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第1話 前編 普通だった最後の日

氷姫ひょうきと均衡の守護者


【あらすじ】北海道の冬、高校三年生の白雪アユミは、家族と過ごす普通の夜の途中、王冠をかぶった飼い猫アーミヤとともに白い輪の向こうへ落ちた。目覚めた先は、夏の匂いがする異世界の農村。言葉は通じるのに常識は通じず、頼れるのは観察癖と、まだ正体の分からない氷の能力だけ。借りた靴、黒パン、井戸、火床。優しさと警戒が同居する村で、彼女は生きるための一日を覚えていく。けれど村の外には魔獣の影がある。なぜ自分たちはここへ来たのか。誰が王冠を光らせたのか。失った日常へ帰る道はあるのか。答えのない一日目を越えるとき、少女と猫の物語が、やがて世界の均衡へ触れる小さな一歩として動き出していく。


第1話 前編 普通だった最後の日


① 雪の夜と、白雪家


② 知識と、考え方


③ 食卓と、土の記憶


④ 夜の整理と、白い輪


――アユミ視点/転移前・冬の夜――


① 雪の夜と、白雪家


 私の名前は白雪アユミ。


 十八歳。高校三年生。


 年の瀬が近づいて、外の雪がすっかり夜の色を吸い込む頃だった。


 外は、しばれる夜だった。


 窓の外では、街灯に照らされた雪が細かく光っている。吹雪いているわけではない。けれど、空気そのものがきっちり冷え切っていて、玄関の戸を少し開けただけでも頬の皮がきゅっと縮むような夜だった。


 道の端へ寄せられた雪山は、もう薄青く固まっている。昼のうちに踏まれた雪は、夜になると表面だけ妙に硬くなって、雑に踏むと靴底の下でぎゅっと嫌な音を立てる。屋根の端にも、電線にも、車庫の前にも、昼間の白がそのまま残っていた。


 雪国の冬は、外へ出る前からもう勝負が始まっている。


 手袋を雑に選べば指先から負けるし、首元を空ければそこから体温が抜ける。長靴の中へ雪が入れば、歩くたびに小さい罰みたいに足首が冷える。玄関の雪落としをさぼれば、家の中にまでしゃっこい水が入り込む。


 だから、玄関には雪をほろうブラシと長靴が並んでいて、壁際には家族四人分の手袋が掛けられている。誰の手袋がどれか、いちいち見なくてもだいたい分かる。パパンのは少し大きくて、ママンのは色が明るくて、弟のは片方だけなぜかいつも向きが変だ。


 そういう小さな冬支度が、家の入口に当たり前みたいに積まれている。


 そのぶん、家の中はあずましい。


 居間からは暖房のぬくい空気が流れてきて、台所の方からは何か煮えている匂いがした。玉ねぎを炒めた甘い匂いと、肉の脂の気配と、塩の立った湯気。そこに、きのこか何かの少し深い匂いも混じっている。


 お腹が減る匂いだ。


 私は二階の自室へ戻りながら、鼻だけ少し動かした。


 今日はシチュー系だべか。


 いや、もう少し塩が立ってる。牛乳っぽい丸さは薄い。ポトフ寄りかもしれない。胡椒も入ってる。ママン、たぶん今日は気分がいい。


 どうでもいいところだけ妙に分かるのは、お腹が減っているからだ。たぶん。


 廊下の途中で足を止めて、私は一階を少しだけ見下ろした。


 白雪家は、大金持ちというほどではない。でも、困るほどでもない。暖房を切るかどうかで揉める家ではないし、進学の話をした時に「そんなの自分で何とかしなさい」で終わる家でもなかった。


 パパンは稼ぎがいい。ママンも働いているし、人付き合いも上手い。うちは、たぶん比較的ちゃんとしている家だ。


 ちゃんとしている、というのは、物が揃っているとか、家が広いとか、そういうことだけではない。


 漫画があって、参考書があって、経済の本があって、料理本があって、園芸の本があって、誰かが何かを面白いと思った時に「そんなの無駄」で切られない空気がある。そういう意味で、かなり恵まれているのだと思う。


 居間の棚には、経済の新書の横に少年漫画が入っていて、その隣に家庭菜園の本、そのまた横にママンのスポーツ雑誌が並んでいる。さらに料理本の棚には、普通の家庭料理の本に混じって、体にいい系の本や発酵食品の本まで差さっていた。


 ぐちゃぐちゃに見えるのに、家族全員がだいたい位置を把握しているのがまた変だ。


 たとえばパパンは、相場のチャートを見ながら能力バトル系の少年漫画の話へ飛び、そこから急に「条件の置き方が勝負なんだよ」とか言い出すことがある。


 株、為替、指数、オプション。そういう言葉を、夕飯前の雑談に持ち込む人だ。なのに、古い能力バトル漫画の台詞も普通に出てくる。本人の中では、相場も漫画もたぶん同じ棚に入っている。力そのものより、条件と使い方で結果が変わるもの。そういう分類なのだと思う。


 昔から、それを聞いて育った。


 だからか、私は「能力」とか「条件」とか「制約」とか、そういう言葉に妙に弱い。弱いというか、聞くと勝手に頭が分類を始める。何が発動条件で、何が代償で、どこまでが本人の力で、どこからが環境の上振れなのか。そういう無駄な考察を、ついしてしまう。


 別に現実で役に立つとは思っていなかった。


 少なくとも、その夜までは。


 ママンはママンで、元旧帝卒のくせに、地域の集まりでもママさんバレーでも、だいたい誰とでも楽しそうに喋る。知識と社交性と運動神経が全部あるの、なまらずるい。


 しかも本人はそれを「別に普通だしょ」で済ませるから、なおさら腹が立つ。


 普通ではない。


 昔はピアノもやっていたし、最近はなぜかスパイス料理に凝っていて、台所の引き出しには胡椒だのクミンだの、うちの食卓に必要かどうか微妙なものまで増えている。料理も、ただ作るだけでは終わらない。余った食材を別の料理に回したり、気に入った味を家で再現しようとしたり、買えば早いものをわざわざ作ってみたりする。


 本人いわく、「できるって分かると楽しいっしょ」らしい。


 それを楽しいで済ませるの、ちょっと強すぎる。


 弟は、その二人の変なところだけを、やけにバランスよく受け継いだみたいなやつだ。


 中三。高校受験を控えているくせに、妙に余裕のある顔をしている。頭の回転は速いのに、努力の見せ方が雑。ゲームの入力を詰めるみたいに勉強も詰めればいいのに、本人は「必要になったらやる」でだいたい何とかしてしまう。


 レースゲームも格闘ゲームもRPGも好きで、操作の最適化とかコンボ入力とか、そういう話になると急にうるさい。長押しだの、同時押しだの、入力猶予だの、聞いてもいないのに説明してくる。こっちが「それ勉強にも使えば?」と言うと、「いや勉強はコマンドじゃないし」と返してくる。


 腹が立つ。


 でも、頭の使い方の向きが私と少し違うだけで、地頭そのものは悪くない。むしろ、その場で操作しながら最適解へ寄せていく感じは、ちょっと羨ましい時もあるんね。


 認めないけど。


 そういう家の中で、私は一番まともなはずだった。


 少なくとも、自分ではそう思っている。


 パパンみたいに相場と漫画を同じ鍋で煮ない。ママンみたいに仕事も社交もスポーツも料理も何でもこなさない。弟みたいに「必要になったらやる」で本当に間に合わせたりもしない。


 私は、もっと普通だ。


 ちゃんと先に考える。予定を立てる。必要なものを分ける。できることとできないことを切る。締切から逆算する。提出できる形へ持っていく。危ないところは早めに潰す。


 そういう、かなり堅実な人間のはずだった。


 でも、ノートを作って、ラベルを貼って、メモを細かく分けて、寝る前にその日の頭の中を整理しないと落ち着かないのだとしたら、たぶん私も十分に変なのだろう。


 階下では、鍋の蓋が少し鳴った。


 ママンが何かを混ぜている音。パパンが低く返事をする声。弟が余計なことを言って、すぐに「ごはん前に変なもん食べるんでないよ」と止められている声。


 全部、いつもの音だった。


 いつもの家の、いつもの夜。


 私はその音を背中で聞きながら、自室のドアを開けた。


 机の上は、今日もきれいに散らかっていた。


 学校の課題、ルーズリーフ、自作のメモ帳、青と黒のペン、開きっぱなしの参考書、ノートPC、スマホ、付箋。それに、食後に食べようと思って持ってきたみかんが二つ。


 整っているようで、よく見ると散らかっている。


 でも私の中では、散らかっていない。


 分類の途中なだけだ。


② 知識と、考え方


 進学校の冬休み課題らしく、今日の相手は解析学だった。


 微積で止まってくれればまだ少し可愛げがあるのに、先生たちは毎年ちゃんと面倒くさい。関数列の収束、極限の扱い、条件の抜き方、仮定の置き方。問題文は短いくせに、雑に読むとすぐ事故るタイプだ。私だけ特別メニューだと? 受けて立とう。


 私は椅子へ腰を下ろし、シャーペンを握った。


 問題文を一度読む。


 二度読む。


 条件を書き出す。


 途中で、ここの仮定の置き方は少し意地悪いな、と思う。そこから先は少しだけ早くなる。手が動き始めると、余計な雑音はだいたい消える。頭の中の棚が、ひとつずつ決まった位置へ戻っていく感じがする。紙の上へ記号を置き、矢印を引き、使える条件とまだ触らない条件を分けていく。その作業をしている間だけは、外の雪も、下の階の鍋の匂いも、少し遠くなる。


 そういう時間は嫌いじゃない。


 たぶん、私は考えることそのものより、「散らかったものが整理されていく感じ」が好きなのだと思う。数学もそうだし、相場もそうだ。形の違うものを、同じ引き出しへ入れたがる癖がある。ばらばらに見えるものへ仮の名前をつけ、似ているものを寄せ、違うものを分ける。そうすると、頭の中のざわざわが少し落ち着く。


 だから机の右端には、学校の課題のすぐ横に、相場メモのノートが開いていた。


 指数の動き。


 オプションのメモ。


 ボラティリティ。


 期近と期先。


 パパンから聞いた言葉を、自分なりに分類し直した断片。学校の友達に見せたら、また「アユミそれ何のノートなの」「授業ノートより文字ちっちゃくてキモい」と笑われるやつだ。


 でも、あれは笑われても仕方ない。


 自分で見返しても、ちょっと変だと思う。分類軸が細かすぎるし、注釈が多いし、図まで描いてある。条件を書き出して、矢印を引いて、横に「前提」「変化」「例外」「保留」なんて小さく付けている。学校の板書を写しただけのノートより、よほど怪しい。投資家の手帳というより、何かの攻略メモみたいになっている。


 とはいえ、ああして整理しないと頭に残らないのだから仕方がない。


 ただ読むだけだと、情報は流れていく。


 目で追っただけの数字は、次の日にはだいたい薄くなる。問題文も、チャートも、古文の助動詞も、分かったつもりのまま放っておくと、すぐに頭の中で形を失う。見た瞬間には分かっていたはずなのに、次に開いた時には「あれ、これ何だっけ」になる。あの感じが、私はかなり嫌いだった。


 でも、自分で書くと少し違う。


 線を引く。条件を囲む。矢印を置く。似ているものを横に並べる。違うものを別の棚へ分ける。


 そうすると、ただ見ただけの情報が、ようやく「使える形」になる。頭の中に直接入れるというより、一度手元に置いて、形を変えてからしまい直す感じだ。だから私は、理解したいものを一度、手の届く形に変えないと落ち着かないのだと思う。


 私は一度だけスマホの画面をつけた。


 友達のグループに、夕方のメッセージがまだ残っている。


『アユミまたノート見せて笑』


『お前それ受験生のノートじゃなくて投資オタのメモ帳だべ』


『古文のも見せて』


『いや自分でやれって話なんだけど』


 思わず口元が少し緩んだ。


 そのあとに、自分で打った返事も残っている。


『分類した方が早いだけだし』


『あと勝手に人のノート漁るな』


『キモいとか言うな、合理性の結晶だわ』


 送った時はむっとしていたのに、読み返すと少し可笑しい。


 キモいは余計だけど、合理性の結晶はわりと本気だった。私はそういうところがあるんね。気に入った整理法を見つけると、そこへ全部寄せたくなる。


 人の話を聞いていても、途中で勝手に頭の中でラベルを貼り始める。説明を聞きながら、「それは前提」「それは例外」「それは感情」「それは保留」みたいに分けてしまう。相手がまだ話しているのに、途中で分類棚を作り始めるから、たまに聞き逃す。そこは自覚している。自覚しているけれど、やめられるかと言われると、ちょっと怪しい。


 それが便利だと言われる時もあるし、変だと言われる時もある。


 どっちも分かる。


 このへんが「学年首席級」とか言われる理由なのだろうな、と冷めた気持ちで思う時もある。成績はかなり良い。推薦も取った。地元に残る前提の進路も押さえた。


 北海道から遠くへ出る道だってあった。けれど、私は地元志向が強かった。無理して知らない街で消耗するより、根を張れる場所でちゃんとやる方が性に合っていたんね。雪も、冬支度も、家の空気も、あずましい場所も、私はたぶん簡単には手放せない。新しい場所で一から勝負するより、知っている土地で足場を固める方が向いている。


 賢い。


 要領がいい。


 将来設計が早い。


 周りはそう言う。


 でも、私は自分を天才だとはまったく思っていない。むしろ、できないことを増やさないように先回りしているだけだ。推薦を先に押さえたのもそう。地元に残る道をちゃんと作ったのもそう。全部、失点を減らすための管理みたいなものだ。


 得点を派手に取りにいくより、落としたらまずいところを先に潰す。


 締切から逆算する。


 出せる形へ持っていく。


 迷ったら、今やること、後でやること、捨てることに分ける。


 そういうやり方が、たぶん私には合っている。


 その時、戸が半分だけ開いた。


「姉ちゃん」


 弟だった。


「また変なノート見てる」


「課題やってる」


「それ解析学の本で隠してるだけで、下ほとんど相場メモだべ」


「うるさい。見えてるなら黙って閉めて」


 弟はけらけら笑って部屋へ入ってきた。


 中三。高校受験も控えているくせに、妙に余裕のある顔をしている。ゲームのやりすぎで寝不足のくせに成績はそこそこ上位、みたいな腹立つタイプだ。本人はたぶん、焦っていないわけではない。焦るべきタイミングを、ぎりぎりまで後ろへずらしているだけだ。そういうところが余計に腹立つ。


「そのノート、また友達に見せたら笑われるやつじゃん」


「見せんし」


「いや前も見せてたべ。『アユミまた何か分類してるんね』って」


「見せろって言われたから見せただけだし。自分でやれって話なんだわ」


「姉ちゃんのその、めんどくさいけどちょっと便利なとこ、皆頼るっしょや」


「他人事みたいに言うなし」


 弟は机の端に置いてあったゲーム機のコントローラーを指先でちょした。


「これ投げといていい?」


「それ捨てるって意味じゃないからね。道産子弁を都合よく使うな」


「え、通じるべ?」


「通じるけど、通じるからってやっていいわけじゃない」


 そこで弟が、私の相場メモを覗き込んだ。


「うわ、また線引いてる。姉ちゃんってさ、結局ぜんぶ手で覚えてるよね」


「は?」


「見て、書いて、線引いて、また書いて。ゲームで言うなら、指に覚えさせてるみたいなやつ」


「その言い方ちょっと嫌」


「でも分かるっしょ」


「分かるのが嫌なんだわ」


 弟はにやっとした。


「格ゲーもそうだよ。頭でコマンド覚えてても、実戦だと出ないんだって。何回もやって、指が勝手に動くくらいにしないと」


「勉強と必殺技を同列にするな」


「姉ちゃんだって相場メモに必殺技みたいな名前つけてそう」


「つけてない」


「ほんとに?」


「……つけてない」


「今の間は何?」


「うるさい」


 弟は楽しそうに笑った。


 たしかに、少しだけ心当たりはある。


 必殺技みたいな名前はつけていない。そこは本当だ。少なくとも人に見せられない名前はつけていない。けれど、似たような条件の動きをひとまとめにして、勝手にラベルを貼ることはある。


 上げたように見えて、実は逃げ場を探している形。


 動いていないようで、力だけ溜まっている形。


 損切りした方がいい場所。


 待った方がいい場所。


 そういうものに名前をつけると、頭の中で扱いやすくなる。


 名前があると、取り出しやすい。


 図があると、思い出しやすい。


 手を動かしておくと、次に似た形を見た時、頭より先に「あ、これ」と引っかかる。


 弟の言う「指が覚える」は、言い方としては雑だ。


 でも、完全に間違っているとも言い切れないのが、ちょっといずい。


「ていうか、アンタこそ勉強にもその入力最適化を使えばいいしょや」


「勉強はコマンドじゃないもん」


「いや、英単語とか古文とか、ほぼ反復入力だべ」


「姉ちゃん、そういうところが勉強ガチ勢」


「受験生に言われたくない」


「必要になったらやるし」


「その台詞で本当に間に合わせるの、なまら腹立つんだけど」


「才能かな」


「努力しろ」


「姉ちゃんのノート貸して」


「結局それかい」


 弟は悪びれもせず肩をすくめた。


 私はため息をつきながら、古文用のまとめノートを一冊引き出しの上へ出した。


「見るだけね。写すなら自分で考えながら写しな。丸写しは意味ないから」


「分かってるって」


「分かってない顔してる」


「姉ちゃん、顔で判断しすぎ」


「ママンほどじゃない」


「それはそう」


 その瞬間、居間の方からママンの声が飛んできた。


「ごはん前に姉ちゃんちょすんでないよー!」


「ちょしてないって!」


「声で分かるのさ!」


 弟が舌を出して逃げる。


 私はペン先を紙へ戻しながら、小さく息を吐いた。こういうやり取りはいつものことだ。いつものことなのに、妙に耳へ残る夜だった。


 少しして、今度はパパンが戸を軽く叩いた。


「入るぞー」


 その言い方だけでもう入ってきている。


 四十二歳。背はそこそこ、お腹は出ていない。営業職でも投資家でもないくせに、相場の話になると目の色が少し変わる人だ。株、FX、オプション、経済ニュース、決算、海外市場。そういうものを、生活の地続きの話として口にする。


 漫画も普通に読む。妙に教養が広くて、妙にくだけていて、でも娘の机の上はちゃんと見ている。


 そういう人だ。


「アユミはまた微妙な気分転換してんな」


 私の相場メモへ目を落として、半笑いで言う。


「これ気分転換」


「解析学の横にオプションメモ置いてるの、世間一般には気分転換って言わんしょや」


「私にはなるの」


「ほんとかあ?」


 パパンは机の隅のメモを摘まんだ。


「お、これこの前のボラのメモか。よくまとまってるな」


「勝手に見るなって」


「勝手にって言うけど、机の上に開いてあるべさ」


「開いてても見るな」


「なんもなんも。褒めてんだって」


 そう言って、パパンはメモを元の位置へ戻した。


「アユミはこういう条件整理ほんと好きだな」


「好きっていうか、散らかってる方がいずいだけ」


「その感覚で人生も整理できたら楽なんだけどな」


「パパンが言うと説得力ないな」


「ひどい」


 言いながらも、ちょっと嬉しそうなのが腹立つ。


 パパンは私のメモの端を指で軽く叩いた。


「でも、これは悪くないぞ。相場でも漫画でも、結局は条件だ。何ができるかより、どの条件でそれが使えるか。そこを間違えると、強いものでも簡単に負ける」


「また漫画と相場混ぜてる」


「混ぜてない。世の中だいたい似たようなもんだ」


「雑」


「雑じゃない。抽象化だ」


「便利な言葉使った」


「使える言葉は使うんだよ」


 その言い方があまりにパパンらしくて、少し笑ってしまった。


「ごはんできるぞ。今日はあったかいのだ」


「今行く」


「五分な」


「三分」


「二分だと?」


「課題の区切り」


「はいはい、秀才様」


 その「秀才様」が少しむずがゆい。


 別に嫌いではない。でも家族にそう言われると、褒められているのか、からかわれているのか分からない。


 パパンが出て行ったあと、私はシャーペンを一度だけ机へ置いた。


 秀才、か。


 たしかに学校ではそう見られているのかもしれない。成績はかなり良い。学年首席くらい盛っても、事実からそこまで離れない位置にはいる。推薦だって取っているし、地元志向が強かったのもある。


 わざわざ遠くへ出て、自分をすり減らすより、根を張れる場所でちゃんとやる方が私には向いていると思った。そういう意味では、要領はいい方だと思う。


 でも、頭がいいことと、人間として出来がいいことは別だ。


 私は人の話を最後まで聞くのがそこまで得意じゃないし、妙なところで頑固だし、気に入った整理法があるとそこへ寄りたがる。友達に「アユミまたノート作ってる」「その細かさ推せるけどキモい」と笑われるのも、だいたいそういうところだろう。


 少しむっとして、少しだけ笑う。


 キモいは余計だべ。


 でも推せるって言われたなら、まあ、そこは良しとするか。いや、良くないけど。


 私はノートを閉じた。


 階下から、鍋の湯気に混じるようなママンの声がもう一度上がってくる。


「アユミー、ごはん冷めるよー!」


「今行く!」


 返事をして、椅子から立ち上がる。


 机の上には、解析学の途中式と、相場メモと、古文のまとめと、弟に出したノートと、食後に食べるつもりのみかんがまだ二つ並んでいた。


 全部ばらばらに見える。


 でも、私の中では、どれも同じだった。


 見て、書いて、線を引いて、名前をつける。


 そうすれば、少しだけ世界が扱いやすくなる。


 そのくらいのことを、私は当たり前だと思っていた。


③ 食卓と、土の記憶


 私はノートを閉じ、居間へ下りた。


 階段を下りる途中で、湯気の匂いが少し濃くなる。さっき二階で嗅いだ時より、塩の輪郭がはっきりしていた。玉ねぎの甘さ、肉の旨味、きのこの深い匂い。そこに根菜のほくっとした気配が混じっている。牛乳っぽい丸さは薄い。やっぱりポトフ寄りだ。しかも、たぶん具が多い。台所の方から流れてくる匂いだけでそこまで考えている自分に、少し呆れる。けれど、食べ物の匂いは情報量が多い。温度も、塩気も、鍋の中で何が先に火を通されたかも、全部ではないにしても、少しだけ分かる時がある。そういうことを言うと弟にまた「評論家」と言われるから、普段はあまり口にしない。


 居間へ入ると、食卓にはもう大きめの鍋が置かれていた。


 鍋の中には、じゃがいも、人参、玉ねぎ、きのこ、葉物、それに肉がごろっと入っている。澄んだスープなのに、表面にうっすら脂が浮いていた。薄味に見えて、ちゃんと塩気が立っていそうなやつだ。横には焼いたパンと、小さな皿に盛られた温野菜。外の雪を窓越しに見たあとだと、湯気そのものがごちそうに見える。暖房のぬくさと鍋の湯気は少し違う。暖房は部屋を満たすけれど、鍋の湯気は人の方へ来る。顔に当たって、匂いを連れて、さっきまで机の上で散らかっていた頭を食卓の方へ引っ張ってくる。


「しゃっこいの飲んだあとだと、これなまら美味しそう」


 つい口に出た。


「しょ。だから今日は塩気ちょい強めにしたの」


 ママンが鍋の蓋を片手で持ったまま、少しだけ得意げに笑う。


「バレた?」


「顔で分かる」


「なしてそこまで分かるの」


「母だから」


「便利すぎるしょ」


「便利よ。したっけ、座る前に手ぇ洗って。あと髪、片側はねてる」


 大声ではないのに、妙に逆らえない声だった。弟はもう席についていて、パンへ手を伸ばしかけている。ママンが「まだ」と言っただけで、その手がぴたりと止まった。ゲームなら入力受付ぎりぎりでキャンセルしたみたいな止まり方だ。


「今の反応だけ無駄に速いんだよね」


「反射神経だから」


「勉強にも使いな」


「またそれ言う」


 弟が渋い顔をする。


 私は手を洗ってから席についた。椅子へ腰を下ろした瞬間、湯気が顔へ当たって、空腹がはっきり形を持つ。器へよそわれたスープの中で、じゃがいもの角が崩れずに残っていた。人参は皮の近くまで色が濃い。玉ねぎは半透明になって、スープの中で甘そうにほどけている。見た目は普通の夕飯なのに、ひとつずつ見ていくと、それぞれに来た場所があるのだと思う。スーパーの棚、近所の店、親戚や知り合いから回ってきたもの。うちの食卓は、そういう小さな道筋の終点みたいなところがあった。


「今日、おじさんとこから野菜来たの」


 ママンが言った。


「玉ねぎ、立派だったしょ」


「うん。あとじゃがいもも」


 私は器の中を覗き込んだ。


「おじさんとこのだと、やっぱり匂い違うんだよね」


 パパンがパンをちぎりながら、少し目を細めた。


「分かるのか」


「分かるべ。土の匂い強いもん。スーパーのと違う」


「お前、そういうとこ変に正確なんだよな」


 親戚のおじさん、と言っても、ひとりだけを指しているわけではない。うちはママンの顔の広さもあって、親戚や知り合いのつながりがやたら広かった。農家をしている人、畑だけ手伝っている人、地域の行事を仕切っている人、何かの体験会に顔を出す人。子どもの頃の私は、そういう大人たちの集まりに何度も連れ回された。収穫の時期に端っこで籠を持ったり、畑の脇でお茶を飲む大人たちの話を聞いたり、名前もよく知らない人から野菜を持たされたりした。正直、その時は退屈なことも多かった。けれど、土の匂いとか、葉の濡れ方とか、採れたての野菜を持った時の重さとか、そういう変な部分だけは妙に残っている。


 たぶん、知識というほど立派なものではない。ちゃんと農業を学んだわけでも、何かを一人で育てられるわけでもない。ただ、畑や野菜や地域の台所みたいな場所に、子どもの頃から少しだけ馴染みがあった。それだけだ。それだけなのに、食卓へ出た野菜を見た時、どこかで見た土の色や、大人たちが話していた天気の話が、ふっと頭の端へ戻ってくることがある。そういう記憶は、普段は引き出しの奥に入っていて、自分でも持っていることを忘れている。


「また手伝い来いって言ってたよ」


 ママンが人参を私の器へ足しながら言った。


「受験終わったらね。あんたなら使えるし」


「使えるって言い方やめて」


「だって使えるんだもん」


 弟がそこで笑った。


「姉ちゃん、畑行くと意外とちゃんと働くしな」


「意外って何」


「家だと机と仲良しなのに」


「机と仲良しは意味分かんない」


「でも、そういうとこ行くと急に観察しだすべ。土とか葉っぱとか見てさ」


「理屈が分かりそうなものは気になるだけ」


「出た」


 パパンがスープを一口飲んでから笑った。


「アユミほんと、理屈が通ると急に機嫌良くなるよな」


「通らないものが気になるだけなんだわ」


「それ相場向いてるわ」


「褒めてないべ、それ」


「褒めてる褒めてる。相場も畑も、雑に見えるものほど中の流れがあるんだよ」


「また混ぜた」


「抽象化だって」


 パパンは懲りない。相場、漫画、畑、料理。何でもいったん大きな棚に入れたがる。私の分類癖は、たぶんかなりの部分でこの人から来ている。認めたくないけど、かなり来ている。けれど、ママンから来ているものもあると思う。ママンは分類というより、場の流れを見る人だ。器の減り方、人の顔色、誰が何を食べたがっているか、残ったものを次にどう回すか。そういうものを、いちいち説明せずに見ている。


 ママンはスープを配りながら、さらっと言った。


「流れで言えば、残った野菜は明日の朝に回せるね。スープごと少し取っておけば、パンにも合わせられるし」


「また何か別料理になるやつ?」


「なるやつ。食べ物は、最後まで使った方が気分いいしょ」


「ママン、そういうの好きだよね」


「好きというか、もったいないの嫌いなの」


 そう言いながら、ママンは弟の皿へ視線だけを向けた。


「パン、まだ取らない」


「まだ何もしてない」


「顔がしてる」


「顔って何」


「取る顔」


 弟がむっとした顔で手を引っ込める。私は少し笑った。


 ママンは、昔から顔が広くて、多趣味で、どこかへ誘われるとわりと軽く出かける人だった。ママ友達同士でちょっと遠くの店へ行ったり、地域の体験会みたいなものに顔を出したり、スポーツの集まりに参加したりする。そして、なぜか私も何度か付き合わされた。子どもの頃は、大人たちが楽しそうに喋っている横で、配られた紙を眺めたり、言われるままに何かを混ぜたり、切ったり、並べたりしていた。その時は退屈だったくせに、変なところだけ覚えている。食材を余らせないこと。先に火を通すものと、後から入れるものがあること。同じ材料でも、切り方や順番で味が変わること。大人たちは雑談しているようで、意外と手元を見ていること。


 そういう細かい記憶は、普段ほとんど使わない。だから私も、自分が覚えていること自体をあまり意識していなかった。でも、匂いを嗅いだり、鍋の中を見たりすると、たまに勝手に引き出しが開く。あ、これは先に炒めたんだ。これは煮崩れないように後から入れたんだ。これは明日に回せるやつだ。そんなふうに。たぶん、私は自分で思っているよりずっと、家の中と外の小さな体験に育てられている。


「アユミは昔からそういうの、横で見てるだけの顔して全部覚えてるからね」


 ママンが言う。


「おもちゃも棚もノートも、全部分類してたしょ」


「いや、あれは皆ぐちゃぐちゃに入れすぎなんだって」


「でも今もやってるし」


 弟がすかさず言った。


「姉ちゃん、ゲームやらせても技表まとめるタイプだもんな」


「それは強くなるのに必要だしね」


「普通は先に遊ぶ」


「それで負けるなら、最初から整理した方が早いべ」


 弟が変な顔をした。


「こわ」


「それ、引いてる方のこわいだよね?」


「うん」


 皆が少し笑った。


 食卓は、いつも通りの温度だった。賑やかすぎるわけでもないし、静かすぎるわけでもない。誰かが話し、誰かが返し、そのあいだに鍋の湯気が上がって、パンをちぎる音がする。ママンが器の減りを見て、パパンが妙な例えを出して、弟が横から茶化す。私は文句を言いながら、それを聞いている。窓の外はしばれる夜で、家の中は暖かくて、食卓の上には親戚や知り合いから回ってきた野菜があって、誰かの手で作られた料理がある。


 普通の家の、普通の夜だ。


 普通だった。


 その時までは。


 食後、ママンがみかんを二つ、籠から転がしてよこした。


「はい、秀才の糖分」


「糖分ならチョコの方が効率よくない?」


「でも、あんたチョコそんな好きじゃないしょ」


「嫌いではないけど」


「好きではない」


「……うん」


 私は降参して、みかんの皮へ爪を立てた。薄い皮がぱりっと裂けて、柑橘の匂いが一気に広がる。やっぱり落ち着く。この匂いは、頭の奥の変な熱を少し引かせる。チョコも一口なら嫌いではない。でも、たくさんはいらない。甘さが口に残り続ける感じが、少し重たい。みかんやオレンジみたいな酸味のある甘さは、頭の棚をいったん閉じる時にちょうどいい。


「みかんは好き」


「知ってる」


 ママンが即答する。


「ちっちゃい頃から、他のおやつよりそればっか食べてたしょ」


「あとオレンジも」


「グレープフルーツもだべ」


 弟が口を挟む。


「姉ちゃん、柑橘だけは妙にうるさいもんな」


「うるさくない。差があるだけ」


「出た、評論家」


 みかんを一房口へ入れる。酸味が先に立って、そのあとできちんと甘い。甘すぎない。冬の暖房で少しぼんやりした頭に、皮をむいた瞬間の香りがすっと通る。しばれる夜には、こういう味の方が落ち着く。


 ママンが片づけに立ち、パパンが器を流しへ運び、弟が最後のパンを食べてまた怒られる。私はみかんの白い筋を指で取りながら、その全部を何でもないことみたいに眺めていた。何でもないことだった。少なくとも、その時の私はそう思っていた。


 片づけのあと、私は自室へ戻った。


 階段を上がる途中で、下から洗い物の音が聞こえる。金属と陶器が軽く触れ合う音。水道の流れる音。ママンの声。パパンの笑い声。弟がまた何か余計なことを言っている気配。冬の家の夜は、外が静かなぶんだけ、中の生活音がよく分かる。


 ドアを閉めると、その音が少し遠くなった。


④ 夜の整理と、白い輪


 ドアを閉めると、その音が少し遠くなった。


 下の階では、まだ洗い物の音がしている。金属と陶器が軽く触れ合う音。水道の細い流れ。ママンが何かを言って、パパンが笑って、弟がそこへ割り込む気配。言葉の中身までは聞き取れないのに、誰がどんな顔で喋っているのかは何となく分かる。冬の家は、外が静かなぶんだけ中の生活音がよく残る。窓の向こうでは雪が降っていて、部屋の中には暖房のぬくさがある。指先には、さっきむいたみかんの匂いがまだ少し残っていた。


 私は机の前へ戻り、椅子へ腰を下ろした。


 学校から帰って、結局着替えそびれたままの制服だった。夕飯の時もそのままで、足元だけは家の中のルームスリッパになっている。さっきまでは少しも気にしていなかったけれど、椅子の背にかけっぱなしの赤いマフラーを見ると、外と中の境目だけがそこへ残っているみたいだった。雪の匂いはもうほとんど消えている。でも、マフラーの端にはまだ玄関の冷えがほんの少しだけ残っていそうで、私は手を伸ばしかけて、やめた。


 食後の身体は少しだけ重い。けれど、頭だけはまだ片づいていない。課題、相場メモ、友達のメッセージ、ママンの鍋、パパンの雑な抽象化、弟の「指が覚える」発言。全部が同じ部屋の中で、まだ少しずつ動いている感じがした。


 こういう時は、書いた方が早い。


 私はノートを開き、今日の整理を軽く書き始めた。


 解析、あと少し。


 相場メモ、条件整理だけ見直し。


 今日の野菜、やっぱり土の匂い強い。


 弟、受験生のくせに余裕ありすぎ。


 パパン、また雑に褒める。


 ママン、全方位でつよい。


 自分、眠いくせに頭だけ散る。


 みかん、推せる。


 そこまで書いて、自分でちょっと笑った。


 こういう、誰に見せるわけでもない整理をしないと、頭の中の棚が閉まらないのだ。勉強のこと、進路のこと、友達のこと、相場のこと、家族のこと。全部同じ引き出しへ突っ込んだままだと、寝る前だけ妙に散らかる。だから少し書く。少しだけ頭の中を整える。たぶん、私にとっての一日の終わりは、歯磨きより先にこの作業なのだと思う。


 スマホが震えた。


 今度は個別メッセージだった。


『アユミ、明日学校寄る?』


『行く』


『ついでに古文のノート見せて』


『また?』


『また』


『自分でやれ』


『そこを何とか』


 私は一度だけ鼻で笑って、返事を書きかけてやめた。


 明日。


 明後日。


 来週。


 そういう言葉を、私は疑っていなかった。


 地元に残る。推薦も取った。家から通える。必要なら一人暮らしもあとで考えればいい。進路については、ずいぶん前からそういう形で整理していた。整理していたはずなのに、実際の私はその「先」の生活をそんなに具体的には思い描いていない。きっと、いまここにあるものがそのまま少しずつ続いていくのだと、どこかで勝手に思っていたのだ。朝になれば下から声がして、雪が積もっていたら玄関で靴を選んで、課題を持って学校へ寄って、友達に文句を言いながらノートを見せる。そういう明日を、疑う理由なんてなかった。


 その甘さを、自分ではちゃんと分かっていなかった。


 机の隅に置いたみかんの皮から、まだ柑橘の匂いが少しだけ残っている。私はその匂いが好きだ。甘すぎるものは得意じゃない。チョコも、ひと粒ふた粒ならいいけれど、たくさんは要らない。けれど、みかんとかオレンジとか、そういう酸味のある甘さは妙に落ち着く。勉強して頭が熱くなった時も、考えすぎて少し煮詰まった時も、皮をむいた瞬間の匂いだけで一回頭の棚が閉じる感じがある。


 そういう、しょうもない自分の好みまで含めて、今日はなんだか家の中の輪郭がやけに濃かった。


 たぶん、ただの冬の夜だったからだ。


 特別なことなんて何もない。進学校の課題と、少しだけ癖のある家族と、親戚や知り合いから回ってきた野菜と、食後のみかんと、王冠を被った妙なデカ猫。


 変なものは、最初から少し混じっていた。


 その時だった。


 足元で、アーミヤが鳴いた。


「ん?」


 振り向くと、茶橙色の大きな長毛猫が、いつの間にか机の脚のそばへ座っていた。堂々としていて、甘えたい時だけ寄ってきて、嫌な時は露骨にしっぽを振る、相変わらず偉そうな猫だ。毛はふわふわで、顔は丸くて、目は妙に賢そうで、態度だけは家族の誰よりも偉い。


 しかも、猫としてはかなり大きい。


 大きい、という言葉で済ませていいのかも微妙なくらいだ。体長は一メートル近くある。抱き上げると、なまら重い。十キロは軽く超えているし、毛量込みで腕に乗せると、大きい米袋を抱えるより厄介に感じる時もある。米袋は中身が動かない。でもアーミヤは違う。前足で踏ん張るし、胸へ体重を預けてくるし、気に入らないと全身で拒否する。重さの中心が勝手に動く生き物なのだ。


 今はもう十一歳くらいで、猫としてはシニアに入っている。昔より少し丸くなったというか、全盛期よりは動きの角が取れた気がする。それでも、普通の猫として見るには十分すぎるほど大きい。初めて見る人には、たいてい一度は「でかっ」と言われる。


 そしてその頭には、いつ見ても意味の分からない小さな王冠が、きちんと乗っていた。


 うちに来た時からそうだった。取っても戻る。外しても、気づけばまた乗っている。最初のうちは家族全員で「何これ」と騒いだ。ママンは「なにこれ、コスプレ?」と笑い、パパンは「磁石とか仕込まれてんのか」と裏返して調べ、弟は「バグ猫じゃん」と腹を抱えていた。


 笑い話で済むなら、まだよかった。


 でも、あれは本当は笑い話ではない。


 王冠は接着されているわけではないのに落ちない。外しても戻る。寝ている間に外して別の部屋へ置いたこともあるのに、朝にはまたアーミヤの頭に乗っていた。家族で写真を撮って確認したこともある。パパンが何度も触って、重さや形を調べようとしたこともある。けれど、結局よく分からなかった。


 馴染みの病院へ連れて行った時もそうだった。


 獣医さんは、最初にアーミヤの身体の大きさを見て目を丸くした。そのあと、頭の王冠を見て、もう一度目を丸くした。診察台に乗せるだけでも一苦労で、看護師さんが「ここまで大きい猫ちゃんは初めてです」と言いながら笑っていたけれど、その笑い方には少し困惑が混じっていたと思う。体重計の数字を見て、パパンが「やっぱ重いな」と呟き、ママンが「うちの子、大きいのよねえ」で済ませようとして、弟が「王様だから」と余計なことを言った。


 獣医さんは王冠を見て、一度だけ小さく首を傾げた。


「……装飾品、ですか?」


 たしか、そんなふうに聞かれた。


 でも、それ以上の追求にはならなかった。検査も、相談も、紹介も、何か大きな話にもならなかった。アーミヤの体格も、王冠も、本来ならもっと真剣に扱われてもよさそうなのに、なぜかそこから先へ進まなかった。


 今考えると、あれも変だ。


 この時代なら、写真ひとつでどうにでも広がる。体長一メートル近くある王冠付きの巨大猫なんて、SNSに上げれば知らない人が勝手に騒ぎそうなものだし、下手をすればメディアとか、猫好きの人たちとか、よく分からない専門家まで寄ってきてもおかしくない。なのに、そうはならなかった。家族も、獣医さんも、周りの人も、一度は驚く。けれど、しばらくすると「そういう猫」として流してしまう。


 どう考えてもおかしい。


 なのに、おかしいと思い続ける方が難しかった。


 毎日見ていると、慣れる。慣れてしまうのが一番怖いのかもしれない。私も最初の数日は気になって仕方なかったのに、今では「王冠付きのアーミヤ」としか認識していない。変だとは思う。でも、その変さが生活へ馴染みすぎていて、そこだけ別の何かへ繋がっているかもしれないなんて、そんな発想までは一度もしたことがなかった。


「なしたの、アーミヤたん」


 呼ぶと、しっぽの先だけが小さく動く。


 聞いてるけど今忙しい、みたいな反応だった。


「変な猫」


 そう言いながら、私はノートへ視線を戻しかけた。


 そこで手が止まった。


 机の上の端。


 さっきまで何もなかった紙の上に、薄い光があった。


 最初は照明の反射かと思った。


 スマホの画面が点いたのかとも思う。


 でも違う。


 光は紙の上に平たく乗っているのに、反射みたいに頼りなくはなかった。丸い。いや、丸いように見えて、よく見るといくつかの細い輪が重なっている。数式の図みたいでもあり、古い紋章みたいでもある。魔法陣、という言葉が一瞬だけ頭をよぎった。でも、そう呼んでいいものなのかは分からない。線は細いのに、そこにあることだけは妙にはっきりしていた。


「……はい?」


 思わず声が出た。


 疲れ目かと思って瞬きをする。消えない。


 スマホのライトでもない。


 紙が発光しているわけでもない。


 なのに、そこに何かある。


 私は椅子へ座ったまま、少しだけ身を乗り出した。


 輪の中には細い線がいくつも走っていた。幾何学の作図みたいに規則性がありそうで、でも次の瞬間にはその規則から少しだけ外れる。見れば見るほど、単なる模様ではない感じが強くなる。同じ形が繰り返されているようにも見えるし、どこかで意図的に崩されているようにも見える。完全な円ではない。けれど、雑な図でもない。


 数式みたいだ、と思った。


 でも数式なら、途中でこんなふうに脈打たない。


 生き物みたいだ、と思った。


 でも生き物なら、こんなに整いすぎていない。


「いや、ちょっと待って」


 私は小さく呟いた。


「初回イベントにしては演出が強すぎるニュ……」


 言ってから、自分で何を言ってるんだと思う。怖いのに、頭の半分はまだ解析しようとしている。怖いからこそ、理屈へ落としたいのだ。何か名前をつければ少し落ち着く。仕組みがあると思えれば、まだ見ていられる。そういう悪い癖が、こんな時にまで出てくる。


 その時、アーミヤの反応が変わった。


 耳が前へ向く。


 しっぽの先が小さく震える。


 一歩だけ近づいて、次の瞬間には低姿勢になる。


 威嚇ではない。逃げてもいない。嫌なものを見ているけど、私のそばは離れたくない。そんな感じだった。


 そして、その頭の王冠だけが、光を受けたわけでもないのに、ほんの一瞬だけ細く光った気がした。


「……今、光った?」


 アーミヤは答えない。


 代わりに、低く短く鳴いた。


 いつもの甘え声じゃない。確認するみたいな、嫌なものを見つけた時の声だ。


「アンタまでそういう反応やめて。なまら怖いべ」


 そう言っても、アーミヤの耳は戻らなかった。目は机の上の光から離れない。王冠はもう何もなかったみたいに、いつもの位置で静かに乗っている。


 私は机の上へ手を伸ばした。


 触っていいのか分からない。


 分からないのに、見ているだけの方がもっと嫌だった。


 指先が光の輪の上へ近づく。


 その瞬間、輪が大きく脈打った。


 光が広がる。


 アーミヤが、今まで聞いたことのない声で短く鳴いた。


 次の瞬間、机の上の白が、部屋じゅうへあふれた。


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