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第2話 後編 ルームスリッパと荷台

第2話 後編 ルームスリッパと荷台


① ルームスリッパと荷台


② リンドフェルト村のトルヴァン


③ 城壁都市は安全ではない


④ 農家の人の背中


【アユミ視点/異世界生活一日目・昼前〜昼頃】


① ルームスリッパと荷台


 その人が短く「来い」と言ったあとも、私はすぐには動けなかった。


 意味は分かる。言葉も通じている。怪我がないかを先に見て、水を飲めるかを聞いて、私の足元まで確認してくれた。少なくとも、いきなり何かを奪うとか、怒鳴るとか、斧に手を伸ばすとか、そういう動きではなかった。


 でも、それと「信用できる」は別だ。


 知らない世界の、知らない大人。しかも荷台の脇には大きな斧がある。私の方は制服姿で、足元は家の中用の柔らかい履き物。荷物もない。水もない。食べ物もない。スマホもノートも、机の上に置いてきたまま。横にいるのは王冠付きの超大型猫。


 普通に考えて、状況がわやだ。


 たぶん、この人から見てもわやだ。


 私はその人の顔と、荷台と、斧と、アーミヤを順に見た。


 信じていい根拠は少ない。


 でも、ここに残っていい根拠はもっと少ない。


 川はある。けれど飲んでいい水か分からない。遠くには石の壁がある。けれど、そこまで歩けるかも分からない。走れない。逃げられない。そもそも、この足元で草地をまともに歩ける気がしない。


 なして異世界初手の装備がこれなんだべ。


 せめて靴だったら、もうちょっこし選択肢が増えたかもしれない。いや、靴だったとしても大して増えていない気もするけれど、今の柔らかい底よりはずっとましだったと思う。


 その人は、私がまだ動けないでいるのを急かさなかった。


 ただ、荷車の横へ回り、吊るしてあった革袋を外した。こちらへ見せるように少し持ち上げ、自分で口をつけずに中身を軽く揺らす。ちゃぷ、と小さな音がした。


「少しだけ飲め。ゆっくりだ」


 差し出された革袋を見て、私は息を止めた。


 知らない人の水。


 知らない世界の水。


 警戒するべきだと思う。警戒しない方がどうかしている。現代日本でも、知らない人から飲み物を渡されたら、まず止まる。普通は止まる。ましてここは、さっきまで白い空間で上下を失っていたあとに落ちた、名前も分からない川辺だ。


 でも、喉はもうかなり渇いていた。


 白の中では分からなかった渇きが、川辺に出てから少しずつ形を持って、今は喉の奥に薄い紙みたいに貼りついている。唾を飲み込むたび、喉の内側が擦れる。さっきまで「水を飲むかどうか」を考えていたのに、実際に水を差し出された瞬間、自分の身体がどれだけそれを欲しがっていたのか分かってしまった。


 アーミヤが革袋へ鼻を近づけた。


 前足を一歩だけ出し、匂いを取る。耳は前。しっぽは下がりすぎていない。嫌そうな顔はしない。飲めるかどうかを猫に判断させるのもどうなんだと思うけれど、今の私よりは鼻が信用できる気がした。


「……少しだけ、いただきます」


 両手で受け取る。


 革の表面は少し温かく、使い込まれて柔らかかった。口をつける場所を確かめて、ほんの少しだけ傾ける。


 水は、ぬるかった。


 冷たくもない。甘くもない。特別おいしいわけでもない。けれど、ちゃんと水だった。喉を通って、胸の奥へ落ちていく。その当たり前の感覚が、思ったより強く身体を戻してくる。


 私は飲みすぎないように、すぐ口を離した。


 たった一口に近い量なのに、身体の中で何かがほどける。喉が少し湿っただけで、さっきまで遠くにあった呼吸が、ほんの少しだけ自分のものへ戻ってくる。白の中では分からなかった手の震えも、水を飲んだあとで急に分かった。革袋を持っていた指が、わずかに震えている。


 助かった、と思いかけて、私はすぐにその言葉を止めた。


 まだ助かったわけではない。


 ただ、水を一口飲めただけだ。


 でも、その一口が今はものすごく大きかった。


「ありがとうございます」


 革袋を返すと、その人は受け取りながら私の顔を見た。


「少しは顔色が戻ったな」


 顔色。


 そこまで見ていたらしい。


 私は頬へ手をやりかけて、手のひらに土がついていることに気づき、途中で止めた。こういう小さな動作ひとつにも、まだ全然頭が追いついていない。顔を触る前に手を見る。たったそれだけのことが、今は少し遅れる。


「まだ立てるか」


「立てます。たぶん」


「また、たぶんか」


「そこは……はい。たぶんです」


 その人の眉が少しだけ寄った。


 でも、叱るというより、情報として扱いづらいな、という顔だった。私だってそう思う。自分の身体なのに、確定で答えられない。若返ったかもしれない身体で、知らない川辺に落ちて、少し冷気らしきものまで出したあとで、「大丈夫です」と言い切る勇気はない。


 その人は荷車を押さえた。


「その足じゃ、長くは歩けん。乗れ」


 短い。


 でも、さっきより少しだけ理由がついた。


 私は荷台へ近づいた。近づくと、藁と木と道の埃の匂いが強くなる。荷台はほとんど空だった。藁が敷かれ、畳まれた布が端に寄せられ、空になった木箱がいくつか重ねてある。さっき見た通り、ただ荷物を積むためというより、揺れを減らすために整えてあるように見えた。


 何か壊れやすいものを運んでいたのだろう。


 その脇には、大きな斧が固定されている。


 近くで見ると、やっぱり大きい。薪を割る道具だと言われれば納得できる。けれど、手を伸ばせば取れる位置にある。飾りではない。少なくとも、この人にとって必要な道具なのだと思う。


 その人は斧を見せびらかさなかった。触れもしない。けれど、そこにあるものはそこにある。私がそれを意識していることに、たぶん向こうも気づいている。気づいたうえで、わざと何も言わないのだと思った。


 私はその斧から目を逸らしすぎないようにしながら、荷台の縁へ手をかけた。


 木の表面がざらついている。


 まだ乗る前から、身体の内側が少し固くなった。知らない人の荷台に乗る。普通なら、かなり警戒する場面だ。現代日本でも十分危ない。ましてここは、何も分からない世界だ。


 でも、ここで断るのも、同じくらい危ない。


 この足元で歩き続けるのは無理だ。草地も土道も、何なら小石ひとつでも地味に危ない。アーミヤを連れて動くなら、なおさらだ。自分だけならまだしも、アーミヤを抱えて転んだり、足を痛めたりしたら本当に詰む。


 そのアーミヤは、荷台の前でまた匂いを取っていた。


 藁、布、木箱。大斧の位置。その人の手。荷台の下。車輪。順番に確認してから、ようやく前足を縁へかける。


 それから、ひょいと乗った。


 軽やかだった。


 いや、軽くはない。絶対に軽くはない。体格は相変わらずデカい。でも動きだけが妙に若く、藁の上へ乗った時も足音が重すぎない。王冠は揺れたように見えたのに、当然のように落ちない。


 アーミヤは荷台の上で向きを変え、こちらを見下ろした。


 ちょっと偉そうだった。


 アーミヤたん、なしてアンタの方が判断早いんね。そういう顔してる場合じゃないっしょ。


 でも、アーミヤが乗ったことで、私の中の迷いが少しだけ細くなった。完全に消えたわけではない。ただ、あの子がそこへ乗ってもすぐ嫌がらなかった。それは今の私にとって、かなり大きな判断材料だった。


 その人も、荷台へ乗ったアーミヤを見た。


「賢いな」


「そこは、まあ……はい」


「はっきりしないな」


「今、自分の説明精度が全体的に落ちてます」


 言ってから、こんな時に何を返してるんだ私は、と思った。


 でもその人は、ほんの少しだけ目元を緩めたように見えた。笑った、というほどではない。ただ、私が完全に怯えきっていないことを確認したような顔だった。


 私はスカートを押さえながら、荷台へ足をかけようとした。


 柔らかい底が土で少し滑る。


 思ったより段差がある。腕にも力が入りにくい。白の中から出てから、ずっと身体に変な力が入っていたせいか、荷台へ上がるだけで少し息が乱れた。


 その人が無言で荷台を押さえた。


 さらに、片方の手を差し出してくる。


 大きな手だった。


 指の節が太く、手のひらが厚い。土と道具を扱ってきた手。家の机やペンやスマホとは全然違う手だ。知らない人の手。警戒するべき手。でも、今は私を引っ張り上げるためだけに差し出されている。


 私は少し迷ったあと、その手を借りた。


「……すみません」


「謝るところじゃない」


 返事は短かった。


 力の入れ方も、必要な分だけだった。強く引きすぎない。急かさない。私が荷台へ上がるまで、ただ支えてくれる。そういう手だった。


 荷台へ上がると、藁が制服越しに少しちくちくした。木の板は硬い。けれど、地面に立ち続けていた時よりずっとましだった。足を浮かせられる。体重を預けられる。歩かなくていい。それだけで、身体の奥に溜まっていた疲れが遅れて輪郭を持った。


 座った瞬間、少しだけ力が抜ける。


 同時に、怖さも戻ってくる。


 荷台へ乗ってしまった。


 知らない人の荷台へ。


 さっきまでなら、少し離れて立っていられた。今は違う。私はもう、この木枠の中にいる。荷台が動けば一緒に動く。逃げようと思っても、草地へ立っていた時より少し遅れる。乗せてもらえた安心と、乗ってしまった怖さが、同じ場所に重なっていた。


 安全かどうかは、まだ分からない。


 ここからどこへ連れて行かれるのかも知らない。名前も知らない。地名も知らない。この世界の常識も知らない。


 それでも、草地に一人で立っていた時よりは、ほんの少しだけ世界が近くなった気がした。


 アーミヤが私の横へ寄ってきた。


 藁の上で大きな身体を少し丸め、しっぽの先だけを私の足元へ寄せる。王冠は相変わらず、何事もなかったみたいに乗っている。私はその背へ軽く手を置いた。毛の奥には、若い張りがある。


 アーミヤが近くにいる。


 その事実だけで、荷台の上の怖さが少しだけ薄まった。


 その人は、私が座ったのを確認してから荷車の前へ回った。


「落ちるなよ」


「はい」


 私は荷台の縁を片手でつかんだ。


 木の車輪が、ゆっくりと軋んだ。


 荷台が動き出す。


 最初の揺れで、私は思わず縁を握る手に力を込めた。藁が制服の下で少しずれる。空の木箱が端で小さく鳴る。アーミヤのしっぽが私の足首へ触れる。車輪が土を噛み、川辺の草が少しずつ後ろへ流れていく。


 その揺れが身体へ伝わった瞬間、私はようやく、足を止めていられる場所を一つ得たのだと気づいた。


 それが安全な場所かどうかは、まだ分からない。


 けれど少なくとも、頼りない足元で草地に立ち尽くすよりは、ずっとましだった。


② リンドフェルト村のトルヴァン


 荷台が動き出してから、少しだけ時間が流れた。


 木の車輪が土の道を噛む音がする。ぎし、と小さく鳴って、少し進み、またぎし、と鳴る。揺れは大きくない。けれど、家の椅子とも、車のシートとも、電車の座席とも違う。木と藁と空の箱に囲まれて、知らない道の上を運ばれている。その事実が、揺れのたびに身体へ伝わってきた。


 私は荷台の縁を握ったまま、しばらく声を出せなかった。


 水を飲んだせいで、喉はさっきよりましになっている。けれど、ましになったぶん、自分の手がまだ固くなっていることも分かった。指先に土がついている。爪の間にも少し入り込んでいる。制服の膝は湿っていて、藁が時々ちくちくする。さっきまでは大きすぎる出来事に押し流されていた細かい感覚が、荷台の揺れに合わせて一つずつ戻ってくる。


 戻ってくるのは、ありがたい。


 でも、全部ありがたいわけではない。


 怖さも戻る。疲れも戻る。喉の渇きも、少し遅れて胃の空っぽさも戻ってくる。白の中で置き去りにしていたものが、音と匂いと一緒に、じわじわ追いついてくる感じだった。


 アーミヤは私の横で、藁の上へ腰を落ち着けていた。完全にくつろいでいるわけではない。耳はまだ前を向いているし、しっぽの先も時々動く。車輪が小石を踏んで荷台が小さく跳ねると、低く身を沈める。けれど、川辺で立っていた時よりは、明らかに落ち着いていた。


 その落ち着きに、私は少しだけ助けられていた。


 猫が横にいる。


 しかも、王冠付きの、やたら存在感のある、たぶん若返ったデカ猫が。


 普通なら情報量が多すぎるのに、今はその存在が現実の錨になる。変なの。いや、変なのは最初からか。


 私は荷台の縁を片手で握ったまま、前を歩くその人の背中を見た。


 大きい。


 ただ背が高いだけではない。肩が広くて、腕が厚い。荷車の引き手を扱う動きに無駄がない。重いものを持ち上げるために作られた身体というより、毎日、荷や道具や畑仕事を当たり前に扱ってきた身体だった。親戚の農家の人を、少しだけ思い出す。収穫の時期に、籠や箱を軽々と持っていた大人たち。畑の端で、子どもが邪魔にならない場所を自然に作ってくれた手。


 でも、同じではない。


 顔立ちも、骨格も、服も、風の匂いも、何もかも違う。


 ここは、私の知っている場所じゃない。


 そのことを考えた時、私はようやく気づいた。


 この人の名前を、まだ知らない。


 怪我を見てくれて、水をくれて、荷台に乗せてくれた。なのに私は、この人をまだ「その人」とか「納品帰りっぽい人」とか、そんな雑なラベルで呼んでいる。頭の中の棚としては便利だけれど、人に向けるにはかなり失礼な分類だった。


 とはいえ、どう聞けばいいのか分からない。


 相手の名前を聞く前に、こちらから名乗るべきだろうか。名字まで言うべきなのか。白雪あゆみ、と言って、それがこの世界でどう受け取られるのか。そもそも名字というものが同じ意味であるのかも分からない。


 白雪。


 そう名乗った瞬間、それが家名なのか、身分なのか、土地の名前なのか、余計な誤解を生む可能性もある。考えすぎかもしれない。でも、今は何が地雷か分からない。何も知らない世界で、いつもの感覚のまま口を開くのが怖かった。


 でも、聞かないまま荷台に乗り続けるのも、それはそれで変だ。


 私は喉を小さく鳴らしてから、前へ声をかけた。


「あの」


 その人の耳が、少しだけこちらへ向いた。歩みは止まらない。


「名前……アユミ、です」


 言ってから、少しだけ遅れて恥ずかしくなる。


 何その名乗り方。名詞を置いただけみたいになってる。もう少しまともな言い方あったっしょ。いや、あるはずなんだけど、今の私の口からはそれ以上出てこなかった。


 その人は短く繰り返した。


「アユミ」


 聞き慣れない音を、舌の上で確かめるような言い方だった。変だ、と笑うでもない。聞き返すでもない。ただ、音の形を一度受け取っている感じがした。


「はい」


「俺はトルヴァンだ。リンドフェルト村の」


 トルヴァン。


 リンドフェルト村。


 初めて聞く名前と地名が、荷台の揺れに合わせて頭の中へ転がった。


 リンドフェルト村。そこがこの人の帰る場所なのだろう。近いのか、遠いのか、安全なのか、どういう村なのかは分からない。ただ、この人には帰る場所があって、私は今、その場所へ向かっているらしい。


 知らない人が、少しだけ名前のある人になった。


 怖さが消えたわけではない。大斧はまだ荷台の脇にあるし、私は相手の村を知らない。けれど、「納品帰りっぽい人」という雑な札が、「リンドフェルト村のトルヴァンさん」に貼り替わっただけで、胸の奥の引っかかりが少しだけ形を変えた。


「トルヴァン様」


 言った瞬間、その人の肩がわずかに揺れた。


 しまった。


 なした私。初対面で様付け誤爆って、いまそこなの。


「俺は貴族じゃねぇ。そんな仰々しく言わなくていい」


「す、すみません。じゃあ、トルヴァンさんで」


「それでいい」


 短いやり取りだった。


 それ以上、そこをいじられなかったことに、私は少しだけ救われた。知らない世界で名前をもらったら、なんとなく丁寧にしなきゃと思っただけなのだ。変な本やゲームのせいかもしれないし、緊張のせいかもしれない。どちらにしても、今のはちょっとわやだった。


 トルヴァンさん。


 頭の中で、もう一度その名を置く。


 リンドフェルト村のトルヴァンさん。荷車を引いていて、大斧を持っていて、王冠付きのアーミヤを見ても、まず怪我と水を先に見た人。


 項目が増えると、少しだけ息がしやすくなる。


 分類するなと言われても無理だ。私はたぶん、怖い時ほど分類する。棚へ置けるものが一つでも増えると、足元が少しだけ増える気がするから。


 その時、トルヴァンさんが横目でアーミヤを見た。


「その猫、変わってるな」


「そこは……はい」


 否定する余地がなかった。


 アーミヤは荷台の上で、まるで自分の話ではないみたいに座っている。大きい。長毛。王冠付き。しかも妙に落ち着いている。変わっているかと聞かれたら、変わっている。むしろ変わっていない要素を探す方が難しい。


「噛むのか」


「私が嫌だって思った相手には、まあ、それなりに」


「正直でいい」


 トルヴァンさんは、それ以上深く聞かなかった。


 王冠にも視線は行っている。絶対に気づいている。気づいていないわけがない。けれど、今ここで問い詰めても仕方ないと判断したのだと思う。王冠について聞かれたところで、私も「取っても戻るんです」としか言えない。それはそれで、だいぶ怪しい。


 アーミヤはトルヴァンさんの声に耳だけを動かした。


 気にしていないようで、聞いてはいる。そういう顔だ。


「アーミヤです」


 私は小さく付け足した。


「アーミヤ」


「はい」


「そっちも聞き慣れん名だな」


「たぶん、こっちではそうですよね」


 言ってから、こっち、という言葉の曖昧さに気づく。


 こっちってどこ。


 あっちってどこ。


 元の世界と、この場所。自分の中では分かれているのに、言葉にすると途端に輪郭がぐにゃっとする。いずい。地名も、常識も、身体も、全部が少しずつ噛み合っていない。


 トルヴァンさんは、その言い方にも深く突っ込まなかった。


 聞かないわけではない。見逃しているわけでもない。たぶん、今は聞く順番ではないだけだ。怪我、水、足元、名前。その順番で進んでいる。こちらが説明できないものを、無理やり掘り起こそうとはしない。


 この人、聞かないところは聞かない人なんだ。


 そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。


 ありがたい。


 でも、同時に少し怖い。何も聞かれないから助かるのに、聞かれないまま進んでいることが不安でもある。私の説明不能な部分は、消えたわけではない。ただ、今は荷台の端に置かれているだけだ。


 荷台はゆっくり進んでいく。


 道は川沿いについているらしい。水音はずっと近くにあり、時々、風に混じって強くなる。車輪が小石を踏むと、荷台が小さく跳ねた。私は縁を握り直す。アーミヤは少し体勢を低くして、すぐにまた落ち着いた。


 トルヴァンさんの歩き方は、安定していた。


 急いでいない。でも遅くもない。荷台が揺れすぎない速度を知っているような歩き方だった。荷を運ぶ道具と、自分の身体と、道の凹凸の三つを一緒に扱っている。そんな感じがする。


 背中は大きい。


 でも、その大きさをここで全部見てしまうのは、少し違う気がした。今の私はまだ、この人のことをほとんど知らない。分かるのは、歩く速度と、荷台の揺れと、こちらを急かしすぎないことくらいだ。


 それでも、「知らない男の人」よりは、「リンドフェルト村のトルヴァンさん」の方が、ずっとましだった。


 名前がつくと、怖さの輪郭も少し変わる。


 そういうことなんだと思う。


 私は荷台の上で、遠くの石壁へ視線を戻した。


 高い壁は、相変わらずそこにある。遠くからでも分かるくらい大きくて、まっすぐで、守られている場所に見える。人がいるなら、情報があるかもしれない。水や食べ物もあるかもしれない。誰かに事情を話せば、元の世界へ戻る手がかりだって、もしかしたらあるかもしれない。


 見れば見るほど、あそこへ行けば何とかなるのでは、という気持ちが出てくる。


 でも、さっきからトルヴァンさんは、その壁の方へは向かっていない。


 道は川沿いに続いている。壁へまっすぐ近づくのではなく、少し離れた方向へ流れている気がした。


 私の視線が、何度も川の向こうの石壁へ戻っていることに、トルヴァンさんは気づいていたらしい。


「あの壁の中へ行きたいって顔してるな」


③ 城壁都市は安全ではない


 図星だった。


 私は荷台の上で、少しだけ言葉に詰まった。遠くの石壁は、さっきからずっと視界の端にある。高くて、まっすぐで、川の向こうにどっしり立っている。壁の内側には屋根や塔らしき影も見える。人がいて、守られていて、何かしらの決まりがあって、食べ物も水も情報もありそうな場所。


 大きな街へ行けば、何か分かる。


 そう思いたくなるのは、たぶん普通だ。


 少なくとも、制服姿で川辺に落ちたばかりの私には、あの壁がかなり分かりやすい希望に見えていた。道も人も分からない。帰り方も分からない。だから、まず人の多そうな場所へ行く。そう考えるのは、そんなに変ではないはずだ。


 それに、壁があるということは、内側に守りたいものがあるということでもある。


 家。店。水場。食べ物。人。仕事。紙と筆記具。情報。もしかしたら、私の状況を聞いてくれる誰か。元の世界へ戻る方法までは無理でも、せめて「ここがどこなのか」を教えてくれる場所。


 頭の中で、期待が勝手に棚を作る。


 あそこへ行けば、何か一つくらい分かるかもしれない。


 何か一つ分かれば、次のことも決められるかもしれない。


 そう思いたかった。


 けれど、トルヴァンさんの声は、私が期待していたほど明るくなかった。


「まだやめとけ」


「え」


「向こうはフロストガルドだ。防衛都市だぞ」


 フロストガルド。


 初めて聞く名前なのに、遠くの石壁の重さと妙に噛み合う響きだった。冷たそうで、硬そうで、風の強い場所に立っていそうな名前。けれど、名前を知ったからといって、その中へ入れるわけではないらしい。


 私はもう一度、壁を見た。


 高い。


 まっすぐ。


 人を守るために作られたもの。


 でもその瞬間、同じ壁が別のものにも見え始めた。外から来たものを止めるための線。中に入れるものと、入れないものを分けるための境界。守ってくれるものは、同時に拒むものでもある。


 そう考えると、さっきまで希望に見えていた石の高さが、少しだけ冷たくなった。


「防衛都市、なら……安全なんじゃ」


 言いながら、自分でも少し弱いと思った。


 安全そうに見える。守られていそうに見える。けれど、その言葉を出した瞬間、トルヴァンさんの背中が少しだけ重くなった気がした。


「守る場所だから、門が軽いわけじゃねぇ」


 短い言葉だった。


 でも、言われてすぐに分かった。いや、分かったというより、分かってしまった。


 守る場所。


 だからこそ、入れる人を選ぶ。


 それは、考えてみれば当たり前だった。現代日本の駅や店とは違う。見知らぬ人間が、身元も説明できないまま、妙な服装で、防衛のための壁へ近づく。しかも横には王冠付きの大型長毛猫。普通に考えれば、助けてくださいより先に、何者だと聞かれる。


 そりゃ止められる。


 私が門番でも、一回は止める。


「その格好で門へ行ってみろ。止められる」


 トルヴァンさんは前を向いたまま言った。


「追い返されるだけなら、まだいい」


「まだ、いい……」


「疑われりゃ捕まる。悪けりゃ、命まで軽くなる」


 荷台の揺れが、そこで少しだけ遠くなった。


 命まで軽くなる。


 その言い方が、喉の奥に引っかかった。脅すための言葉ではない。トルヴァンさんの声には、こちらを怖がらせて支配しようという響きはなかった。ただ、そういうことがあり得る場所なのだと、道のぬかるみや川の増水を教えるみたいに言っている。


 私は自分の格好を見下ろした。


 制服。


 室内履き。


 荷物なし。


 紹介者なし。


 身元説明不能。


 川辺にいた理由も説明不能。


 草先に冷気らしきものを出した自覚まである。


 そして、王冠付きのアーミヤ。


 なるほど。


 これは確かに、「助けてください」より先に、「何者だ」と聞かれる絵面だった。しかも、聞かれたところで、答えられる内容がひどい。


 家の二階から白い何かに飲まれて来ました。


 身体が少し若返った気がします。


 猫も一緒です。


 魔法らしきものも少し出ました。


 帰り方は不明です。


 だめだ。


 自分で聞いても怪しすぎる。


 どこを切っても怪しい。どこを残しても怪しい。説明すればするほど怪しい。黙っていればもっと怪しい。詰んでる。かなり詰んでる。


 私は膝のそばにいるアーミヤを見た。


 アーミヤは、荷台の上で前足を揃えて座っている。王冠は相変わらず頭に乗ったままだ。堂々としている。妙に堂々としている。こっちはその存在だけで不審ポイントが加算されているんだけど、本人、いや本猫はまるで気にしていない。


 王冠付きデカ猫、存在感がなまら強い。


 でも、その強さが今は少し怖い。目立つものを連れている。しかも、私にとっては置いていけない家族だ。アーミヤを目立たないように隠すなんて、そもそも無理がある。体も大きいし、王冠は落ちないし、本人の顔も「何か問題でも?」みたいな方向で完成している。


 私一人なら、まだ言い訳の余地があったかもしれない。


 迷子。


 事故。


 記憶混乱。


 どれも苦しいけれど、苦しいなりに人間ひとりの話で済む。


 でも、アーミヤがいる。


 それが救いでもあり、同時に説明不能の塊でもあった。


 私はアーミヤを置いていけない。


 だから、私の怪しさには、アーミヤの怪しさも必ずくっついてくる。


 その事実が、遠くの壁をさらに遠く見せた。


「このあたりは、まだ安全な方だ」


 トルヴァンさんが続けた。


「だから俺みたいなのが一人で荷を引ける」


 そう言われて、私は荷台の脇に固定された大斧を思い出した。安全な方。それでも、手を伸ばせば取れる位置に斧がある。つまり、安全の意味が、私の知っている安全とは違う。


 安全。


 それは、危険がないという意味ではないのだと思った。


 危険が少ない。


 危険に慣れた人なら通れる。


 危ないものと危なくないものの区別がつく人なら、一人で荷を引ける。


 たぶん、そういう意味の安全だ。


 私の知っている、夜でもコンビニへ行けるとか、道に迷ってもスマホで地図を見ればいいとか、何かあれば警察や救急に繋がるとか、そういう安全とは違う。


 ここには、ここ用の危険の測り方がある。


 そして私は、その目盛りを何一つ知らない。


「でも、どこでもそうだと思うなよ」


 風が川の方から吹いた。


 アーミヤの長い毛が少し揺れる。私は荷台の縁を握り直した。


「人の手が薄い場所じゃ、危ない魔獣の話はいくらでもある」


 魔獣。


 その単語だけが、翻訳されてもなお、妙に生のまま刺さった。


 ゲームや漫画の棚にある言葉だ。魔物とか、モンスターとか、魔獣とか。そういう単語なら、私の頭の中にはいくらでも引き出しがある。けれど、トルヴァンさんが言うと、それは画面の中の敵ではなかった。畑のぬかるみや、川の増水や、夜道の危なさと同じ種類の現実に聞こえた。


 この人は、魔獣というものを、生活の中にある危険として知っている。


 そのことが、言葉の意味より先に怖かった。


「魔獣って……本当に、いるんですね」


 口に出してから、変な聞き方だと思った。


 いるから言っているのだ。トルヴァンさんからすれば、何を当たり前のことを、という話かもしれない。


 けれど、トルヴァンさんは馬鹿にしなかった。


「いる。ここらは少ねぇ方だがな」


「少ない方」


「だから、なおさら勝手に歩くな。慣れてないやつは、危ないものと危なくないものの見分けもつかん」


 その言葉は、かなり刺さった。


 私は川の水すら飲むかどうか迷っていた。草の先を少し白くしただけで、もう検証を止めた。遠くの壁を見て安全そうだと思った。そんな私が、危ないものと危なくないものを見分けられるわけがない。


 見た目が綺麗な水。


 人がいそうな壁。


 踏み固められた道。


 重そうだけど使い慣れた斧。


 ただの草に見える場所。


 そのどれが安全で、どれが危険なのか、今の私には判断できない。


 なして、こんなに知らないことだらけなんだろう。


 いや、知らない世界に来たのだから当然なのだけれど、当然だから納得できるわけではない。知らないという事実だけが、石みたいに増えていく。


 トルヴァンさんは、そこで少しだけ声を和らげた。


「怖がらせたいわけじゃねぇ。ただ、向こうへ行けば何とかなる、とは思うな」


 私は小さく頷いた。


 フロストガルド。


 その名前は、遠くの壁と一緒に頭の中へ残った。


 安全そうに見える場所。けれど、誰でも入れるわけではない場所。守られているからこそ、知らない者を簡単には入れない場所。


 その当たり前を、私はようやく飲み込み始めていた。


 高い壁は、相変わらず遠くに見えている。


 守られている場所に見える。


 でも、私の今の格好と、説明できない出自と、アーミヤの王冠を考えると、あそこは近い場所ではない。少なくとも今すぐ向かって、助けてもらえる場所ではない。


 胸の奥にあった雑な希望が、少ししぼんだ。


 その代わり、今この荷台の上にいる理由が、少しだけ強くなった気がした。


「……助かった、って思ってたんですけど」


 小さく漏らすと、トルヴァンさんが肩越しに少しだけこちらを見た。


「助かってはいるだろう」


 その声は、少しだけ乾いていた。でも、突き放す感じではない。


「少なくとも、川辺で一人のままよりはな」


 それには、頷くしかなかった。


④ 農家の人の背中


 私は、荷台の縁を握ったまま、もう一度遠くの石壁を見た。


 フロストガルド。


 その名前は、石壁の高さと一緒に頭の中へ重く残っている。さっきまでは、あの壁の中へ行けば何かが始まる気がしていた。誰かが事情を聞いてくれて、何かしらの手続きをして、よく分からないなりに「次にすること」が見つかる。そんな雑な希望が、勝手に壁の内側へ置かれていた。


 でも、守る場所だからこそ、門は軽くない。


 トルヴァンさんの言葉が、荷台の揺れに合わせて少しずつ胸へ沈んでいった。守られている場所は、受け入れてくれる場所と同じではない。守るということは、外から来るものを止めることでもある。いまの私がその線を越えようとすれば、たぶん、私は助けを求める人ではなく、まず確かめられる人になる。


 そう考えると、遠くの石壁は少し冷たく見えた。


 荷台は、ゆっくり進んでいく。


 木の車輪が土を噛むたび、身体へ小さな揺れが届く。川沿いの道は、まっすぐなようで少しずつ曲がっているらしい。水音が近くなったり遠くなったりして、そのたびに光の角度も変わる。遠くの石壁は、少しずつ視界の端へ流れていった。


 すぐに消えるわけではない。


 でも、ずっと正面にあるわけでもない。


 その変化が、今の私の状況に似ていた。見えてはいる。名前も知った。けれど、そこへまっすぐ行けるわけではない。今は、川沿いの土道を、トルヴァンさんの引く荷台の上で進んでいる。


 私は荷台の縁を握ったまま、前を歩くトルヴァンさんの背中を見た。


 大きい背中だった。


 戦うために削った身体、という感じではない。剣士とか兵士とか、そういう言葉より先に、荷を運び、畑へ出て、道具を持ち、家を支えてきた身体の大きさだと思った。肩は広く、腕は厚い。荷車の引き手を扱う歩き方は、速すぎず、遅すぎず、揺れを殺すように一定だった。


 道の凹凸と、木の車輪と、後ろに乗っている私たちの重さまで、まとめて見ているみたいな歩き方だった。


 荷を壊さない歩き方。


 そう思った。


 ただ力任せに引いているのではない。車輪が小石を踏む前に、ほんの少しだけ力の入り方が変わる。道が柔らかいところでは、歩幅がわずかに短くなる。荷台が跳ねすぎないように、肩と腕が自然に揺れを吸っている。私は荷台に座っているだけなのに、その歩き方のおかげで、さっきから大きく崩れずにいられる。


 親戚の農家の人を、少しだけ思い出す。


 収穫の時期に、箱や籠を運ぶ大人たち。子どもが邪魔にならないよう、何も言わずに立つ場所を作ってくれる手。畑の端で、大人同士が短い言葉だけで段取りを通していた空気。私が覚えているのは、本当に薄い断片だけだ。農業に詳しいわけでも、何かを教わり切ったわけでもない。


 でも、重いものを日常的に扱う人の背中には、少しだけ見覚えがあった。


 もちろん、同じではない。


 トルヴァンさんの顔立ちも、骨格も、服も、風の匂いも、私の知っている日本のそれとは違う。ここは私の知っている場所ではない。その事実は、荷台が進むたびに、少しずつ身体へ沈んでくる。


 似ているところがある。


 でも、同じではない。


 それが、なまらいずい。


 アーミヤは私のそばで、藁の上に身体を低くしていた。完全にくつろいではいない。耳は時々動くし、川の音やトルヴァンさんの足音へ反応している。それでも、さっきよりは落ち着いていた。王冠は当然のように頭に乗っている。ほんと、アンタはどこでもその王冠なんだね、と言いたくなるけれど、今はその変さすら少しだけ心強い。


 白の中で、アーミヤの重さだけが現実の端だった。


 今は、その重さが藁の上にある。


 それだけで、私の身体も少しだけこの荷台の上へ戻ってくる。指先で毛を撫でると、知っている柔らかさの奥に、知らない若い張りがある。そこもまだ、うまく整理できない。けれど、アーミヤが近くにいるという一点だけは、何度確認しても変わらなかった。


「朝、集荷場へ納めてきた」


 不意に、トルヴァンさんが言った。


 私が荷台を見ていたのに気づいたのかもしれない。


「卵と、芋と、乾かした草を少しだ」


「卵……」


 私は荷台の藁と空の木箱を見る。


 だから、こんなに丁寧に敷かれていたのか。


「卵は揺らすと割れる。雑には運べん」


「なるほど……」


 言われて、少しだけ納得する。


 荷台がほとんど空だったのは、納めた帰りだから。藁がきれいに敷かれていたのは、壊れやすいものを運んでいたから。そこへ私とアーミヤが乗せてもらえているのは、帰り道で荷が軽くなっていたから。


 偶然なのだろう。


 でも、その偶然に助けられている。


 そう思うと、喉の奥がまた少しだけ詰まった。


 卵。


 芋。


 乾かした草。


 並ぶ言葉は、妙に現実的だった。魔法や翻訳や若返りなんかより、ずっと手で触れられそうなものばかりだ。割れないように運ばれた卵。きっとどこかで食べられる芋。家畜か何かのために乾かされた草。そういうものを朝から運んで、納めて、帰る途中だった人が、川辺にいた私たちを見つけた。


 物語みたいな偶然なのに、荷台の藁と空の木箱があるせいで、変に生活の重さがあった。


「……ありがとうございます」


「礼はさっきも聞いた」


「でも、たぶん、何回か言います」


「そうか」


 トルヴァンさんは、それ以上は何も言わなかった。


 大げさに受け取らない。照れるでもない。善人ぶるわけでもない。ただ、必要だから乗せた、という感じだった。


 優しい、というより実務なのかもしれない。


 でも、実務としてそれを先に考えてくれることが、いまはものすごくありがたかった。


 荷台が小さく揺れる。


 私は縁を握り直しながら、自分の服を見下ろした。制服は草と土で少し汚れている。膝のあたりは湿っているし、袖口も少しよれていた。足元は相変わらず、外を歩くには向いていない。


 水を飲んだ。


 荷台に乗せてもらった。


 名前を聞いた。


 フロストガルドへ直行するのは危ないと知った。


 そこまで進んでも、私の格好はまだ、部屋からそのまま引っこ抜かれた時の名残を残している。制服も、足元も、何もかもが「ここへ来る準備をしていなかった」と言っているみたいだった。


 トルヴァンさんも、そこを考えていたらしい。


「娘がな」


 唐突に言った。


「去年、最後のが巣立った」


「娘さん」


「ああ。だから家に若い娘がいねぇ。服も靴も、すぐちょうどいいもんは無いかもしれん」


 そこまで言われて、私はようやく意味がつながった。


 この人は、もう私の着替えや靴のことまで考えている。


 今の私が、この格好のままでは生活に乗れないこと。足元をどうにかしないと歩き回れないこと。村へ連れて行ったあと、まず困るのはそこだということ。そういう現実的な順番が、トルヴァンさんの中ではすでに動いている。


 私は少しだけ、言葉に詰まった。


「……すみません」


「謝るな。事情があるんだろう」


 事情。


 ある。


 ありすぎる。


 でも説明できない。


 その全部を、トルヴァンさんはまだ聞いてこない。信じたわけではないと思う。理解したわけでもないと思う。ただ、いまの私は説明できる状態ではないと判断して、聞く順番を後ろへ置いてくれている。


 それが分かるから、余計にありがたかった。


 そして、少しだけ怖くもあった。


 親切にされるほど、何も返せない自分が浮き彫りになる。私はこの世界のことを何も知らない。村へ着いた後にどうなるのかも知らない。リンドフェルト村がどんな場所なのかも、トルヴァンさんの家がどんな家なのかも知らない。


 ただ、今はこの背中について行くしかない。


 荷台の揺れは、少しずつ一定になってきた。


 川の音が続いている。風が吹く。遠くの石壁は、もうさっきよりも横へずれている。人の暮らしの気配は、まだはっきりとは届かない。ただ、道は続いている。道があるということは、この先に誰かが行き来する場所があるのだろう。


 それでよかった。


 今の私には、情報が多すぎる。


 白のことを考えると、まだ胸の奥が冷える。川の音は現実に戻してくれるのに、その川の水すら私は飲めなかった。身体は少し若くなっている気がして、アーミヤの毛並みも知っているものと少し違う。草先に出た冷気は、魔法という言葉へ繋がりそうで、でもまだ棚へ置けない。そこへ、フロストガルド、魔獣、リンドフェルト村、トルヴァンさん。


 頭の中の棚は、もうだいぶ混み合っていた。


 これ以上一気に積まれたら、たぶん雪崩が起きる。


 だから今は、揺れと背中だけでいい。


 私はアーミヤを膝のそばへ少し引き寄せた。アーミヤは不満そうに耳を動かしたけれど、逃げはしなかった。長い毛が指に触れる。若い張りのある体温が、そこにある。


 ついさっきまでいた部屋は、もうどこにも見えない。


 机も、ノートも、スマホも、みかんの皮も、お茶のカップも、家族の声も、ここにはない。


 代わりに、前にはトルヴァンさんの背中があった。


 安心していいかは、まだ分からない。


 でも、川辺で一人のままよりは、ずっとましだべさ。


 荷台が、知らない土の道をゆっくり軋ませる。


 私はアーミヤを膝のそばへ寄せたまま、その背中を見失わないように、ただ前だけを見ていた。


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