第2話 前編 真っ白な無音空間と、川辺
第2話 前編 真っ白な無音空間と、川辺
① 最初に消えたのは音だった
② 若返る身体と、戻らない部屋
③ 川辺と、はじめての冷気
④ 王冠猫と、納品帰り
【アユミ視点/異世界生活一日目・朝】
① 最初に消えたのは音だった
最初に消えたのは、音だった。
耳が塞がれたわけではない。鼓膜の奥が詰まったのでも、誰かに両耳を押さえられたのでもない。もっと根本のところで、世界の方が“音”という仕組みだけを、どこかへ預けてしまったような無音だった。
私が息をしているのかどうかさえ、はっきりしない。
胸は動いている。喉の奥も、たしかに空気を通している。けれど、その感覚が耳にも頭にも戻ってこない。自分の身体が、自分から少し離れた場所で呼吸という作業だけを続けているみたいだった。声を出そうとして口を開いても、唇が動いた気配だけが残り、音は帰ってこない。言葉にならないどころか、声を出したのかどうかさえ、自信が持てなかった。
なした、これ。
そう思ったはずなのに、その言葉さえ自分の耳へ戻ってこなかった。
次に、上下が消えた。
床がない。天井もない。前も後ろも、右も左も、たぶん存在しているのだろうに、私の身体がそれを認識することを諦めている。落ちているのか、浮いているのか、止まっているのかも分からない。落下しているなら風を感じるはずで、浮いているなら重さが逃げるはずで、止まっているなら足元があるはずなのに、その全部が白の中でほどけていた。
怖い、と思った。
でもその怖さすら、いつもの怖さとは違っていた。胃の奥が縮むとか、背中が冷えるとか、そういう身体の内側から来るものではない。もっと外側だった。皮膚のすぐ上に、見えない膜みたいな恐怖がぴたりと貼りついて、私がどこへ逃げても一緒についてくる感じがする。逃げる場所なんて、そもそもどこにもないのに。
白は、眩しくなかった。
なのに、何も見えない。
目を開けているのか閉じているのか、それすら曖昧だった。光で塗りつぶされたというより、ものをものとして認識するための境目を、全部抜かれてしまった感じだ。机も、椅子も、壁も、窓も、ノートも、みかんの皮も、お茶のカップも、もう見えない。さっきまで私の部屋だったものは、どれも名前を呼ぶ前に白の奥へ沈んでしまった。
その中で、ひとつだけ残っているものがあった。
胸の前の重さ。
アーミヤだ。
私はまだ、アーミヤを抱えている。
その事実だけが、白にほどけていなかった。前足が制服の布へ食い込む感触。長い毛が頬と顎の下へ触れる柔らかさ。抱えた腕へかかる、米袋とは違う、生き物の重み。体温。喉の奥でかすかに震える低い音。音は消えているはずなのに、その震えだけは骨の内側へ直接伝わってきた。
甘える時のゴロゴロではない。
嫌なものを見つけた時、けれど逃げ場がなくて、自分をどうにか保とうとしている時の、硬い震えだった。
私は腕に力を込めた。
込めたつもりだった。
けれど、自分の腕がちゃんと動いたのかどうかは分からない。ただ、アーミヤの毛が少しだけ胸へ近づいた。その重さがほんの少し深く沈んだ。それでようやく、自分がまだ何かを抱えていられる形をしているのだと分かった。
白に混ざるのは嫌だ。
そんなの、なまら嫌だ。
だから私は、アーミヤの重さだけを何度も腕の中へ置き直した。
アーミヤの王冠だけが、白の中で妙に硬い光を返していた。
あの小さな王冠は、普段からおかしい。外しても戻るし、寝ている間に別の部屋へ置いても、朝には当然みたいに頭に乗っている。病院で見られても、家族で何度騒いでも、結局いつの間にか「そういうもの」として日常へ入り込んでいた。その異常さまで白に溶けてしまえば、もう何が何だか分からなくなるところだった。
でも、王冠は溶けなかった。
そこだけが、白へ混ざるのを拒むみたいに、青みを帯びた小さな光を抱えていた。
おかしいものが、おかしいまま残っている。
こんな状況でそれを安心材料にするのもどうかと思う。けれど、今の私にとっては、そのおかしささえ現実の端だった。普通のものが全部遠ざかったあとに、普通じゃないものだけが残る。なしてそこだけ残るの、と文句を言いたいのに、その文句を向ける相手もいない。
私はアーミヤの背へ指を沈める。
毛が深い。長い。あたたかい。指先が毛の奥へ入って、ようやくその下の身体へ届く。大型の長毛猫を抱えている時特有の、どこまでが毛で、どこからが身体なのか分かりにくい感じ。その奥に、ちゃんと重みと骨格がある。
そこにいる。
アーミヤは、そこにいる。
それだけを何度も確認する。
そうしないと、私の方が白に混ざってしまいそうだった。
時間がどれくらい過ぎたのかは分からない。
一秒かもしれない。もっと長かったのかもしれない。まばたきをしたかどうかも覚えていない。考えようとするたびに、考えるための順番だけが抜け落ちる。普通なら、まず何が起きたかを拾って、次に原因を考えて、最後に対策を探す。そういう棚を作れるはずなのに、今は棚を置く床そのものがない。
音がない。
上下がない。
部屋がない。
家族の声もない。
戻る条件も分からない。
分からないものばかりが増えていく中で、私はアーミヤの重さだけを、何度も自分の中へ置き直した。
大丈夫、とは思えなかった。
無事、とも言えなかった。
ただ、まだ完全には消えていない。そう言える材料が、腕の中にある。
アーミヤが、短く身じろぎした。
前足の爪が制服の布へ少しだけ引っかかる。痛いというほどではない。けれど、その小さな引っかかりが、今はありがたかった。痛み未満の感触が、私の身体の輪郭をほんの少しだけ戻してくれる。
痛いのは嫌だ。怖いのも嫌だ。こんなの、何一つ歓迎できない。
でも、何も感じないよりは、ずっとましなんね。そうでも思わないと、今度こそ頭の方が白に負けそうだった。
私はその温度にすがるように、アーミヤを抱き直した。
その瞬間、ようやく気づいた。
腕の中の重さが、さっきまでと少し違う。
② 若返る身体と、戻らない部屋
小さくなったわけではない。
そこは、すぐに分かった。腕へかかる量そのものが、いきなり半分になったとか、抱える位置が変わったとか、そういう分かりやすい変化ではない。アーミヤは相変わらず大きい。毛量も、胸へ押しつけてくる圧も、長いしっぽが腕の外側へ触れる感じも、私の知っている大型長毛猫のままだった。
なのに、違う。
重さの中心が、少しだけ前に出ている。
最近のアーミヤには、年を取ってからの落ち着きがあった。動かないわけじゃないし、甘える時は全力で重いし、ごはんの気配には普通に速い。けれど、若い頃みたいに、身体の中からぴんと張ったものが弾ける感じは薄れていた。飛び乗る前に少しだけ測る。首を持ち上げる時に、わずかに遅れる。眠りから覚めた時、前足へ力を入れるまでに少し間がある。
今、腕の中にいるアーミヤには、それがない。
首を持ち上げる力が早い。前足の踏ん張りが強い。毛並みの奥にある身体の密度が、少し若い。逃げるためというより、いつでも動けるように中身が締まっている感じがする。重いのに、鈍くない。大きいのに、沈んでいない。
人間でいうなら、高校生前後くらいの張りが戻った感じ、と言えば近いのかもしれない。
猫に対して何を真面目に年齢換算してるんだ、とは思う。
でも、他に言いようがなかった。
アーミヤは私の腕の中で落ち着かない様子を見せていた。耳は前を向き、しっぽは身体へ巻きつけるように寄っている。喉の低い震えはまだ続いていて、いつもの甘えた音とは全然違う。あの震えを感じると、病院へ連れていった日の待合室や、知らない掃除機を初めて見せた時の顔を思い出す。嫌なものを前にして、でも自分の場所を譲りたくない時の音だ。
怖がっている。
でも、縮こまってはいない。
そこも、少しだけ若い頃に似ていた。
「……アーミヤ、ほんとに若返ってるんでないの」
声にしたつもりだった。
けれど、やっぱり自分の耳へはほとんど戻ってこない。口の形と、喉の奥が動いた感覚だけがある。自分の言葉まで、白い膜の外側へ置き去りにされているみたいで、気持ちが悪かった。
その時、頭の奥へ、さっきの断片が戻ってきた。
死んでいない。
若い。
翻訳。
身体。
調整。
猫も。
魔法。
適応。
意味だけが落ちてきて、順番はめちゃくちゃで、こちらが理解する前に次の欠片がぶつかってきた。説明しようとしていたのは分かる。悪意だけで放り投げられたわけではないのも、たぶん分かる。でも、それと納得できるかどうかは別だ。
思い返すほど、なまら雑だ。
「いや、ほんとにログ残してけって……」
文句を言う相手も、もうどこにも見えない。神様なのか、運営なのか、白の向こうの誰かなのか、そもそも一人なのか複数なのかも分からない。ただ、言われたらしい意味の欠片だけが、私の頭の中へ散らばっている。
散らばっているなら、拾うしかない。
拾わないと、たぶん潰れる。
私はアーミヤを抱えたまま、自分の身体へ意識を向けた。
背丈は、たぶん大きく変わっていない。
そこは妙に分かる。視線の高さが極端に変わった感じはないし、手を伸ばした時の距離感も、全部が別人になったほどではない。けれど、肩の位置が少し違う。腕が少し軽い。手首の線が、覚えているより細い。指を曲げた時の皮膚の張りも、息を吸った時に胸へ空気が入る感覚も、どこか馴染まない。
いずい。
それが一番近かった。痛いわけではない。苦しいわけでもない。けれど、身体の内側だけが少し前の私へ巻き戻されて、今の私と噛み合っていない。制服の中にいるのは確かに私なのに、袖口や肩や呼吸の深さが、知っている私からちょっこしずれている。
なまらいずい。
身体が縮んだ、というより、少し前へ巻き戻された。
そう考えた瞬間、背中の奥がぞわっとした。
若返る。
言葉だけなら、軽く聞こえる。漫画やゲームなら、むしろイベントとして処理されるかもしれない。若い身体、適応、魔法、異世界。並べ方によっては、かなり都合のいい単語にも見える。
でも、自分の身体で起きると全然違う。
私の許可を取らずに、私の身体が、私の知っている私から少しずつずれている。それが怖い。痛くないのが逆に怖い。悲鳴を上げるほど壊されたわけではないのに、持ち主の知らないところで寸法を測り直されたみたいな気持ち悪さがあった。
なして私の身体なの。
そう思ったところで、答えは返ってこない。
制服の感覚が、それを裏付けていた。
私は今も制服を着ている。ブレザーも、シャツも、スカートも、赤いマフラーも、そのまま残っている。さっきまで課題をやっていた部屋から連れてこられた、最後の殻みたいなものだ。なのに、その中へ入っている身体だけが少し違うせいで、肩へ落ちる布の重さが馴染まない。袖口から出た手首が、ほんの少し頼りなく見える。スカートの重みの落ち方も、知っているものから少しだけずれている。
足元には、家の中の履き物の柔らかい底がある。
部屋で課題をやっていただけだから、外へ出る準備なんてしていなかった。靴下の上から、いつもの室内履きをつっかけていただけだ。床を歩くには何の問題もないものが、白の中では妙に心細い。足裏から世界を確かめようにも、その柔らかさが間に挟まって、何もかも頼りない。
「制服で転移はまだしも、ルームスリッパはひどいべ……」
言ってから、文句の内容があまりにも情けなくて、自分で少しだけ嫌になる。
でも、こういうどうでもいいところが引っかかるくらいでないと、頭の方が先にパニックへ落ちそうだった。帰り方が分からない。ここがどこか分からない。身体が変わっている。アーミヤまで変わっている。そんな大きすぎるものを真正面から見たら、たぶん呼吸の仕方を忘れる。
だから、足元。
袖口。
手首。
アーミヤの重さ。
分かるものを拾う。
今は、そうするしかないんね。
机は見えない。
ノートも見えない。
スマホも、みかんの皮も、お茶のカップも、もうどこにもない。パパンの声も、ママンの足音も、弟の雑な返事も聞こえない。見えていないだけなのか、本当に遠ざかったのかさえ分からない。けれど、少なくとも私の手の届く範囲にはない。
なのに、身体だけがまだ、あの部屋の続きを着ている。
制服と、頼りない室内履きだけを残して。
世界の方が間違っているのに、なぜか私の身体の方がズレを引き受けているみたいだった。
アーミヤが、また短く鳴いた。
今度は音として聞こえたわけではない。けれど、胸に触れた喉の震えが少しだけ強くなった。まるで、考えすぎるな、と言われた気がした。もちろん本当にそう言ったわけではない。
アーミヤは猫だ。
王冠付きで、異常に大きくて、若返ったかもしれないけれど、ちゃんと猫だ。
私は額を、アーミヤの毛へ少しだけ寄せた。
あたたかい。
白の中でも、そこだけはちゃんとあたたかい。
その温度を頼りに、頭の中へ無理やり線を引く。
まず、私は死んではいないらしい。
次に、身体が少し変わっている。
アーミヤも変わっている。
翻訳がどうとか、魔法がどうとか、戻る条件がどうとかは、まだ棚へ置けない。置くための棚板が足りない。なら、保留。保留は放置じゃない。あとで拾うための仮置き場だ。
そこまで考えたところで、少しだけ呼吸が戻った気がした。
たぶん、本当に少しだけ。
怖さが消えたわけではない。家へ戻れるわけでもない。白の向こうの存在を許せるわけでもない。でも、ぐちゃぐちゃの全部を、全部同時に抱えなくてもいい。分かるものから拾う。分からないものは、今は保留にする。
それだけで、ほんの少しだけ、私は私のままでいられる気がした。
その時、不意に白の密度が変わった。
均一だったはずの白の中へ、薄い風の筋みたいなものが走る。
見えたのではない。肌の方が先に気づいた。頬の外側、指先、制服の袖口、そのあたりへ、白ではない何かが触れた気がした。風そのものではない。匂いもまだない。音もまだ戻らない。
けれど、向こう側がある。
そういう予感が、皮膚の表面を撫でていった。
③ 川辺と、はじめての冷気
次の瞬間、音が戻った。
川の音だった。
さらさら、ではない。もっと幅のある流れが、石と土へ触れながら進む音。低いところでずっと動いている水の気配に、草がこすれる細い音と、遠くで鳴く鳥みたいな高い声が重なった。音だけではなかった。匂いも戻ってくる。湿った土。青い草。冷たい水。石の表面に残る、日に温められる前の淡い匂い。
白が裂けて、青が来た。
「っ、うわ……!」
今度は、自分の声が聞こえた。
膝が地面へ落ちる。片手が反射で草と土をつかみ、もう片方の腕でアーミヤを抱え直した。制服の膝へ湿った草が触れる。手のひらに土の粒が食い込む。柔らかい底越しに、足元の凹凸が頼りなく伝わってくる。さっきまで床も天井もなかった世界から、急に地面だけを返されたみたいで、身体が追いつかなかった。
私はしばらく、そのまま動けなかった。
顔を上げる。
見たことのないくらい、高い青空があった。
雲が遠い。光がまっすぐ降ってくる。北海道の冬に窓越しで見る、薄くて弱い光とは全然違う。肌へ当たる日差しが、少し重い。風は冷たいと言えば冷たいけれど、冬の外気ではなかった。頬の皮がきゅっと縮まない。指先が悴まない。喉へ入る空気も、しばれる夜のそれとは違って、どこか柔らかい。
なした。
さっきまで、しばれる冬の家にいたのに。
なんで今、川の音がして、草が濡れていて、空がこんなに高いの。
暖房の効いた二階の部屋で、制服のまま、課題の続きをやろうとしていた。机の上にはノートがあって、みかんの皮があって、お茶のカップがあった。下の階には家族の声があった。
なのに今、目の前には川が流れている。
「……は?」
間抜けな声が出た。
自分でも本当にそう思った。は、以外に出てくるものがない。白の中で音も上下も失って、それから身体の違和感を拾って、次に突然青空と川だ。展開の段差がひどい。ゲームならイベントを一つ飛ばしたみたいな状態だった。いや、ゲームならまだログがある。今の私はログなし、セーブなし、説明不足、足元も頼りない。初期設定がわやすぎる。
アーミヤが腕の中で身じろぎした。
私は慌てて膝の上へ降ろす。アーミヤは草の上に前足を置き、いったん低く身を沈めてから、すっと立った。着地の動きが速い。前足、後ろ足、しっぽの返し。見慣れているはずなのに、やっぱり少しだけ若い。体の大きさはほとんどそのままなのに、中のばねだけが戻っている感じがする。
「アーミヤ、ほんと動き若いね……」
言うと、アーミヤは私を一度だけ見上げた。
それから、すぐに周囲の匂いを取り始める。草。土。水。風。順番に鼻先を動かし、耳を前へ向け、しっぽの先だけを小さく揺らした。怖がってはいる。でも好奇心もある。そこが、少しだけ救いだった。
私は地面に手をついたまま、ゆっくり周囲を見回した。
川は広かった。岸辺の石は丸く、流れの近いところだけ濡れて濃い色になっている。水は澄んでいるのに、ただ透明なだけではない。空の青と、岸の緑と、日の光が混ざって、薄い青緑の揺れを作っていた。向こう岸のさらに先には、石で積まれた高い壁が続いている。壁の内側には、屋根らしきものと、塔みたいな影が見えた。
城壁都市。
その言葉が頭へ浮かぶ。
ただし、それは分類のための仮ラベルにすぎない。私はまだ、ここがどこか知らない。あの壁の中が街なのか、砦なのか、もっと別の何かなのかも分からない。ただ、人が暮らしていそうな規模の場所だということだけは、遠目にも分かった。
人がいる。
そう思った瞬間、少しだけ息が入った。
けれど、その安心はすぐに止まる。人がいるから安全、とは限らない。そもそも、あそこへどう行くのかも分からない。川を渡る場所があるのか、門があるのか、言葉が通じるのか、私みたいな格好の人間が行ってどう扱われるのか、何も分からない。
私は自分の足元を見下ろした。
家の中で履くための、頼りない履き物。
草地に向いていない。土にも向いていない。走るのも無理。逃げるのも、たぶん無理。初期装備としては、かなりひどい。いや、初期装備というより、部屋からそのまま引っこ抜かれた証拠だ。そう考えると、笑うより先に胸の奥が変なふうに詰まる。
「……いや、落ち着け」
私は声に出した。
声がちゃんと耳へ戻ってきた。それだけで、少しだけ世界の輪郭が増える。
「順番にだべ。まず状況確認。次、身体確認。次、安全確認」
言いながら、自分で自分の声に縋っているのが分かった。こういう時は、棚を作るしかない。全部を一度に見たら、たぶん心がわやになる。だから、一個ずつ。分かるものから。
状況。
知らない川辺。季節が違う。寒くない。遠くに壁。人の手が入った土地らしい気配はある。
身体。
少し若い。たぶん。制服が馴染まない。手首が細い。アーミヤも若い。たぶん。
安全。
不明。
そこで詰まる。
水はある。けれど、飲んでいいのか分からない。見た目は澄んでいる。でも、知らない世界の川の水を、現代日本育ちの人間が即座に飲めるほど、私の胆力は強くない。異世界の菌とか寄生虫とか、そういうものがあるのかどうかすら分からない。白の中で「病」とか「耐性」とか聞こえた気もするけど、あんな雑な断片を全面的に信じるのも怖い。
川の水を飲む?
いや、無理っしょ。
見た目が綺麗でも、知らない世界の川だよ。現代日本育ちの胃腸を信じすぎだべさ。
アーミヤが川の方へ少し近づいたので、私は反射で声を出した。
「待って。まだ飲まないで」
アーミヤは振り返り、耳だけをこちらへ向ける。
聞いてるけど不服、みたいな顔だった。
「いや、分かるよ。水あるもんね。でも待って。安全確認できてないから」
猫相手に安全確認と言っている自分が、だいぶ限界っぽい。
アーミヤはしばらく私を見ていたが、結局川辺の石の匂いを嗅ぐだけで戻ってきた。偉い。いや、普段なら絶対にそこまで素直じゃない。若返ったのに聞き分けがいいの、状況が状況だからだろうか。それとも、私の声が相当まずそうだったのかもしれない。
アンタ、こういう時はちゃんと聞いてくれるんね。
私は膝を立て、なんとか座る姿勢を変えた。
どれくらい、そうしていたのかは分からない。
白から出た直後は、空の高さを見るだけで頭が固まった。そのあと、何度か立ち上がろうとして、足元の頼りなさに負けて座り直した。川へ近づいては、水を飲むか迷い、やめた。遠くの壁を見て、歩いて向かえるか考え、足と距離を見て、これもやめた。アーミヤが少し離れて匂いを嗅ぎ、戻ってくるたびに、私の息も少し戻った。
日差しは、最初に見た時より少しだけ高くなっている気がした。
時計がない。
ポケットへ手をやりかけて、私は途中で止まった。
そもそも、スマホは机の上だ。未送信のメッセージも、みかんの皮も、お茶のカップも、全部あの部屋に置いてきた。ここで現実世界の時刻が分かったところで、この空の高さとつながるわけではないけれど、それでも、何か数字になるものが何一つ手元にないというのは、思ったより心細かった。
ノートもない。
ペンもない。
スマホもない。
いま私にあるのは、頭の中の棚と、制服と、頼りない足元と、アーミヤだけだった。
これ、地味に詰んでるんでない?
いや、地味ではないか。普通に詰んでるかもしれない。けれど、そう認めたら本当に動けなくなりそうで、私は一度だけ深く息を吸った。
喉が渇いている。
お腹が空いているのかどうかは、まだよく分からない。緊張が強すぎて、胃の位置が曖昧だった。
その時、頭の奥で、別の断片がひっかかった。
魔法。
白の向こうの何かが、たしかにそういう意味を落としてきた。
使える。
イメージ。
重要。
そんな感じの欠片もあった気がする。
「……いや、確認する?」
自分で言って、自分で少し引いた。
今この状況で、魔法検証。字面だけ見るとだいぶどうかしている。でも、何もできないのか、少しはできるのかは、早めに知っておいた方がいい。逃げるにも、助けを求めるにも、生き延びるにも、自分の手札がゼロかどうかで全然違う。
ただし、派手なことはしない。
できないだろうし、できたらできたで怖い。
私は足元の草を見た。細くて、柔らかくて、先端に少しだけ水気がついている草。そこへ指を伸ばす。
冷たいもの。
氷。
白じゃない。さっきの白ではない。もっと細くて、手元に寄せられる冷たさ。冬の朝、窓の端にできる霜。外へ出た時に、まつ毛の先だけが少し冷える感じ。水たまりの薄い膜。そういうものを、一つずつ思い浮かべる。
指先が、ほんの少し痺れた。
気のせいかもしれない。
でも、気のせいだけではない感じもした。身体の奥から何かが出る、というより、指先の周りだけ空気が薄く冷えたような感覚。私は息を止める。止めたつもりになる。指先と草の先だけを見る。
草の先端が、一瞬だけ白くなった。
「え」
本当にそれだけだった。
霜、と呼ぶには小さい。凍った、と言うには弱い。草の先に、ほんの一瞬、白い粉みたいなものが乗って、すぐ消えた。見間違いだったと言われたら、反論できるか微妙なくらいの変化だ。
でも、ゼロではなかった。
「……出た?」
声が小さく漏れる。
アーミヤがその草先へ鼻を近づけ、すぐに少しだけ顔を引いた。しっぽの先がぴくりと動く。しゃっこい、とでも思ったのかもしれない。いや、猫に道産子感想を当てるな私。
もう一度やろうとして、私は手を止めた。
怖い。
何がどう怖いのかは分からない。けれど、条件も消費量も、失敗した時の反動も分からないまま、連打していいものではない。ステータス画面もない。レベルもない。魔力残量も、成功判定も出ない。便利な通知も、チュートリアルも、ログもない。
だったら、手触りで拾うしかない。
「小検証、成功……いや、保留」
口に出す。
成功と言うには情報が足りない。保留。あとで検証。できれば紙と筆記具がほしい。すでにノートが恋しい。異世界らしき場所に落ちてから、最初に欲しくなるのがノートってどうなの。いやでも、分類できないと普通に困るし。
私は指先を握り込み、もう一度周囲を見た。
川。
草。
遠い石壁。
道らしき踏み固められた場所。
人がいそうな場所はある。けれど、そこまで行けるか分からない。城壁都市という仮ラベルを貼ったあの場所は、安全そうに見える。でも、どこから入るのかも、入れてもらえるのかも、入った後にどうなるのかも分からない。見た目だけで希望を置くには、ちょっと情報が足りなすぎる。
それでも、ここに座り続けるわけにもいかない。
そう思った時だった。
川沿いの道の向こうで、車輪のきしむ音がした。
私は反射で身を低くした。アーミヤも耳を前へ向ける。草の向こう、少し離れた道の先で、木の車輪がゆっくり回る音がする。荷台の木が小さく鳴り、何かを留める革紐か布が揺れる。続いて、人の足音。慣れた速度で、土を踏む音。
獣ではない。
私は息を潜めながら、そちらを見た。
荷車を引く、大柄な男の人が一人、こちらへ向かって歩いていた。
荷台はほとんど空に見える。藁が敷かれ、布が畳まれ、空になった木箱らしきものがいくつか乗っている。何か壊れやすいものを運んでいたのだろうか。ただ積むためというより、揺れを殺すために整えられていたように見えた。
そして、荷台の脇には大きな斧が固定されている。
薪割り用と言われれば、たぶん納得できる。けれど、ただの道具にしては、手を伸ばせばすぐ取れる位置にあった。
男の人はまだこちらに気づいていないようだった。いや、分からない。周囲を見ながら歩いている。慣れた道を歩く人の足取りなのに、完全に油断している感じではない。背が高い。肩も腕も厚い。鍛えるために鍛えたというより、重いものを日常的に扱ってきた体つきだった。
農家の人、だろうか。
納品帰りっぽい人。
頭の中に、ひとまずそうラベルを貼る。
獣じゃない。
人だ。
そして、その人はこちらへ向かって歩いていた。
④ 王冠猫と、納品帰り
その人は、こちらに気づいた。
正確には、最初から何かの気配は拾っていたのかもしれない。荷車を引く足取りは急に止まったわけではなく、まず少しだけ緩み、それから川辺と草地と私たちの位置を測るように視線が動いた。道の埃がついた服。広い肩。荷車の引き手を握る大きな手。日に焼けた指。遠目でも、重いものを扱い慣れている人だと分かる。
私は反射でアーミヤの方へ手を伸ばした。
アーミヤは逃げなかった。耳を前へ向け、しっぽの先だけを小さく動かしている。警戒はしている。でも、毛を膨らませて威嚇するほどではない。私の横に立って、その人の手元、足元、荷台の脇に固定された大きな斧を順番に見ていた。
若返ったっぽいのに、判断が妙に落ち着いている。
アーミヤたん、なしてアンタの方が現地対応できてるの。
私は喉の奥でそう思ったけれど、声には出せなかった。出したら何かが崩れそうだった。
その人は、距離を詰めすぎなかった。
そこが最初に少しだけ意外だった。大柄な人がまっすぐ近づいてきたら、それだけでかなり怖かったと思う。でもその人は、荷車の引き手を片手で押さえたまま立ち止まり、周囲を見て、私を見て、アーミヤを見て、それからまた私へ視線を戻した。
顔色。
服。
足元。
アーミヤ。
王冠。
そこで視線が止まった。
分かる。止まるよね。私だって逆の立場なら、まずそこで止まる。制服、室内履き、王冠付きデカ猫。情報量が事故ってるニュ。
その人は、少しだけ眉を寄せた。
けれど、叫ばなかった。斧にも手を伸ばさなかった。こちらを不審者として詰めるより先に、荷車から少し身体を離し、大きな身体をほんの少し低くした。屈んだ、というほどではない。でも、こちらの目線を上から押しつぶさないようにしているのは分かった。
そして、何かを言った。
音としては、知らない響きだった。
日本語ではない。英語でもない。少なくとも、私の耳が覚えているどの言葉とも違う。子音の置き方も、母音の伸び方も、知らない土地のものだった。
それなのに、意味だけはちゃんと分かった。
「おい、嬢ちゃん。怪我はないか」
私は息を止めた。
分かる。
分かってしまう。
聞いたことのない音なのに、意味だけが頭の中で日本語の位置へ落ちた。吹き替えの映画を見ている感覚に少し似ている。でも、口の動きと音と意味がずれる気持ち悪さはない。最初から、意味だけが私の知っている棚へ置かれる。
翻訳。
白の中で落ちてきた断片が、急に現実の形を持った。
「え、あの、通じる……?」
自分でも、返事としてはだいぶ変だと思う。
怪我はないか、と聞かれて、通じる、はおかしい。けれど、最初にそこが出てしまった。だって、通じたのだ。知らない世界の知らない人の言葉が。怖いのに、ありがたい。ありがたいのに、怖い。
その人は、一瞬だけ目を細めた。
たぶん、困ったのだと思う。
怪我の有無を聞いたら、目の前の見慣れない服の少女が言語そのものに驚いた。しかも横には王冠付きの大きな猫。自分がその人の立場だったら、質問をどこから組み直すべきか分からない。
その人の視線が、もう一度アーミヤへ向いた。
「その猫は……」
そこで言葉が止まった。
分かる。質問候補が一つに絞れなかったんだと思う。
大きいのか。王冠なのか。なぜ落ちないのか。そもそも猫でいいのか。横の少女との関係は何なのか。噛むのか。いや、先に聞くべきはそれなのか。
私も全部は答えられない。
アーミヤは、その沈黙をまるで気にしていなかった。しっぽの先だけを一度揺らし、荷台の方をちらっと見た。王冠は当然のように頭に乗っている。こんなに注目されているのに落ちないし、ずれないし、気まずそうにもならない。
その王冠、どう見てもツッコミ待ちの位置にあるんだけど。
今じゃない。
今はたぶん、そこじゃない。
その人も同じ結論に至ったらしい。王冠猫についての質問をいったん棚上げし、私の顔へ視線を戻した。
「……まず、怪我だな。立てるか」
理解不能なものを後回しにした。
その判断が、妙に現実的で、少しだけ救いになった。白の中で壊れた説明とは違う。順番がある。猫の王冠より先に、怪我。見慣れない服より先に、立てるかどうか。そういう順番。
「た、立てます。たぶん」
「たぶんか」
「たぶんです」
その人の眉がまた少し寄った。
責められている感じではない。ただ、情報として弱い返事だと判断された気がする。そりゃそうだ。私だって、誰かに「歩けます、たぶん」と言われたら、歩けるに分類していいか迷う。
私は慌てて言葉を足した。
「あの、痛いところは、たぶんないです。転んだとか、刺さったとか、そういうのは。気づいたら、ここにいて」
「気づいたら」
その人は短く繰り返した。
その声には、疑いも困惑もあった。でも、すぐに追ってはこなかった。私の説明が通ったからではないと思う。むしろ、今聞いてもまともな答えは返ってこないと判断されたのだろう。
正しい。
私もまともな答えを持っていない。
どこから来た、と聞かれても困る。
家の二階です。白いのに飲まれました。猫も一緒です。たぶん若返りました。草先に冷気っぽいものが出ました。翻訳は働いています。戻り方は分かりません。
どこから説明しても怪しい。どこを削っても怪しい。なして私、初対面でこんな詰んだ自己紹介を抱えてるんだべ。
その人は周囲へ視線を走らせた。川、草地、遠くの石壁、私、アーミヤ。誰かに追われているのか、近くに他の人がいるのか、そういうことを見ているのだと思う。荷台の脇の大斧は、まだ革紐で固定されたままだった。見せびらかすように触れもしない。そこも少しだけ安心材料になった。
「水は飲めるか」
次の問いは、それだった。
事情でも、名前でも、出自でもなく、水。
その現実感に、私は少しだけ救われた。今の私に必要なものを、ちゃんと先に聞いてくる。怪我、水、立てるか。順番がちゃんとしている。それだけで、白の中からちょっこしだけ外へ出られた気がした。
「喉は、渇いてます。でも……」
私は川の方を見た。
「水が安全か、分からなくて」
言ってから、変なことを言ったかもしれないと思った。知らない土地の人に、ここの水が安全か分からない、と言うのは失礼かもしれない。でも、その人は特に気分を害した様子はなかった。むしろ、ほんの少しだけ頷いた。
「川の水をいきなり飲まなかったのは、悪くない」
その言い方で、緊張していた肩のあたりが少しだけ落ちた。
合ってた。
少なくとも、そこは間違っていなかった。
知らない世界へ放り出されてから、正解らしきものが一つもなかった。けれど今、ようやく一つだけ、間違っていなかった判断ができた。それだけで、喉の奥に詰まっていたものが少し動いた。
その人の視線が、最後に私の足元へ落ちた。
私もつられて見下ろす。
家の中で履くための、柔らかい底。草地に立つものではない。土の道を歩くものでもない。小石も、枝も、ぬかるみも、たぶん全部に弱い。異世界の川辺で装備するものとしては、だいぶ心許ない。
防御力も機動力も、ほぼゼロ。
初期装備としては、かなりひどい。
その人は足元を見て、それから荷台を見た。もう一度、私を見る。判断が決まるまでが早かった。
荷台はほとんど空だった。藁が敷かれていて、布が畳まれ、空の木箱がいくつか寄せられている。何か壊れやすいものを運んでいたのだろう。藁の敷き方が雑ではなく、揺れを殺すために整えられているように見える。
荷台の脇には、大きな斧。
薪割り用と言われれば、たぶん納得できる。けれど、ただの道具にしては、手を伸ばせばすぐ取れる位置にある。今の私には、それがただの道具だと決めるだけの材料もない。
アーミヤも荷台を見ていた。
すぐには乗らない。藁の匂いを取り、布を見て、大斧の位置を見て、最後にその人の手を見た。猫のくせに、判断材料が多い。いや、猫だから多いのかもしれない。知らない場所へ雑に足を踏み入れないところだけは、昔から妙に賢い。
その人は、私の腕をつかまなかった。
無理に近づきもしなかった。荷台の方へ半身を向け、逃げ道を塞がない位置に立つ。それが偶然なのか、慣れなのかは分からない。でも、大きな人に真正面から囲まれなかっただけで、少しだけ息がしやすかった。
それから、その人は短く言った。
「来い」
短い言葉だった。
信じていい根拠は、まだない。
でも、一人で歩き続けられる根拠は、もっとなかった。
私はアーミヤと顔を見合わせてから、頼りない足元で、一歩だけ前へ踏み出した。




