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第1話 後編 魔法陣の夜

第1話 後編 魔法陣の夜


① 白に侵食される部屋


② 届かなかった説明


③ 若返る身体と、アーミヤ


④ 戻る条件と、無音


――アユミ視点/転移前・冬の夜――


① 白に侵食される部屋


 


 次の瞬間、机の上の白が、部屋じゅうへあふれた。


 眩しい、というのとは少し違う。


 目を焼くような強い光ではなく、白そのものが増えて、机と椅子と壁と窓のあいだへするすると入り込み、もともとそこにあったはずの輪郭を押しのけていく感じだった。机の木目が白に埋まり、開いたままの参考書の角が薄くなり、青と黒のペンの影がにじむ。机の隅に置いていたみかんの皮の橙色だけが一瞬だけ浮いて見えて、それすら次の脈で淡くなった。部屋が明るくなったのではない。部屋の中へ、別の白い何かが重なってきている。


 私は机の上にあるものを、反射的に順番に確認しようとした。


 参考書。ノート。スマホ。青いペン。黒いペン。付箋。食べ終わったみかんの皮。食後に少しだけ飲んだお茶のカップ。さっきまで私が見て、触って、使っていたものだ。名前をつけられる。場所も分かる。どれがどこに置いてあったかも覚えている。だからまだ大丈夫だと、頭のどこかが勝手に判断しようとした。


 けれど、分かるものから順に白へ沈んでいくのが、いちばん怖かった。


 参考書の紙端が薄くなる。ノートに書いた文字が、消しゴムで薄く撫でられたみたいに淡くなる。スマホの画面が一瞬だけ暗く光った気がしたけれど、通知なのか、白に反射しただけなのか分からない。お茶のカップは、湯気がもうほとんど消えている。さっきまで当たり前に口をつけていたものが、白の向こうで急に知らない遺留品みたいに見えた。


「は、ちょ……」


 椅子を引こうとして、私はその音が変だと気づいた。


 鳴ったはずなのに、耳へ届く位置がずれている。


 ぎい、と鳴る音が、床の近くではなく頭の後ろから来たみたいに聞こえた。暖房の低い唸りも、下の階の食器が触れ合う音も、全部まだ消えてはいない。なのに、音の出どころだけが信用できない。近いはずのものが遠く、遠いはずのものがやけに耳の内側へ近い。下の階の生活音も、まだ家の中にある。あるはずなのに、白い膜を一枚通したみたいに、音の居場所だけがずれていた。


 その異様さへぞっとした瞬間、アーミヤが飛びついてきた。


 王冠を乗せた超大型の猫が、逃げる先を私に決めたみたいな勢いで胸元へ飛びついてくる。


 なまら重っ。


 体長一メートル近い毛玉が、前足と爪と全体重でしがみついてくるのだ。米袋を抱えるのとは違う。米袋は中身が動かない。でもアーミヤは、重さの中心が勝手に動く。胸に圧が来る。腕が遅れて持っていかれる。毛量でさらに大きく感じるし、パニックになった身体が全力でしがみついてくるから、いつもの抱っことは比べものにならない。


 爪が服へ浅くかかった。


 痛い。


 でも、その痛さの方がまだ現実だった。


 私は反射でアーミヤを抱きとめる。ふわふわした毛並みと、腕へかかる重さと、胸に押しつけられる体温と、服の上から伝わる爪の感触だけが、白に押し流されずに残っている。


「わっ、ちょ、アーミヤ、痛いって」


 言いながら抱え直す。


 アーミヤは返事の代わりに、今まで聞いたことのない低い声を喉の奥で鳴らした。ゴロゴロに似ている。でも安心している時の音ではない。もっと短くて、震えていて、嫌なものを見た時に自分を奮い立たせるみたいな音だった。耳はぴたりと前を向き、しっぽは腹へ沿ってきつく巻かれている。逃げたいのに、逃げない。逃げられないのか、私から離れたくないのか、その両方なのか分からない。


 その頭の王冠だけが、白の中で一瞬、別の硬さを持った光を返した。


 金色、というより、白に混ざらない細い光だった。見えたと思った次の瞬間には、もういつもの小さな王冠に戻っている。理解する余裕なんてなかった。ただ、あれだけ白が増えているのに、王冠だけは白へ溶けなかった。その事実だけが、妙に目の奥へ残る。


 私は椅子を蹴るように立ち上がった。


 机から離れる。床へ足をつく。ついた、はずなのに、そこでもうおかしい。じゅうたんの柔らかさはある。あるのに、自分の重さだけが少し遅れて落ちてくる。足の裏の感覚と、身体がそこへ乗る感覚がぴたりと重ならない。膝の奥へ力を入れたつもりなのに、身体の方が一瞬遅れて反応する。吐き気に似たものが喉元まで上がってきた。


 学校から帰って、結局着替えそびれたままの制服だった。足元だけは、家の中のルームスリッパになっている。さっきまでは何も気にしていなかったそのちぐはぐさが、今は急に頼りなくなった。家の中なら何も気にならない柔らかさが、床そのものを信用できなくなった瞬間、私と世界のあいだにある最後の雑な布みたいに思える。


 椅子の背には、外から戻った時に外した赤いマフラーが掛かったままだった。


 あれを巻いて、学校へ行って、帰ってきて、玄関で雪を払って、階段を上がった。そんな今日の続きが、そこにはまだ残っている。なのに、赤い布の輪郭まで白に薄く撫でられていく。さっきまでただの防寒具だったものが、急に「元の生活に属するもの」みたいに遠く見えた。


「なにこれ……」


 問いかけた相手はいない。


 いないのに、白の向こうに何かがいる気配だけがあった。


 私は反射でドアの方を見た。逃げる。そう思ったのだと思う。自室のドアは、いつもの場所にある。木目も、取っ手も、少しだけ開けた時にきしむ蝶番の位置も知っている。毎日見ている、ただのドアだ。そこへ行って、開けて、廊下へ出て、階段を下りれば、ママンもパパンも弟もいる。そういう当たり前の道筋が、頭の中にはまだ残っていた。


 でも、ドアまでの距離が変だった。


 近いのに遠い。


 一歩で届くはずのところが、二歩でも足りないように見える。いや、見えるだけじゃない。たしかに踏み出したはずの足が、床の上を進まずに白の中でもがいている感じがする。部屋は広がっていない。壁の位置も、窓の位置も、机の位置も、まだ同じに見える。それなのに、私とドアのあいだだけが、誰かに勝手に引き伸ばされていた。


 アーミヤの爪が、服へもう一度浅くかかった。


 痛みで少しだけ呼吸が戻る。


「大丈夫、大丈夫……いや、何が大丈夫なのさ」


 自分で言って、自分で否定する。


 大丈夫なわけがない。机から白があふれて、部屋の音がおかしくなって、ドアまでの距離が信用できなくなっている。普通に考えて、これは完全に大丈夫ではない。なのに、口は勝手に大丈夫と言う。たぶん、言わないと自分の方が先にほどけるからだ。


 白はまだ増えていた。


 壁紙の模様が薄くなり、窓の外の雪が白の向こうへさらに白く沈んでいく。棚に並べていた本の背表紙も、机の上の付箋も、ノートPCの黒い輪郭も、全部が一枚ずつ遠くなる。遠ざかっているのではない。押し出されている。私の部屋だったものが、私の知っている部屋の位置から、少しずつ横へずらされていく。そんな感じだった。


 私はもう一度、机の上を見た。


 ノートに書いた自分の字が見える。解析、あと少し。みかん、推せる。さっきまで笑いながら書いた文字だ。あれを書いた時の私は、まだ明日を疑っていなかった。友達にノートを見せるかどうかで少しむっとして、ママンの鍋の塩気を当てて、パパンの雑な褒め方に腹を立てていた。


 数分前の自分が、白の向こうに残されている。


 そう思った瞬間、胸の奥がぞっと冷えた。


 その奥に、輪郭があった。


 最初は人影だと思った。


 白の向こう、机の向こうでも窓の前でもない、距離そのものが曖昧になった場所に、何かが立っている。背丈があるようにも見える。肩があるようにも見える。けれど、次の瞬間には人の形から少し外れる。肩に見えたものが広がり、顔に見えた場所が輪に変わり、輪に見えたものがまた細い線になってほどける。


 人、なのか。


 人に見せようとしているだけの何か、なのか。


 口があるのかどうかも分からない。


 目が合ったのかどうかさえ分からない。


 それでも、そいつが何かを伝えようとしていることだけは分かった。


② 届かなかった説明


 声がしたわけではない。


 白の向こうに口が見えたわけでもない。むしろ、顔と呼べる場所があるのかどうかさえ怪しかった。なのに、何かがこちらへ向かって押し出されてくる。音ではなく、意味だけが先に頭の奥へ触れてくる感じだった。誰かに話しかけられているのではない。知らない言葉を翻訳しているのでもない。もっと乱暴で、もっと直接的で、頭の中の棚へ中身だけを投げ込まれるような感覚だった。


 君は、 


 そこで一度、鋭いノイズみたいなものが走った。


 耳ではなく、頭の奥へ直接ひっかかる。黒板を爪でこすった時の嫌な感じだけを、音なしで受け取ったみたいだった。私は思わず顔をしかめる。アーミヤの身体も、腕の中でびくりと強張った。体長一メートル近い大きな猫が急に身体を固めると、それだけで腕にずしっと負荷が来る。


「……っ」


 白の向こうの何かは、それでも止まらなかった。


 君は、死んで、いない。


 今度は少し長く意味が落ちた。


 死んでいない。


 その言葉だけが、理解より先に腹へ落ちる。


「は?」


 何の話だ。


 そもそも誰だ、アナタは。死んでいないって何。私はさっきまで自分の部屋にいた。課題をやって、相場メモを見て、夕飯を食べて、みかんをむいて、アーミヤに話しかけていた。それがどうして、いきなり死んでいるかどうかの話になる。順番がおかしい。前提がごっそり抜けている。


 そして、先にそれを否定されると、逆に気づいてしまう。


 死ぬ可能性が、この場にあったのだと。


 自分ではまだ、そこまで考えていなかった。白い輪が出て、部屋がおかしくなって、ドアまでの距離が壊れて、知らない何かがいる。そこまでは分かる。でも、死ぬとか死なないとか、そういうところまで意識は届いていなかった。届かせたくなかったのかもしれない。


 なのに、その言葉だけが先に来た。


 君は死んでいない。


 なら、何かが少し違えば死んでいたのか。


 その考えが、背中の内側へ冷たいものを流し込んだ。


 そう言い返したかったのに、口の中が妙に乾いて、うまく言葉にならなかった。アーミヤの毛が顎の下へ触れている。いつもの柔らかさなのに、今はその一本一本がやけにはっきりしていた。怖い時ほど、どうでもいい感触だけが妙に残る。そんな自分の身体の反応まで、気持ち悪いくらい現実だった。


 白はなおも増え続けていた。


 部屋の隅の棚も、カーテンも、掛けてあった上着も、まだ見えている。見えているのに、その向こう側へもう一枚、同じ部屋とも違う白い面が重なっていく。空間が広がるのではなく、重なる。自分の部屋の寸法が、誰かの都合で上書きされていく感じだった。


 また意味が落ちてくる。


 均衡。


 こちら側。


 補助。


 接続。


 ひとつひとつの言葉は、ぎりぎり理解できる。けれど、文にならない。文にならないものを、理解しろと言われても無理がある。均衡はバランス。こちら側は、どこか別の場所に対するこちら。補助は誰かを助けるもの。接続は何かと何かを繋ぐこと。


 でも、だから何なのかが分からない。


 私は反射的に、届いた単語を頭の中で並べようとした。


 死んでいない。


 均衡。


 こちら側。


 補助。


 接続。


 単語だけなら、いくらでも書き出せる。けれど、並べる場所が決まらない。どれが前提で、どれが結果で、どれが警告なのか分からない。何を先に置けばいいのか、どことどこを結べばいいのか、どれが今すぐ必要な情報で、どれが後から分かればいい話なのかも見えない。


 ノートがないから整理できないのではない。


 順番そのものが壊れているのだ。


 いま必要なのは単語帳じゃない。説明だ。


「待って」


 今度は声になった。


「待って。説明してる? してるならもっと順番あるしょ」


 口をついた最後の語尾だけ、妙に素になった。


 そんな場合じゃないのに、頭のどこかはまだ反射で突っ込んでいた。説明会が事故ってる。そういう感覚だった。洒落にならないのに、進行が雑すぎて、恐怖と一緒に変な苛立ちが湧く。こっちは参加者なのか被害者なのかも分かっていない。まず議題を出して。名乗って。場所を説明して。最低限そこからにして。


 白の向こうの何かが、ほんのわずかに揺れた。


 驚いたのか、困ったのか、それとも私にはそう見えただけなのか分からない。ただ、その直後に落ちてきた意味は、さっきより少し焦っていた。


 本来は、順に。


 時間が、ない。


 干渉が、切れる。


 君は、 


 そこでまた、意味が千切れた。


 白い輪郭の一部がぶつぶつと途切れる。映像を再生しようとして失敗したみたいに、何かの形が何度も組み直される。人影に見えたものが細い光になり、光が輪になり、輪が崩れて、また人の肩のような場所へ戻る。相手の形が安定しないのか、こちらの見え方が壊れているのか、それすら分からない。


 けれど、ふざけている感じではなかった。


 説明する気はある。


 むしろ、説明しようとしている。


 それが届かない。


 そう分かった瞬間、怖さが少しだけ種類を変えた。相手が分かりやすい敵なら、まだ拒める。悪意なら怒れる。けれど、これは違う。誰かが何かを伝えようとして、でも通信そのものが壊れている。そんな中途半端な理解だけが、私の不安を余計に膨らませた。


 アーミヤが腕の中で低く鳴いた。


 私はその背を無意識に撫でる。指にふれる毛並みはいつもの柔らかさなのに、白の光のせいで輪郭が少しぼやけて見える。王冠はまだ頭に乗っている。そこだけは、いつもの異常がそのまま残っているみたいだった。けれど今は、その王冠を不思議がる余裕より、アーミヤが私の腕の中にいる事実の方が大きかった。


「アーミヤ、大丈夫……じゃないね。うん、これは大丈夫じゃない」


 言葉にすると、少しだけ呼吸が戻った。


 白の向こうから、また断片が来る。


 翻訳。


 病。


 耐性。


 身体。


 調整。


 若い。


「いや、待って」


 私は首を振った。


「翻訳? 病? 耐性? 若い? 何の話? ほんとに説明の順番わやなんだけど」


 文句を言いながらも、頭の中では勝手に拾ってしまう。翻訳。病。耐性。身体。調整。若い。どれも、知らない場所へ移動する時に必要そうな言葉ではある。必要そうだからこそ嫌だった。つまり私は、どこかへ移動させられようとしている。しかも、移動先に合わせて身体まで何かされようとしている。


 そんなの、許可した覚えがない。


 許可どころか、説明もまだ受けていない。


「ちょっと、待って。私、同意してないんだけど」


 自分でも驚くくらい、声が震えていた。


 その言葉が場違いなほど現代っぽいことは、自分でも分かっていた。規約に同意するみたいな話ではない。チェックボックスが出てきたわけでもない。けれど、他に言い方がなかった。私の身体のことだ。私の行き先のことだ。私とアーミヤのことだ。それを、説明もなく勝手に進められている。


 白の向こうの何かは止まれないらしい。


 意味だけが、欠けた氷片みたいに次々落ちてくる。


 保護。


 破損を、避ける。


 補助個体。


 猫。


 アーミヤ。


 接続維持。


 今度は、アーミヤの名前だけが妙にはっきり届いた。


 私は腕の中の猫を抱く力を強めた。


「アーミヤに何する気」


 その瞬間、白の向こうの輪郭が少しだけ強く揺れた。焦った、ように見えた。違う、と言おうとしたのかもしれない。けれど、言葉になる前にまたノイズが走る。


 害では、ない。


 共に。


 守る。


 連れて。


 そこまでで切れた。


 分からない。


 でも、置いていかれるわけではない。アーミヤだけ弾かれるわけでもない。少なくとも、向こうはそう言おうとしている気がした。気がしただけだ。今の私に、何かを信じ切る余裕なんてない。それでも、アーミヤが腕の中にいる事実だけは、どうにか信じられる。


 白がまた大きく脈打った。


 部屋の空気が薄くなる。暖房のぬくさが、ぬくさとして掴めなくなる。下の階の生活音も、まだあるのに、どんどん遠い場所で鳴る配管の音みたいになっていく。机の上のノートが見える。さっきまで書いていた自分の字も見える。解析、あと少し。みかん、推せる。そんな呑気な文字が、薄い紙を何枚も挟んだ向こう側みたいに、読めるのに遠く揺れていた。


 その文字を見た瞬間、急に足元が怖くなった。


 ここは私の部屋だ。


 私の部屋だったはずだ。


 なのに、私の部屋が私を支えてくれない。床も、机も、ドアも、いつもの位置にある顔をしているだけで、もういつものものではなくなっている。


「これ、ほんとに何……」


 声が細くなる。


 白の向こうの何かが、また意味を押し込んでくる。


 転移。


 境界。


 こちら側へ。


 ずれ。


 修正。


 転移。


 その単語だけは、頭が嫌でも拾った。


 漫画や小説なら、何度も見た言葉だ。異世界転移。召喚。事故。選ばれた何か。そういう棚は、私の頭の中にもある。あるのに、そこへ自分自身を入れることだけはできなかった。物語の分類棚に入っていた言葉が、いきなり現実の机の上へ落ちてきたみたいだった。


 冗談でしょ、と言いたかった。


 でも、白は冗談ではない。


 ドアは遠い。


 アーミヤは重い。


 私の声は震えている。


 そこまで聞こえたところで、視界が大きく揺れた。


 輪郭が乱れる。白の光が重なり、部屋の壁が一瞬だけ遠くなり、次の瞬間には近くなる。私が動いたのか、部屋が動いたのか分からない。アーミヤを抱えた腕へ力を入れようとして、そこで初めて、自分の手の感覚が少し遅れていることに気づいた。


 指先が、私の指先なのに、反応がわずかにずれている。


 寒さではない。


 痺れでもない。


 身体の中で、何かの基準が書き換えられ始めているような感覚だった。


「……なに」


 私は自分の腕を見た。


 袖口。手首。アーミヤを抱える指。全部、まだ私のものに見える。けれど、どこかが違う。違うと分かるのに、何が違うのかをまだ言葉にできない。


 白の向こうから、最後にもう一つだけ断片が落ちた。


 適応、開始。


 その時、不意に、自分の身体のどこかがずれた。


③ 若返る身体と、アーミヤ


 骨が縮む、とか、肉が引きつる、とか、そういうはっきりした変化ではない。


 もっと嫌な感じだった。服の内側で、自分の身体だけが、ほんの少し別の形へ寄せられていく。肩の位置。腕の重さ。胸の前でアーミヤを抱える時の力の落ち方。全部が一度に変わったわけではないのに、ひとつひとつの噛み合わせが微妙に外れていく。机の位置がおかしいのか、自分の身体がおかしいのか、もう分からなかった。


「っ、なに……」


 息を吸う。


 吸った空気が、肺の奥へ落ちる感じまで少し違った。


 床はある。足もついている。なのに、自分の体重が自分の中心へ戻ってくるまでの時間が遅い。目線が低くなった、というより、身体の中の重心だけが一段ずれたようだった。背丈そのものが変わったのかどうかは、今の私には分からない。ただ、肩から腕へかかる布の重さが少し合わない。制服の袖口が、いつもより指先へ近い。手首の細さが、さっきまでの記憶とちょっこし噛み合わない。


 足元を見た。


 夕飯の前から履いたままのルームスリッパが、妙に大きく見えた。実際に足が小さくなったのか、身体の感覚がずれているだけなのかは分からない。ただ、さっきまで何も気にせず履いていたはずの柔らかい底の中で、足の収まり方だけが変だった。爪先の位置も、踵の落ち方も、記憶の中の自分と少しだけ噛み合わない。


 さっきの頼りなさは、床がおかしくなったせいだった。


 でも今のこれは違う。


 床ではなく、私の身体の方が変わっている。


 そう気づいた瞬間、喉の奥が冷えた。


 声も、少しだけ変だった。


 自分の喉から出たはずの息が、耳へ戻る時に、いつもの高さからほんの少しだけ外れている。高い、というほどではない。けれど、録音を聞いた時に自分の声が自分の声じゃないみたいに感じる、あの嫌なズレがあった。声帯だけでなく、喉の奥の広さや、息が引っかかる場所まで、知らない誰かのものへ少しずつ寄せられていくようだった。


「いや……待って。身体、何か……」


 言いかけて、言葉が止まる。


 白の向こうから、また意味が落ちてきた。


 若返る。


 最適化。


 こちら側へ適応。


 身体の破損を避ける。


「若返る?」


 思わず聞き返した。


 若返る、という単語は分かる。分かるけれど、いま自分に向けて使われていい言葉ではない。私は十八歳だ。高校三年生だ。年齢を戻してほしいなんて願った覚えはない。そもそも、戻すにしても許可を取ってからにしてほしい。何を勝手に身体の条件へ手を入れているのか。


 若返る、という言葉には、本来なら少し軽い響きがあるのかもしれない。


 けれど、今の私には違った。


 若い身体になる、ではない。


 私の知らない誰かが、私の身体から少しずつ主導権を奪っていく。そういう感覚に近かった。私の骨。私の筋肉。私の呼吸。私の声。全部、私のもののはずなのに、白の向こうの何かが勝手に寸法を測り直している。痛みがあればまだ抵抗できたかもしれない。けれど、痛みはない。ただ、合っていたはずの服と身体が、少しずつ別々のものになっていく。


「いやいやいや、待って待って。なに、若返るって。適応って。ほんと情報の入れ方が雑すぎるべ」


 半分くらいはパニックで、半分くらいは本気で文句だった。


 ちゃんと説明しろ、と思う。けれど、その怒りより先に、身体の方が怖がっていた。誰かが私の内側の寸法を、勝手に書き換えている。そう感じた。痛みがないから安心、なんてことはない。痛くないからこそ、余計に怖い。拒否する隙もないまま、身体が別の条件へ寄せられていく。


 なのに、理解だけは少ししてしまうのが気持ち悪い。


 言葉を聞いたわけじゃない。誰かの声として受け取ったわけでもない。なのに意味だけが、頭の中で勝手に日本語の位置へ収まる。分かりたくないのに、分かる。理解したくないのに、身体の方が先に反応している。


 その歪さが、何より怖かった。


 アーミヤが腕の中で急に軽くなった、ように思えた。


 いや、違う。


 軽いのではない。


 重さの芯が変わった。


 アーミヤは十一歳くらいのシニア猫だ。体長一メートル近い大きな猫で、抱えれば今でもなまら重い。大きい米袋より厄介な、生き物の重さだ。米袋なら中身は勝手に動かない。でもアーミヤは、前足で踏ん張るし、胸へ体重を預けるし、嫌な時は全身で拒否する。重さの中心が動く。抱える側の腕が遅れて持っていかれる。


 それでも最近は、どこか丸くなっていた。


 老けた、というほどではない。けれど、若い頃の無駄な勢いは少し薄れていた。高いところへ上がる前の一瞬のためらい。寝起きに首を持ち上げる時の重さ。走り出すまでの間。毎日見ているからこそ、そういう小さな変化は分かる。


 それが今は違う。


 前足に入る力。


 胸へ押し返してくる張り。


 首を持ち上げる速さ。


 毛並みの奥にある身体の密度。


 軽くなったのではない。弱くなったのでもない。むしろ、昔の重さが戻ってきている。まだ若くて、無駄に元気で、家じゅうを王様みたいに歩いていた頃のアーミヤに近い。身体を固める力が強く、反応が速い。私の腕の中で、時間の張りを巻き戻されたみたいだった。


 私は慌てて見下ろした。


 アーミヤの顔は変わらない。


 変わらない、ように見える。丸い顔も、ふわふわの毛も、偉そうな目も、私の知っているアーミヤだ。けれど、耳の大きさの印象が少し違う。毛の立ち方も、目の奥の反応も、首を動かす速さも、どこか若い。いつもの眠そうな重みが薄くなり、黒目の奥に、若い頃の落ち着きのなさが一滴だけ戻っている。


「……は?」


 今度の声は、さっきとは別のところから出た。


「アーミヤ、ちょっと、待って。何それ。まさか一緒に……」


 猫も。


 若く。


 さっき届いた断片が、遅れて繋がる。


「え、そこ本当なの?」


 問いかける相手は白の向こうだ。けれど、返事らしい返事はない。白い輪郭は乱れたままで、こちらへ何かを伝えようとしているのに、意味の形を保てないでいる。かわりに焦りだけが強くなる。早く。間に合わない。切れる。そんな温度のない圧だけが、頭の奥へ触れてくる。


 アーミヤは私の腕の中で低く唸った。


 不安なのか、怒っているのか、両方なのか分からない。けれど、私から離れようとはしない。王冠は相変わらず頭の上にある。けれど今は、それを不思議がる余裕より、腕の中のアーミヤの重さの質が変わったことの方がずっと怖かった。


 白の向こうから、また断片が落ちる。


 アーミヤ。


 介して。


 接続維持。


 成長。


 連動。


「連動って何。アーミヤと私が?」


 思わず抱く腕へ力が入る。


 アーミヤが小さく抗議するみたいに前足を動かした。爪が少しだけ服へ引っかかる。その痛みで、私は慌てて力を緩める。


「ごめん、ごめん。痛かった?」


 こんな状況でも、猫に謝る声だけは自然に出るのが自分でも少しおかしかった。おかしいと思えるだけ、まだ頭が全部白に飲まれていないのだと思いたい。


 だが、白は待ってくれない。


 魔法。


 使える。


 イメージ。


 鍵。


 また、そんな断片が来た。


 今度は、さっきよりもはっきりしていた。魔法。使える。イメージ。鍵。単語だけなら、異世界ものの入口としてはあまりにも分かりやすい。分かりやすいからこそ、逆に現実感がなかった。


 普通なら、そこで少しは興奮するのかもしれない。


 魔法が使える。


 ラノベなら胸が躍るところだ。


 けれど、今の私は自分の部屋の中で、身体を勝手に調整されて、アーミヤまで若返っているかもしれなくて、逃げようとしたドアには届かない。椅子の背には赤いマフラーがまだ掛かっていて、机の上にはさっきまで使っていたノートがある。そんな場所で、魔法と言われても、物語の扉が開いた感じなんてしなかった。


 むしろ、私の部屋の方が勝手に扉にされている。


 そんな状態で「魔法」と言われても、喜べるわけがない。


「いや、今そこじゃない。魔法とか、そういうワクワク枠の説明を、身体を勝手に変えながら投げないで」


 声が震えた。


 白の向こうの輪郭が、また少し乱れる。言い返そうとしたのか、否定しようとしたのか、謝ろうとしたのか。分からない。ただ、相手がこちらの反応を聞いていないわけではない気配だけはあった。


 だから余計に腹が立つ。


 聞いているなら、順番を守ってほしい。


 聞こえているなら、もっとちゃんと届けてほしい。


 そうできない事情があるのだとしても、巻き込まれる側の私は、それを納得できるほど大人ではなかった。


 身体の違和感は、少しずつ増えていた。


 制服の肩が浮く。いや、浮いているほどではない。けれど、布の落ち方が違う。腕を曲げる角度が、いつもの記憶と合わない。胸元でアーミヤを支える時の筋肉の使い方が、ほんの少し幼い身体へ戻されたように頼りない。


 弱くなったというより、まだ今の身体に慣れていない。


 自分の身体なのに、今日初めて着た服みたいだった。


 私は片手で机の端を探した。


 何か固定されたものへ触れていないと、自分の輪郭まで白の向こうへ引っ張られそうだった。指先が木の角へ触れた、と思った。けれど、返ってきた感覚は机そのものではなかった。


 冷たい。


 机の表面の冷たさではない。もっと硬い白い面の冷たさが先に来る。


 私は慌てて手を引いた。


 引いたはずなのに、手の位置が戻るまでの時間が少し遅い。腕が腕じゃないみたいな軽さと遅れがある。自分の身体が、自分の命令を聞いているのに、命令を受け取る場所だけがずれている感じだった。


 アーミヤが私の胸元で、また短く鳴いた。


 その声も少し違って聞こえた。


 高い、というほどではない。けれど、十一歳の落ち着きの中に混じっていた低い丸さが、わずかに薄い。昔、まだ体力が余っていて、夜中に突然走り回って家族を起こしていた頃の、少し鋭い声が混じっている。


 私はその違いに気づいてしまった。


 気づきたくなかった。


 長く一緒にいると、相手が猫でも変化が分かる。鳴き方。耳の角度。抱いた時の重心。毛並みの張り。いつもなら、それは愛着に近い感覚だった。でも今は違う。分かってしまうからこそ、変えられていることが分かる。アーミヤまで、私の知らない何かの都合で、別の状態へ寄せられている。


「これ……ほんとに、戻るの?」


 その言葉は、自分でも驚くくらい小さく出た。


 戻る。


 そこで初めて、その言葉がはっきり怖くなった。


 さっきまでは、何が起きているのか、誰なのか、どこへ行くのか、そういう疑問ばかりだった。けれど、身体が変わり始めて、アーミヤまで違って見えて、ようやく思考がそこへ届いた。


 戻れるのか。


 この部屋へ。


 下の階へ。


 ママンとパパンと弟がいる、さっきまでの食卓へ。


 白の向こうの何かが、またこちらへ意味を押し出そうとした。


 けれど、その前に白全体が大きく揺れた。


 人影に見えたものが崩れ、輪が何重にも重なり、その中心が黒く抜けたみたいに見える。ノイズが走る。今度は頭の中だけではなく、部屋そのものがびりっと裂ける感じだった。


 アーミヤが、今までより強く鳴いた。


 短く、低く、必死な声だった。


 私は腕の中の猫を抱きしめる。


 その瞬間だけ、白の向こうに落ちる断片の中から、ひとつの意味が浮き上がった。


 戻る。


 その言葉だけが、白の中でいちばん重く落ちた。


④ 戻る条件と、無音


 続いて落ちてきたのは、言葉というより、割れた札の欠片みたいなものだった。


 条件。


 保護。


 帰還。


 継続。


 境界。


 どれも大事そうなのに、どれも文にならない。白の向こうの何かは、たしかにそこを説明しようとしていた。戻れるのか。戻れないのか。戻れるなら、何をすればいいのか。どれくらい時間があるのか。私だけなのか、アーミヤも一緒なのか。そのいちばん知りたい場所へ向かうたびに、意味が途中で千切れる。


 私は必死に拾おうとした。


 拾って、並べて、分類して、理解できる形へ変えようとした。けれど、今までノートの上でできていたことが、ここでは何ひとつ追いつかない。単語の欠片だけが増えていく。増えていくのに、肝心なところだけがいつまでも空白だった。


「待って」


 声が震えた。


「待って。そこ、いちばん大事なとこでしょ」


 戻る条件。


 その言葉だけで、胸の奥がぎゅっと縮んだ。条件があるなら、戻れる可能性はあるのかもしれない。でも、条件が届かないなら、今の私には何も分からない。希望なのか、絶望なのかさえ判断できない。白の向こうの何かは、そこを伝えようとしている。伝えようとしているのに、届かない。


 説明会が事故ってるどころじゃない。


 これは、命綱の先だけ見せられて、結び方を聞く前に崖から落とされるようなものだった。


 その時、下の階から声がした。


『アユミー?』


 ママンの声だった。


 たしかに聞こえた。けれど、いつもの声ではなかった。台所から階段へ向かって届く、少し伸びるような呼び方。その形だけは分かるのに、声の温度が遠い。廊下を上がってくるはずの声が、白い布を何枚も挟んだ向こう側で弱く揺れているみたいだった。


 下の声が、少し変わった。


 ただ呼んでいる声ではない。様子をうかがう声だ。ママンの声の端が少しだけ硬くなり、弟の返事が途中で止まり、パパンの足音が階段の方へ向かう。たぶん、何かがおかしいと気づいたのだ。そのことが、逆に苦しかった。


 気づいている。


 来ようとしている。


 なのに届かない。


 私は反射で振り向いた。


「ママン!」


 叫んだつもりだった。


 けれど、自分の声が自分の耳へ戻ってこない。口は動いた。喉も震えた。胸の奥から空気も押し出した。それなのに、声だけが白の中へ吸われていく。家へ向かって伸びる前に、私のすぐ目の前でほどけて消える。返事をしたはずなのに、誰にも届いた感じがしなかった。


 下から、今度は弟の声らしいものがした。


『姉ちゃん?』


 いつもなら、少し茶化すような声だ。部屋のドア越しでも、何か余計な一言を添えてくるはずの声だ。なのに今は、それが遠い。遠すぎる。言葉の端だけが残って、弟の顔が浮かぶ前に白へ溶ける。


 パパンの足音も聞こえた気がした。


 階段へ向かう音。


 家の床を踏む、知っている重さ。


 それが分かった瞬間、私はドアへ向かって手を伸ばした。


 自室のドアはまだ見えている。木目も、取っ手も、そこにある。行けば開けられる。開ければ廊下があって、階段があって、その下に家族がいる。頭の中の地図は壊れていない。壊れていないのに、身体がそこへ届かない。


「開けて、お願い、開けて!」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 ドアに向かって一歩踏み出す。足は動いた。動いたはずなのに、距離が縮まらない。足元のじゅうたんは白に沈み、ルームスリッパの底が頼りなく沈む。ドアの輪郭は見えているのに、そこだけ別の奥行きへ逃げていく。近い。なのに遠い。手を伸ばせば届きそうなのに、指先の前で空間そのものが薄く伸びる。


 アーミヤが腕の中で身じろぎした。


 私が強く抱きすぎているのだと気づいて、少しだけ力を緩める。アーミヤは逃げなかった。喉の奥で低く鳴りながら、白の向こうとドアの方を交互に見ている。耳は倒れ、しっぽは身体へ巻きつき、王冠だけが妙に静かだった。


 その静けさが、逆に怖い。


 白の向こうから、また意味が落ちてきた。


 境界。


 固定。


 保護。


 帰還。


 条件。


 継続。


 断片は増える。なのに、文にならない。帰還。条件。継続。聞きたいのはそこだ。その条件が何か。どうすればいいのか。何を守ればいいのか。どれだけの時間があるのか。戻れるのは私だけなのか、アーミヤも一緒なのか。そもそも戻る場所は残るのか。


「均衡って何。なして私? 戻れるの?」


 言葉がこぼれた。


「ちゃんと、言って。お願いだから」


 白の向こうの輪郭が、一瞬だけ濃くなった。


 人の形に近づいた、ように見えた。肩があり、顔があり、こちらへ手を伸ばそうとしているように見えた。けれど、その形はすぐに崩れる。白い線が裂け、輪が重なり、黒く抜けた中心がまた閉じる。相手も必死なのだと、なぜか分かった。分かったからといって、許せるわけではない。必死なら、届いてほしい。焦っているなら、なおさら大事なことから言ってほしい。


 戻る、は。


 条件。


 君が。


 保護。


 均衡。


 また切れた。


「そこ!」


 私は叫んだ。


「そこを切らないで!」


 でも、白は私の都合を聞いてくれなかった。


 部屋の輪郭がまた遠ざかる。机の上のノートが白の中で揺れる。自分で書いた文字が見えた。解析、あと少し。みかん、推せる。パパン、また雑に褒める。そんな呑気なメモが、薄い紙を何枚も挟んだ向こう側みたいに、読めるのに遠く揺れていた。数分前の私が、そこにいる。明日も来週も疑っていなかった私が、そこにいる。


 その隣に、みかんの皮があった。


 橙色はもうほとんど見えない。けれど、さっきまで確かにそこにあった。私がむいた。私が食べた。指に匂いが残っていた。そんな当たり前の証拠が、白の中で薄くなっていく。


 机の端には、食後に少しだけ飲んだお茶のカップもあった。湯気はもうほとんど消えている。さっきまで当たり前に口をつけていたものが、白の向こうで急に知らない遺留品みたいに見えた。


 椅子の背には、赤いマフラーがまだ掛かっている。


 朝、首に巻いたもの。学校へ行く時に玄関で整えたもの。雪の冷たさを防いで、帰ってきて、ほろった雪の気配を少しだけ残していたもの。その赤だけが、白の中で一瞬だけ濃く見えた。けれど、次の瞬間には、赤も少しずつ薄くなる。


 私の日常が、一つずつ名前を失っていくみたいだった。


 スマホの画面が、白の奥で一瞬だけ光った。


 さっき返しかけてやめた友達への返事が、まだ入力欄に残っている気がした。明日、学校へ寄る。ノートを見せる。そんな小さな約束が、白の向こうで急に遠い未来みたいになる。


 怖い。


 そこでようやく、言葉になった。


 状況が分からないから怖いのではない。魔法とか転移とか若返りとか、そういう意味不明な単語が出てきたから怖いのでもない。


 家が遠い。


 家族の声が届かない。


 それが怖かった。


「ママン!」


 もう一度呼んだ。


 今度も届かなかった。


 下の階の声は、さらに遠くなる。ママンの声も、弟の声も、パパンの足音も、冬の家の生活音も、全部が厚い白の向こうへ引いていく。残っているのは、腕の中のアーミヤの重さと、自分の心臓の早さと、身体の違和感だけだった。


 白の向こうの何かが、最後にもう一度だけ意味を押し込んでくる。


 守って。


 その言葉だけが、妙にはっきりしていた。


 何を。


 誰を。


 世界を。


 均衡を。


 アーミヤを。


 自分を。


 それとも、全部なのか。


 分からない。分からないのに、その言葉だけは、他の断片よりも強く刺さった。命令なのか、願いなのか、祈りなのかも分からない。守れと言われても、私は何も知らない。ここがどこへ繋がっているのかも、相手が誰なのかも、なぜ自分なのかも分からない。分からないことだらけなのに、守って、という言葉だけを先に渡される。


「そんなの……」


 声が出た。


「そんなの、知らないよ」


 知らない。


 でも、聞こえてしまった。


 聞き返す前に、次の断片が来た。


 すま、


 そこで切れた。


 謝ったのか。


 頼んだのか。


 どちらもだったのか。


 もう分からなかった。


 白が強くなる。


 部屋の輪郭が消える。机の位置も、窓も、棚も、全部が白の向こうへ押しやられる。私は最後に、机へ手を伸ばした。ついさっきまで参考書とノートとみかんが乗っていた、あの木の机へ。触れていれば、まだ自分の部屋と繋がっていられる気がした。


 でも、指先はもう届かない。


 見えている。


 たしかに見えているのに、距離だけが勝手に引き伸ばされていく。


 私の部屋が、遠ざかる。


 家そのものが薄いガラスの向こうへ押し出されるみたいに、現実感だけを失っていく。


 ここが終わりなのか、始まりなのか、その時の私にはまだ分からなかった。


 ただ一つ分かったのは、もう元の部屋へ手を伸ばしても届かない、ということだけだった。


 そしてその直後、世界の方が、音という仕組みをどこかへ預けた。


 どうなるの、私。


 その問いに答える声は、もうどこにも届かなかった。


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