。
アーミヤが、鼻をひくひく動かした。
私はその横顔を見る。
「アンタ、風の匂いまでちゃんと見てるんね」
もちろん返事はない。アーミヤは猫だ。王冠付きで、巨大で、若返ったかもしれないけれど、ちゃんと猫だ。私の言葉に返事をする代わりに、耳だけを少しこちらへ動かした。聞いてはいる。でも今はそれどころではない、という顔だった。
その顔が、妙に頼もしい。
いや、頼っていいのかは分からない。相手は猫だ。でも、少なくともアーミヤは、私より先に風の違いを拾っている。私が頭の中で棚を組み直している間にも、鼻と耳で周囲を確認している。そういう意味では、今の私はアーミヤよりかなり遅い。
私はもう一度、足元を見た。
柔らかい室内履きの底には、もう土がついている。白っぽかった部分がくすみ、端には草の汁らしいものが薄く残っていた。家の中で履いていたものが、知らない土道の色を吸っている。その見た目が、妙に胸に刺さる。
私はここへ来る準備なんて、何もしていなかった。
なのに、足元から少しずつ、ここに汚れていく。
それが嫌なのか、助かっている証拠なのか、自分でも分からない。なんも分からないことが多すぎる。けれど、室内履きについた土だけは、どう見ても本物だった。
荷車がゆっくり進む。
川の音は、もうさっきより遠い。かわりに、風の向こうから別の音が聞こえた気がした。
私は顔を上げる。
最初は、鳥かと思った。
でも違う。
短く、低く、はっきりした声。
犬だ。
遠くで犬が吠えている。
私がそう思った直後、別の方向から、もう一つ短い声が返った。
一匹ではない。
村の方角に、いくつもの耳があるみたいだった。
トルヴァンさんは少しも驚かず、荷車を引く手をそのままに言った。
「近いぞ」
その一言のあと、犬の声がもう一度返った。
まだ見えていない村の方が、先に私を見つけた気がした。
② 人の手が入った土地
犬の声が聞こえ始めると、道の先が急に近くなった気がした。
見えている距離は、たぶんさっきと大きく変わらない。けれど、音があるだけで違う。川の音は、場所そのものの音だった。水が流れて、石に触れて、草の根元を湿らせている音。そこに私がいようがいまいが、同じように流れていたはずの音だ。
でも、犬の声は違った。
一匹が吠えたあと、少し離れた場所から別の声が短く返る。さらに遠くで、もう一つ低い声が続く。吠え続けるのではない。知らせて、受け取って、そこで止めるみたいな声だった。見えない場所にいる何かが、こちらの動きをもう知っている。そう思うと、荷台の縁を握る指に少し力が入った。
人がいる。
そのことは、たしかに安心材料だった。でも、人がいるということは、見られるということでもある。制服姿で、土のついた室内履きで、王冠付きの巨大猫を横に置いて、知らない村の荷台に乗っている。どう見ても普通ではない。自分で想像しても、かなり不審だ。
トルヴァンさんは、犬の声に驚いた様子もなく荷車を引いていた。
いつもの道なのだろう。その足取りが揺れないことだけで、犬の声は危険そのものではなく、村へ近づいた合図なのだと分かる。アーミヤも耳を少し立てたまま、飛び出そうとはしない。鼻先を風へ向け、匂いを確かめている。
アンタ、ちゃんと犬の声も聞き分けてるんね。
私は声には出さず、アーミヤの背中をちらっと見た。王冠は相変わらず落ちない。犬の声がしても、荷車が揺れても、何もなかったように頭の上にある。ここまで来ると、もう王冠の方が猫にしがみついているのでは、という気すらしてくる。いや、考えると負けだ。今その棚を開けると、また白い空間まで戻りそうになる。
荷車が、緩い坂を上がった。
川辺の湿った匂いがさらに薄くなり、かわりに乾いた土と草の匂いが強くなる。道の両脇には、細い木の柵が見えてきた。まっすぐで新しい柵ではない。ところどころ修理した跡があって、色の違う板や枝が混ざっている。古い木に新しい木が足され、縄の巻き方も場所によって少し違う。飾りではなく、必要だからそこにある柵だ。
何かを入れないためか、何かを出さないためか。あるいは、その両方か。正確な役目までは分からない。でも、そこに境目を作る必要がある土地なのだということは、見ただけで分かった。
柵の向こうには、畑らしきものが広がっていた。
畑、と言い切っていいのかは少し迷う。現代日本で見た畑とは、作物の形も、畝の幅も、土の色も少し違っている。葉の大きいもの。低く広がるもの。棒に沿わせているもの。ところどころ、草に見えるけれど抜かれずに残されているものもある。
ただ、自然に勝手に生えた場所ではない。
誰かが線を作っている。誰かが水の通りを見ている。誰かが、抜くものと残すものを分けている。畝の間には細い溝があり、乾いたところと、まだ少し湿りを残しているところが分かれていた。土の色も一枚ではない。黒っぽいところ、赤みのあるところ、踏まれて固まったところ。荷車の上から見ているだけでも、歩いていい場所と、踏んだらだめそうな場所があるのが分かる。
私は思わず、足元の室内履きを見た。
この足で入ったら、絶対に何かを壊す。
間違いなく迷惑だ。
「畑、ですか」
「ああ。今は見るだけにしとけ。足元がそれじゃ、畝を崩す」
「はい。そこは、なんも反論できないです」
私がそう言うと、トルヴァンさんは肩越しに少しだけこちらを見た。
「なんも?」
「あ……何も、です」
「変わった言い方をする」
「たぶん、そうです」
それ以上は突っ込まれなかった。
助かった。今の私は、言葉遣いまで全部整える余裕がない。翻訳されて意味は通じているはずなのに、自分の口から出る細かい響きまでは、どうにもならない。北海道の家で使っていた言い方が、知らない世界の土道でそのまま零れる。変だと思われても、直す余裕がない。
荷車は畑の脇を進んでいく。
柵の内側には、作業の跡がいくつも残っていた。草を刈ったあとの細い束。泥を落としたらしい木の板。ひっくり返された籠。乾かしている途中の草をまとめたもの。薪の山もあった。積み方が雑ではない。下の段は太いもの、上の段は細いもの。雨が流れるように、少し角度がついている。
誰かが今ここにいなくても、手の跡が残っている。
家がまだ見えなくても、村はもう始まっているのだと思った。
道の少し先に、背の低い木が何本か並んでいる場所があった。畑とは少し違う。枝の高さが揃えられていて、根元の草だけがきれいに刈られている。まだ小さな実らしいものがついている木もあった。赤くなる前の、硬そうな丸い実。別の場所には、低い灌木が列になっていて、葉の奥に小さな粒が隠れている。
果樹かな。
ベリー系もあるのかもしれない。
私は荷台から身を乗り出しすぎないようにしながら、その列を目で追った。自家用なのか、村で使うものなのかは分からない。でも、実を採るために残している場所なのは何となく分かる。ママンが、実のなるものは手間がかかるけど楽しいと言っていたのを思い出した。虫がどうとか、鳥に食べられるとか、ジャムにするには砂糖がどうとか。あの時は半分聞き流していた話が、知らない村の外れで急に別の重さを持った。
ここでも、誰かが実を待っている。
誰かが摘んで、煮て、干して、分けるのかもしれない。そう考えると、畑の色が少しだけ生活に近づく。
果樹の奥、少し高い柱の上に、箱のようなものが掛けられていた。
鳥小屋にしては高い。飾りにしては、向きがちゃんと決まっている。入口らしい穴があって、下の方には白っぽい跡も少し見えた。私は首を傾げる。
「あれは……鳥の巣箱ですか」
トルヴァンさんは、前を向いたまま答えた。
「フクロウ用だ」
「フクロウ」
「鼠を取る」
鼠。
私はそこで、ようやく腑に落ちた。畑、乾かした草、倉らしき場所、これから見えるかもしれない家や鶏舎。そういうものがあるなら、鼠はかなり困るはずだ。穀物を食べる。餌を荒らす。病気も運ぶかもしれない。現代日本でも、農家や倉庫の鼠対策は大変だと聞いたことがある。
猫ではなく、フクロウ。
その選択が面白いと思ったところで、私は横のアーミヤを見た。
王冠付きのデカ猫は、柱の上の巣箱を見上げていた。耳が前へ向いている。何かいるのか、匂いだけなのかは分からない。でも、興味はあるらしい。
アンタ、ここで仕事奪う気じゃないよね。
いや、そもそもアーミヤが鼠を取るところなんて、私はほとんど見たことがない。家の中では完全に王様寄りだった。王冠もしているし。取る側というより、取ってこさせる側の顔をしている。私は少しだけ口元が緩みそうになったけれど、すぐにまた道の先へ視線を戻した。
犬の声が近い。
さっきより、はっきり聞こえる。低い声。短い声。遠くで返る声。姿はまだ見えないけれど、こちらが近づいていることは向こうも知っているのだと思った。村に近づくというのは、勝手に入っていくことではない。見つかりながら、知られながら、入っていくことなのだ。
柵の向こうで、草を束ねていた女の人が一人、荷車へ顔を向けた。
知らない顔だ。もちろん向こうにとっても、私は知らない顔のはずだ。女の人の視線は、私の服、足元、アーミヤ、王冠の順に動く。そこで止まる。分かる。止まるしょや。でも、その人は何も言わなかった。持っていた草束を抱え直し、トルヴァンさんを見て、軽く顎を引くようにしただけだった。トルヴァンさんも短く手を上げる。
それだけで、荷車は止まらず進む。
村の中では、その短い合図だけで話が少し先へ進むらしかった。
私はそれを見て、背筋を少し伸ばした。ここから先は、ただ道を進むだけではない。誰かの目を通りながら、誰かの暮らしの端へ入っていくのだと思った。
荷車はさらに進む。
道の先に、横に長い建物の影がいくつか見え始めた。家とは少し違う。窓の位置が低く、壁の一部に細い隙間のようなものがある。そこから、かすかに声が漏れていた。高い声。低い声。ばさり、と羽が動く音。藁をかき回すような音。
私は思わず顔を上げた。
「……鶏?」
ぽつりと漏らすと、トルヴァンさんが少しだけ頷いた。
「そうだ」
やっぱり鶏だ。でも、私が想像した「農家の庭先にいる鶏」とは、音の量がまるで違った。一羽二羽の声じゃない。たくさんいる。かなり、いる。しかも建物は一つではなかった。
壁の向こうから、私の知っている鶏より、少し低くて重い声が重なって聞こえた。
荷車が道を曲がる。
視界が開ける。
そこで私は、ようやくそれを見た。
大きめの鶏舎が、いくつも並んでいた。
③ 鶏舎の声と、王冠猫
鶏舎は、私が想像していた「農家の裏にある小屋」ではなかった。
もっと大きい。しかも、一棟ではない。長い板壁の建物が、少しずつ間を空けて並んでいる。道に沿って見えるだけでも、ひとつ、ふたつ、みっつ。さらに奥にも、もうひとつある。家というより仕事場だ。人が住むための建物ではなく、何かを育て、守り、出し入れするための建物。戸口は大きめで、その前の土はよく踏まれていた。荷を持った人が何度も通った場所だ。壁の低いところには細い隙間や小窓があり、そこから声と羽音が漏れている。板の継ぎ目には補修の跡があって、古い木と新しい木の色が違っていた。
それだけで、ここが一度作って終わりの場所ではないのだと分かる。
毎日使い、毎日汚れ、毎日直している場所なのだ。
鶏の声は、私の知っているものに近い。けれど、少しだけ違っていた。一羽の声が高く抜けるというより、何羽もの声が板壁の内側で重なって、少し低く響いている。ばさり、と羽が動く音も、思っていたより大きい。板壁の向こうで藁を蹴る音がして、餌桶らしきものがこつんと動く音も混ざる。匂いも強かった。藁。餌。羽。乾いた土。生き物の体温。糞の匂いもある。けれど、じめじめした悪臭ではない。どこか乾いていて、灰か土で抑えられている感じがする。汚れていないわけではない。でも、放っておかれた汚さではない。
毎日、人の手が入っている場所の匂い。
そう思った。
戸口の近くには、藁束がまとめて置かれていた。木の熊手、餌桶、灰の入った桶、布で覆われた籠。どれも使いやすい位置にある。雑に放り出されているのではなく、次に手を伸ばす人が迷わないように置いてある。一番奥の建物だけ、戸口の布が少し厚かった。風を避けるためなのか、内側を温かくしておきたいのか、理由までは分からない。けれど、同じ鶏舎に見えても、そこだけ扱いが少し違うのは分かった。
ここ、鶏がいる村、というより、鶏で回ってる村なんでない?
そんな言葉が、頭に浮かんだ。
「村の鶏舎だ。近づきすぎるな」
トルヴァンさんが、荷車を引きながら短く言った。
「はい」
私はすぐに頷いた。
近づきすぎるなと言われて、素直に納得できた。今の私の足元は、外歩きに向いていない室内履きだ。しかも、ここは明らかに仕事場。何を踏んでいいかも、何に触っていいかも分からない人間が、うっかり入っていい場所ではない。
一番手前の鶏舎の戸が少し開いていて、中の影がちらりと見えた。
鶏が一羽、こちらを向く。
大きい。
たぶん、私の知っている鶏より胴が太い。羽毛も厚く見える。脚も少し強そうで、首まわりの羽がふくらんでいるせいか、全体の輪郭が丸くて重い。赤い肉冠も、私の知っている鶏より少し厚く見えた。すぐに別の影が重なって見えなくなったけれど、その一瞬だけで、私は少し目を丸くした。
あれ、鶏で合ってるんだよね?
いや、鶏だとは思う。声も形も鶏だ。でも、現代日本で見た写真や動画の鶏より、ちょっこし圧がある。真正面から来られたら、私は普通に一歩引く気がした。
荷車の横を通る時、子どもが二人、籠を持って鶏舎の方から出てきた。
いや、三人だ。
一番年上に見える女の子が先にいて、少し後ろに男の子。そのさらに後ろから、小さい女の子が顔を出している。女の子が持っている籠には布が敷かれていて、その上に卵がいくつか並んでいた。卵同士が触れる音が、かすかにする。
こつん。
軽い、からからした音ではない。低くて、少し硬い音だった。殻が厚いのか、卵そのものが大きいのか。そこまでは分からない。けれど、手のひらに軽く乗せて終わるような卵には見えなかった。籠の底も、ほんの少したわんでいる。女の子の腕には、ちゃんと重さが乗っていた。それでも彼女は、籠を揺らさないように持っている。
その女の子が、こちらに気づいた。
足を止める。
でも、籠は落とさない。驚いているのに、手元だけはきちんと保っている。袖はまくってあり、髪も後ろでまとめている。顔はまだ子どもなのに、動きが仕事の中にある子だった。男の子の方は、こちらへ半歩出かける。その後ろの小さい女の子も、女の子の背中越しにこちらを見ている。
いや。
違う。
こちら、ではない。
視線は、私を一度通り越して、私の横へ吸い寄せられていた。
アーミヤだ。
王冠付きのデカ猫が、荷台の上から当然みたいに顔を出していた。
アンタ、ここで顔出すんだ。
しかも、なしたその堂々感。
アーミヤは藁の上で前足を揃え、首を少し上げていた。風に長い毛が揺れている。頭の王冠は、いつも通り一ミリも遠慮しない位置に乗っている。荷車の揺れにも、犬の声にも、鶏の声にも負けない存在感だった。
私より先に、王冠猫の方が村の視線を全部持っていってしまった。
王冠猫、強すぎる。
そう思った瞬間、男の子が声を上げた。
「でっか!」
すごく正直だった。
私は少しだけ肩の力が抜けた。そうだよね。まずそこだよね。
年上の女の子が、すぐに男の子の袖を引いた。
「ヨハン、前出すぎ。鶏舎の手で知らない猫に触らない。手を洗ってから。シアも、籠の後ろ」
「でも、猫だぞ」
「猫でも」
女の子の返事は短かった。
ヨハン。男の子の方がヨハン。
シア。後ろの小さい女の子がシア。
私は頭の中で、急いで札を貼った。
トルヴァンさんが荷車を少し止める。
「ミラ。エリナは家か」
年上の女の子が、すぐにトルヴァンさんへ顔を向けた。
「いるよ。さっき火を見てた」
ミラ。
女の子がミラ。
トルヴァンさんの呼び方が自然だった。村の子どもなのだろう。親戚なのか、近所なのか、そこまでは分からない。でも、トルヴァンさんとやり取りすることに慣れているのは分かる。
ミラは私を見た。次にアーミヤを見た。そして、また私を見た。視線の順番が分かりやすすぎる。人間の私より、王冠付きデカ猫の処理優先度が高い。正しい。私でもそうする。
「そのお姉ちゃんは?」
ミラが訊いた。
お姉ちゃん。
その呼ばれ方に、少しだけ救われて、少しだけ落ち着かなくなった。高校三年生の私なら、たぶん普通に受け取れる言葉のはずだ。でも今は、その普通ささえ、足元の土みたいに少し違う色をしている。
「川の方で拾った。家へ連れていく」
トルヴァンさんの説明は短い。短すぎる。けれど、たぶん今はそれ以上言えない。私も言えない。川の方で拾った。現状だけを言うなら、それは間違っていない。
ミラは一瞬だけ目を丸くした。でも、すぐに私の足元を見た。
土のついた室内履き。制服。赤いマフラー。荷台の藁。私の顔色。それから、アーミヤ。驚いているのに、ミラの手元は乱れなかった。籠を抱えた腕も、足の位置も、ちゃんと仕事の中に残っている。
私はちょっとだけ背筋を伸ばした。
「あ、えっと。アユミ、です」
名乗ると、ミラは少しだけ首を傾げた。
「アユミ」
「うん」
呼び方に一瞬迷った。
トルヴァンさんは普通にミラと呼んでいた。村の中の距離感がまだ分からないけれど、ここでは大人にはさん付け、子どもには呼び捨ての方が自然そうだ。
たぶん。
今日の私の「たぶん」は多すぎるけど、今はそれでいくしかない。
ヨハンは、まだアーミヤを見ている。
「触っていい?」
早い。
なまら早い。
私は反射でアーミヤを見た。
アーミヤはヨハンを見返していた。耳は倒れていない。しっぽも膨らんでいない。でも、完全許可という顔でもない。じっと見ている。審査している。猫のくせに、面接官みたいな顔だ。
「アーミヤが嫌がらなければ、かな」
「アーミヤ?」
「このデカ猫の名前」
「デカ猫」
ヨハンはその単語を気に入った顔をした。
ミラは籠を腕の中で持ち直しながら、ヨハンをもう一度見る。
「触るなら、手を洗ってから。鶏舎の手で触ったら、猫にも悪いし、こっちも汚れる。あと、アーミヤが嫌がったら終わり。分かった?」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
なんだろう。
すごく納得できる。
ヨハンは不満そうだったが、ちゃんと手を引っ込めた。シアはミラの後ろから、アーミヤの王冠をじっと見ている。正確には、アーミヤの頭の上から視線が離れない。
気持ちは分かる。
そこ、見ちゃうよね。
シアが、ぽそっと言った。
「猫、えらいの?」
その問いがあまりにも素直で、私は一瞬だけ返事に詰まった。
えらい。
アーミヤが。
王冠をしているから。
どうしよう。
否定しきれない。
私はアーミヤを見る。アーミヤは、なぜか少しだけ胸を張っていた。
「……本人は、たぶん、えらいと思ってる」
ミラが吹き出しかけた。
ヨハンは笑った。
シアはかなり真面目に頷いた。
アーミヤは当然みたいな顔をしていた。
その瞬間、荷台の上にあった緊張が少しだけ緩んだ。村へ入るのが怖くないわけではない。子どもたちの視線も、まだ少し痛い。でも、王冠付きのデカ猫が全部を一度おかしくしてくれたおかげで、私はただの怪しい子ではなく、「怪しい猫と一緒に来た変な子」くらいの位置に落ちた気がした。
いや、それでいいのかは分からない。
でも、今はそのくらいがちょうどよかった。
その時、鶏舎の横から犬が一匹、低く声を出した。
中型より少し大きいくらいの犬だった。毛は短めで、首まわりだけ少し厚い。吠え続けるのではなく、こちらを見て、一度だけ短く知らせるように吠える。すぐに奥の方から、別の犬の声が返った。
ここにも、見張りがいる。
犬はトルヴァンさんを見て、それから荷台の上のアーミヤを見た。アーミヤのしっぽが、少しだけ太くなる。犬もそこで止まった。互いに見ている。喧嘩にはならない。でも、挨拶でもない。
村の番犬と、王冠付きデカ猫が、土道の上でじっと見合っている。
私はその横で、どちらに謝ればいいのか分からなかった。
「猫、珍しい?」
私が小さく訊くと、ヨハンがすぐに頷いた。
「うち、猫いないもん」
「いないの?」
「犬はいる」
それは見れば分かる。
ミラが補足する。
「この村、犬はいるけど猫はいないよ。鶏舎を見てるのは犬だし、猫がいるのは他の村。だから、そんな大きい猫は初めて見る」
「そうなんだ」
アーミヤが珍しい。
王冠以前に、猫そのものが珍しい。
そこへ王冠付きの一メートル級長毛猫が来た。
だめだ。
目立たないわけがない。
アーミヤたん、アンタ、初対面の空気を全部持っていってるんね。
アーミヤは犬から視線を外すと、何事もなかったように座り直した。王冠は、当然落ちない。番犬の方も、トルヴァンさんが軽く手を動かすと、それ以上近づかず鶏舎の方へ戻った。
訓練されている。
というより、役目を分かっている感じがした。
高い壁ではない。でも、犬の目と、子どもの手と、大人の合図で、ここはちゃんと守られている。そういう場所なのかもしれない。
鶏舎の奥にも、さっき見たような高い柱の箱があった。フクロウ用、鼠を取る。トルヴァンさんの短い説明が、鶏舎の声と餌の匂いの中で急に現実味を持つ。これだけ鶏がいて、餌があり、卵があり、藁があるなら、鼠を放っておけるわけがない。犬が見て、フクロウが取り、子どもが手を動かす。
畑中心の村だと思いかけていた。
でも、ここはそれだけじゃない。鶏舎の声があり、卵を抱える子どもたちがいて、犬がその外側を見ている。私にはまだ何も分からない。でも、この村の暮らしが畑だけでできていないことだけは、少し分かった。
そしてそこへ、王冠付きのデカ猫が入ってきた。
なした、この絵面。
自分で思って、少しだけ笑いそうになる。
けれど、笑う前にトルヴァンさんが荷車を引き直した。
「行くぞ。見るのはいいが、手は止めすぎるな」
後半は子どもたちへ向けた言葉だった。
ミラがすぐに頷く。
「うん。ヨハン、シア、戻るよ」
「あとで触れる?」
ヨハンが諦めきれない顔で言う。
私はアーミヤを見た。アーミヤたんは、知らん顔をしている。
「アーミヤ次第、かな」
「じゃあ、アーミヤに聞く」
「その前に手を洗う」
ミラの声が飛ぶ。ヨハンは「分かってる」と言いながら、籠を持ち直した。シアは最後まで王冠を見ていたけれど、ミラに促されて鶏舎の方へ戻っていく。
荷車がまた動き出した。
背後で、鶏の声と子どもたちの小さなざわめきが混ざる。犬が一度だけ短く吠え、遠くで別の犬が返した。アーミヤは荷台の上で、一度だけしっぽを揺らす。どこか得意げだった。
振り返ると、ミラの籠の中で、大きな卵がもう一度だけ、こつん、と硬い音を立てた。
そのまま荷車は、鶏舎の匂いを背中へ残して、村のさらに内側へ入っていった。
④ リンドフェルト村へ
鶏舎を過ぎると、村の気配はいっそう濃くなった。
さっきまでは、土地の方が先に村だった。柵があり、畑があり、果樹らしき木があり、フクロウ用だと言われた高い巣箱があった。誰かの手が残した跡を拾いながら、少しずつ近づいている感じだった。でも、ここから先は違う。木と土と石を使った家が、道に沿って少しずつ並び始める。全部が同じ形ではない。屋根の角度も、壁の色も、戸口の広さも違う。けれど、どの家にも薪が積まれていたり、桶が置かれていたり、布が干されていたりして、そこに人が暮らしていることだけは分かった。
煙の匂いもした。
外で何かを燃やしているというより、家の中で湯を沸かしたり、煮炊きしたりしている匂いに近い。薪の乾いた匂いに、草と土と、ほんの少し食べ物の気配が混ざっている。川辺の青い匂いとは、まるで違った。外の匂いではない。内側へ向かう匂いだ。私は荷台の縁を握ったまま、ついその匂いを追いかけてしまった。火の匂い。人の家の匂い。それだけで、喉の奥が少しだけ緩みそうになる。
まだ安心していいわけではない。
ここは知らない村で、私は完全なよそ者で、説明できないことばかり抱えている。けれど、火の匂いはずるい。人間の身体はたぶん、火と湯と食べ物の気配に弱い。頭では警戒しているのに、身体の方が先に、あそこには誰かの暮らしがあると受け取ってしまう。
荷車が、ゆっくり村の中へ入っていく。
道は川辺の土道よりもよく踏まれていた。足跡も車輪の跡も多い。乾いた土の表面が固くなっていて、ところどころ水の跡だけが暗く残っている。家の前には木片や藁が落ちている場所もあったけれど、散らかっているというより、使っている途中のものが一時的に置かれている感じだった。
桶を持った女の人がこちらを見て、薪を抱えた男の人も少しだけ足を止める。戸口のそばで何かを洗っていた年配の人が、手を止めずに顔だけを上げた。
見られてる。
なまら見られてる。
当然だと思う。私だって逆の立場なら見る。トルヴァンさんの荷台に、見慣れない服の女の子が座っている。赤いマフラー。土のついた室内履き。横には王冠付きの巨大な猫。見ない方が難しい。
でも、誰もいきなり詰め寄ってはこなかった。声を荒げる人もいない。道を塞ぐ人もいない。桶を持っていた女の人は、私とアーミヤを見たあと、桶の水がこぼれないように持ち直した。薪を抱えた男の人は、トルヴァンさんへ短く顎を引いてから、また家の脇へ向かう。
視線は刺さる。
でも、仕事の手は止まりきらない。
トルヴァンさんは、何人かに短く手を上げた。相手も同じくらい短く返す。それだけで荷車は止まらず進む。村の中では、その短い合図だけで話が少し先へ進むらしかった。私が誰なのか、アーミヤが何なのか、王冠はどういうことなのか。そういう疑問はたぶん消えていない。でも、少なくとも今ここで荷車を止めて囲む話ではない、という空気だけが通っていく。
私はそれを見て、背筋を少し伸ばした。
ここから先は、ただ道を進むだけではない。誰かの目を通りながら、誰かの暮らしの端へ入っていくのだと思った。
高い壁はない。
でも、なんも自由に入れる場所という感じもしなかった。
フロストガルドは、遠くからでも分かる石の壁で守られていた。こちらの村には、そんな壁はない。けれど、犬の声があり、人の目があり、誰が誰を知っているかという見えない線がある。その線の内側へ、私は今、トルヴァンさんの荷台に乗って入っている。それがありがたいのか、怖いのか。どちらもだった。
村の中ほどに、少し開けた場所があった。
広場、と言っていいのかもしれない。真ん中寄りに井戸らしきものがあり、その周りの土はよく踏まれて固くなっている。濡れた跡がいくつもあって、桶を置く低い台も見えた。井戸のそばだけ、道の流れが少し変わっている。人が寄って、待って、桶を持ち替えて、また家へ戻る。そんな動きが、土の上に残っていた。
「あれは、井戸ですか」
「ああ。村の真ん中だ」
トルヴァンさんの返事は短かった。けれど、その短さのおかげで、私の中にまた一つ札が置かれる。水を汲む場所。人が集まる場所。ここへ来れば、誰かに会う場所。
井戸の向こうには、大きめの建物があった。普通の家より戸口が広い。壁も厚そうで、扉の前には荷を置いた跡や、車輪が寄ったような浅い筋が残っている。人が暮らすためというより、何かをしまうための建物に見えた。
共同で使う倉、みたいなものだろうか。
その少し離れた場所には、板壁の小さな小屋がいくつかまとまっていた。家ではない。倉というには小さい。道具を置く場所か、用を足す場所か、今の私には分からない。ただ、暮らしの表側ではないものを受け持つ場所なのだと思った。
食べる。
水を汲む。
洗う。
しまう。
捨てる。
用を足す。
そういう順番が、村の中にちゃんと置かれている。
異世界。魔法。王冠。そういう大きな言葉より前に、まず生活がある。そして私は、その生活のやり方をほとんど知らない。なまら不安。でも、知らないことが具体的になると、不安も少しだけ形を持つ。何も分からない、よりは、何を知らないかが見えた方がまだましだ。
アーミヤは荷台の上で、村のあちこちへ顔を向けていた。
犬の声がするたびに耳が動く。誰かの視線が強くなると、しっぽの先が少しだけ揺れる。でも、逃げ出そうとはしない。さっき鶏舎で注目を全部さらったせいか、どこか妙に落ち着いている。王冠付きのデカ猫が堂々としているせいで、私の方だけが緊張しているみたいになっている。
いや、緊張して当然だしょや。
私は自分にそう言い聞かせた。
道の端から、犬が一匹顔を出した。
鶏舎で見た犬とは違う。少し小柄で、毛の色も違う。吠えはしなかった。ただ、こちらをじっと見て、トルヴァンさんを見て、それからアーミヤを見た。アーミヤも見る。短い沈黙が落ちる。犬は、何かを納得したように鼻を鳴らし、家の影へ戻っていった。
村の中にも、見張りがいる。
それも一匹ではない。遠くでまた別の犬が短く吠え、さらに別の場所から返る声がある。吠え続けるのではなく、知らせて、受け取って、止まる。犬の声は、村の端から端へ細い線を渡すみたいに短く響いていた。
アーミヤはそのたびに耳を動かしていた。
ちゃんと聞いてるんね。
そう思うと、少しだけ心強かった。相手は猫だけど。王冠付きだけど。今の私は、その耳と鼻にずいぶん助けられている。
荷車は広場を抜け、家々の間を進んだ。
家の前を通るたびに、それぞれ少しずつ匂いが違う。薪の匂いが強い家。干した草の匂いがする家。甘いような、酸っぱいような実の匂いがほんの少しする家。布を洗ったあとの湿った匂いが残る家。全部を覚えようとして、私はすぐに諦めた。無理。多い。でも、そういうものがあると知るだけで、少しだけ村が平面ではなくなる。
家が並んでいるだけではない。
家ごとに、匂いがあり、仕事があり、手の動きがある。
荷台の上から見える範囲だけでも、覚えきれない匂いと手の跡があった。
やがて、道の先に大きめの家が見えてきた。
周りの家より、少し広い。豪華という感じではない。飾りが多いわけでも、壁が特別白いわけでもない。ただ、人と荷物がたくさん出入りできるように作られている。戸口が広く、家の前の土はよく踏まれていた。横には薪が積まれ、桶や道具が整えて置かれている。荷車を寄せても邪魔にならないよう、前の空間が少し開いている。
ここだ。
言われる前に、なんとなく分かった。
人が暮らしてきた家。しかも、少ない人数だけの家ではない。戸口の近くには、古い傷や擦れがいくつもあった。大人の腰の高さだけではなく、もっと低い位置にも細かな跡がある。子どもがぶつけたのか、荷物が当たったのか、道具を立てかけたのか。分からないけれど、いろんな高さの人が、長い間ここを通ってきたことだけは伝わってきた。壁際には、今は空いている場所がいくつかある。何かを置いていた跡。小さな靴や道具が並んでいたのかもしれない場所。今は片づいているのに、そこだけ人の形が残っているように見える。
荷台の上で聞いた、トルヴァンさんの言葉がふっと戻ってきた。
去年、最後の娘が巣立った。
この家には、人がたくさんいたのだと思った。今は、そのぶんの余白が残っている。
荷車が止まった。
「着いたぞ」
トルヴァンさんが言った。
私はすぐには動けなかった。川辺からここまで、どれくらい揺られていたのか分からない。時計もない。けれど、身体の中ではかなり長かった。知らない土地を通り、畑を見て、鶏舎を見て、子どもたちに見られて、犬にも見られて、ようやく家の前に着いた。
降りなければいけない。
でも、降りたら本当に、この村の中へ入ることになる。
荷台の上は、まだ途中だった。
ここから先は、家の中だ。
荷台の端に置いてきたつもりの仮置き札が、降りようとした瞬間、全部胸の内側へ戻ってくる。ここがどこなのか。私は何者に見えているのか。アーミヤの王冠をどう説明するのか。そもそも、説明できるのか。札の端が胸の中でばさばさ鳴って、喉が細くなる。
アーミヤが先に立ち上がった。
藁の上で体を伸ばし、しっぽをゆるく振る。王冠は当然のように落ちない。そして、まるで「行くよ」とでも言うみたいに私を見る。
アーミヤたん、アンタほんと順応早すぎない?
私は小さく息を吐いた。
荷台の縁へ手をかけると、トルヴァンさんが荷車を押さえ、降りやすいように角度を作ってくれた。私は室内履きの底をそっと土へ下ろす。頼りない。やっぱり頼りない。でも、川辺の草地よりは、土が踏み固められているぶん少しましだった。
アーミヤも荷台から降りる。
大きな身体のわりに、音は軽い。ふわりと降りたあと、すぐに家の戸口の匂いを確認し始めた。王冠付きの巨大猫が戸口を検分している絵面は、かなり変だった。
けれど、もう突っ込む気力が足りない。
戸口の向こうから、火の匂いがした。
外で煙が流れてくる匂いではない。家の中で、誰かが火を絶やさずにいる匂いだった。湯の気配も少し混ざっている。食べ物の匂いまでは、まだはっきり分からない。でも、外ではない。中だ。風にさらされる場所ではなく、火があって、湯があって、人がいる場所の匂いだ。
その匂いを感じた瞬間、私の身体の奥に残っていた冷たいものが、ほんの少しだけ揺れた。
トルヴァンさんが戸を開ける。
火の色が、外の夕方とは違う明るさでこぼれた。
そして、その奥から女の人の声がした。
「トルヴァン? ずいぶん遅かったね」




