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第6話 後編 豆袋と、芋の皿 ③ 家へ戻る湯気

第6話 後編 豆袋と、芋の皿


① 共同炉へ運ぶ豆袋


② 切れ目芋と、小さな冷気


③ 家へ戻る湯気


④ 袖に残る火の匂い


【アユミ視点/異世界生活三日目・昼前〜夜】


③ 家へ戻る湯気


 ハンナさんは、その赤さを見てから、切れ目芋を並べた板を少しだけ火に近づけた。


 私は、その先を全部は見ていなかった。火床の前では、鍋も布も器も、私の知らない順番で動いている。見ているだけの私が、いつまでも火のそばに座っているわけにもいかない。エリナさんは私の指先をもう一度見て、「今日はもう冷やすのはおしまい」と念を押したあと、火床から離れた場所へ連れていった。ハンナさんは濡れ布を自分の手元へ戻し、私が少し冷やした端を、芋へ直接当てることはしなかった。


 それが、少しだけほっとした。


 役に立てた、というより、余計なことにならなかった安心の方が大きい。布の端が少し冷えた。それだけだ。共同炉の火は止まらないし、ハンナさんの手も止まらない。水に沈んだ豆は薄い布の下で静かに置かれ、切れ目を入れた芋は、火床から少し離した板の上に並んでいた。隙間には香草が入り、薄く塗られた脂が皮の上で光っている。


 外へ出ると、火のそばにいたあとだからか、空気が少し軽く感じた。冷たいわけではない。けれど、共同炉の赤さと湯気を見続けたあとでは、木陰から流れてくる風だけで、頬の表面が少し戻る。借り靴の中では足布がまだちょっこし、いずい。さっき座ったり立ったりしたせいで、指の付け根のあたりが微妙にずれている。でも、痛いほどではなかった。


 昼前から昼過ぎにかけて、私はエリナさんのそばで小さな用事をいくつか見た。手伝った、というほどのものではない。布を一枚持つ。空いた木皿を言われた場所へ戻す。水を足す人の通り道から、少し横へ寄る。そんなことばかりだった。けれど、豆袋が置かれる場所や、芋の水が跳ねる距離を見たあとだと、ただ端へ寄ることにも気を使う。


 意味がある、なんて大きく言うとまた変になる。


 実際には、私は邪魔にならない場所へ立とうとしていただけだ。今の私は、立つ位置を間違えないだけでも精いっぱいなんね。


 アーミヤは、共同炉の端からしばらく動かなかった。途中で一度、エリナさんが様子を見に行き、戻ってきて「堂々と待ってたよ」とだけ言った。何を待っているかは、たぶん全員分かっている。塩の入っていない鶏端肉。もしくは、それに近い何か。うちの王冠猫は、村でのごはん営業に関してだけは妙に筋がいい。


 なしたの、その交渉力。


 異世界三日目で、私より社会適応してるっしょ。


 夕方が近づく少し前、共同炉の匂いが変わった。


 最初に気づいたのは、私ではなくエリナさんだった。家の外で布の端を軽く叩いていたエリナさんの手が、ふと止まる。私も布の揺れを追うのをやめて、共同炉の方へ体を向けた。  煙の匂いだけではない。湯気に混じって、豆の匂いと、鶏端肉の薄い出汁の匂いが流れてきている。その奥に、芋の焼ける香りが少しだけあった。香草と脂が火に当たって、昼前に見た時よりずっと近い匂いになっている。


「そろそろ、受け取りに行くよ」


 エリナさんが言った。


「はい」


 返事をしながら、私は少しだけ緊張した。


 さっきまで見ていた豆と芋が、今度はトルヴァンさんの家へ戻るのだと思った。豆袋や芋籠のことまで一度に浮かびかけて、私はそれをいったん押さえた。村の人にとっては、これは今日の食事の一つだ。豆袋を見たのも、芋を洗うところを見たのも、私が初めてだっただけで、ハンナさんたちにとっては何度も繰り返している手順なのだろう。


 それでも、共同炉へ戻る足は少し早くなった。


 中へ入ると、熱と湯気が先に来た。昼前より人の動きは落ち着いているけれど、火のそばだけは忙しい。食べるために腰を落ち着ける場所、という感じではなかった。火床の前の台には、小さな鍋や木の器、布をかけた皿がいくつか並んでいる。それぞれに小さな札や目印がついていて、誰かが取りに来るのを待っているみたいだった。


 ここで腰を落ち着けて食べるわけではないらしい。  火床の前で整えられた器や鍋は、ひとつずつ布で受けられ、戸口の方へ向いていく。  そう思いかけて、私は靴底の下へ意識を戻した。大きくまとめない。今見えているのは、湯気の上がる鍋と、伏せられた器と、持ち手に布を巻かれた小鍋だけだ。


 ハンナさんは鍋の前に立ち、木匙で中を一度ゆっくり混ぜていた。鍋の縁には豆の薄い泡が少しつき、湯気が目の前を白く通る。その向こうで、切れ目を入れた芋が板の上に並んでいる。皮の表面は少しだけ濃くなり、切れ目の間から香草の細い葉がのぞいていた。脂が火を受けて、芋の皮をところどころ光らせている。


 まだ皿には乗っていない。


 でも、昼前の泥のついた芋とは違っていた。


 ハンナさんは鍋の中を見て、木匙を持ち上げた。豆が数粒、匙の先に乗る。乾いて硬そうだった粒は少しふくらみ、皮の色もやわらかく見えた。すぐに食べられるかどうかは私には分からない。けれど、袋の中でさり、と鳴っていた時の豆ではないことだけは分かった。


「トルヴァンの家の分、先に出すよ」


 ハンナさんが言った。


「頼むよ」


 エリナさんは、持ってきた布を台の端へ広げた。何も言われなくても、鍋を置く場所を先に作るらしい。私はその横で手を出しかけて、すぐに止めた。


 ちょしていい、じゃない。


 触っていいか、聞く。


「あの、私は何を持てばいいですか」


 ハンナさんは鍋から目を離さずに答えた。


「熱いものはまだ持たない。そこの黒パンの包みを、エリナの横へ寄せて。あと、皿には触らない」


「はい」


 黒パンの包み。


 それなら、たぶん大丈夫だ。


 私は台の端にあった布包みを両手で持った。まだ少し温かい。黒パンの皮の匂いが布越しに出ている。持ち上げると、思ったより重かった。汁の器でも芋の皿でもないのに、これも夕食の一部なのだと思うと、急に手の中の布包みがちゃんとしたものに見える。


 なまら単純だな、私。


 でも、落とさないように持つ。


 エリナさんの横へ置くと、彼女は一度だけ包みの位置を直した。台の端に近すぎたらしい。少し内側へ寄せられ、布の端が広げられる。私はそれを見て、手を引いた。


「そこならいい」


「はい」


 ハンナさんが、木の器へ豆の汁をよそった。


 汁は、朝のものより少し濃く見えた。濃いと言っても、どろりとしているわけではない。豆と小さくほぐれた鶏端肉、細く切られた根菜らしいものが、湯気の中で揺れている。塩気は強くなさそうだが、鶏端肉の戻し汁か薄い出汁が入っているのか、香りに少し丸みがあった。霜香草か、似た香草がほんの少し浮いている。鼻の奥がわずかにしゃっこくなる匂いが、豆の重さを少し軽くしていた。


 ハンナさんは、よそった汁をすぐに渡さなかった。


 器の縁を布で拭い、熱さを見るように一度だけ手の甲を近づける。次に、小さな木の蓋を乗せ、その上からさらに薄い布をかけた。湯気が布の端から少し逃げる。白い息みたいだった。


「熱い。アユミはこれは持たない」


「はい」


「エリナ、こっち」


「分かった」


 エリナさんは両手に厚い布を巻き、豆の汁の器を受け取った。手の置き方に迷いがない。私は横で見ているだけなのに、肩に力が入った。器の中で汁が少し揺れる。蓋の下で、豆が器の縁に当たったのか、小さな音がした。


 その横で、別の皿に切れ目芋が置かれる。


 ハンナさんは、芋を一つまるごとではなく、少し小さく切って、家で分けやすいように皿へ並べた。切れ目の入った部分が開き、香草と脂の匂いが立つ。白っぽい中身は、外側よりやわらかそうだった。皮の近くは少しだけ色が濃く、焦げというほどではないけれど、火に当たった跡がある。


「こっちは少し冷ましてある。でも切れ目の間に脂が残ってるから、急に触らない」


「はい」


「これはアユミが持ってもいい。両手で。傾けない。布の端を下へ入れて」


 持ってもいい。


 一瞬だけ、心臓が跳ねた。


 いや、皿を持つだけだ。


 でも、今日の私は豆袋も水桶も芋も濡れ布も、いちいち止められていた。持ってもいいと言われるだけで、なんだか少し緊張する。


 ハンナさんが皿の下に布を一枚入れた。私はその布ごと、切れ目芋の皿を受け取る。熱すぎるほどではない。けれど、皿の底からじんわり温かさが伝わる。さっき布を少し冷やした指先が、その温かさに触れて少しだけ変な感じがした。冷たさの跡と皿の熱が、指の中でちょっとぶつかったようだった。


 皿、あったかい。


 いや、当たり前なんだけど。さっきまで冷えた布の端を触ってた指には、なまら分かるんね。


「大丈夫かい」


 エリナさんが聞いた。


「大丈夫です。両手で持てます」


「足元を見て。芋は逃げない」


「はい」


 芋は逃げない。


 そうなんだけど、こっちは転びそうで怖いんです。


 私は切れ目芋の皿を持ったまま、足元を見た。借り靴の中では足布が少しずれている。痛いほどではない。でも、器を持つと、さっきより気になる。足布、今は主張しないで。ほんと今じゃないっしょ。


 アーミヤ用の小皿も用意された。


 人間用の豆の汁とは別だった。小さな木皿に、塩を抜いたらしい鶏端肉がほぐしてある。少しだけぬるい薄出汁がかかっていて、湯気はほとんど立っていない。香草も見えない。人間の器と並ぶと、ちゃんと別物だと分かる。


 アーミヤは、自分の皿が出る前から、前足をきちんとそろえていた。鼻先だけが、鶏端肉の小皿の方へ残っている。  なしたの、その待機姿勢。  完全に「私の分ですね」って座り方してるっしょ。


 ハンナさんが皿を置く前に、エリナさんが一度私を見る。


「これはアーミヤの分。人の汁はだめだよ。塩も香草も入ってる」


「はい。ありがとうございます」


「猫にまで豆の汁を分けたら、あとでお腹を壊されても困るからね」


 エリナさんはそう言って、アーミヤ用の皿を別の小さな布に乗せた。


 アーミヤはすぐ食べられると思ったのか、鼻先を少し近づけた。 「家で」  エリナさんが短く言う。  アーミヤの耳が動いた。  聞いてる。  絶対、分かってる。  でも、前足はそろえたままだ。鼻先だけが、まだ小皿の方へ残っている。かなり本気だ。


「アーミヤ、戻ってからだよ」


 私が小声で言うと、アーミヤは尻尾を一度だけ動かした。


 返事なのか、抗議なのか、微妙。


 シアが、その様子をじっと見ていた。


「アーミヤ、持って帰るの?」


「うん。家で食べるんだって」


「えらい」


 シアは真面目にそう言った。


 えらい、なのか。


 アーミヤは何も答えない。王冠をつけたまま、塩抜き鶏端肉の小皿を見ている。えらい猫というより、待たされている猫だった。


 ハンナさんは、トルヴァン家の分を台の上で確認した。


 豆の汁の器。


 切れ目芋の皿。


 黒パンの包み。


 アーミヤ用の小皿。


 それぞれ布の置き方が違う。熱いものは厚い布。傾けたくない皿は下から支える布。黒パンは包みを閉じる布。アーミヤの分は、人間用と間違えないように少し離した布。見ているだけで、頭の中にまた札が増えそうだった。


 家へ持ち帰るだけで、こんなに分けるんね。


 ほんと、今日の私は分けるものに追われている。


「アユミは芋の皿。重くなったらすぐ言いな」


 エリナさんが言った。


「はい」


「無理して持ち続けない。熱さも、重さも、足も、変だと思ったら言う」


「はい。変だと思ったら言います」


「それでいい」


 たぶんは抜き。


 そう言われたわけではないのに、私は自分でそう思った。今は「たぶん大丈夫」ではなく、大丈夫かどうかを手と足で見ながら歩く場面だ。


 ハンナさんは、最後に豆の汁の蓋を少し押さえた。


「これは家へ着いたらすぐ開けない。台へ置いて、少し落ち着いてから。蓋を急に取ると湯気が顔に来る」


「分かったよ」


 エリナさんが頷く。


「芋は?」


「皿の端が熱い。アユミが持つなら、途中で一度持ち替えさせてもいい」


「分かった」


 私の皿までちゃんと話に入っている。


 皿一つ持つだけなのに、なまら見られている。


 でも、見られているから安心でもある。勝手に持って、勝手に熱くて、勝手に落とすよりずっといい。


 共同炉の中では、ほかの家の分も少しずつ整えられていた。別の台では、年配の女性が小さな鍋を受け取っている。若い男の子が黒パンの包みを抱え、ハンナさんとは別の人に「傾けるな」と言われていた。シアも、自分の家の分らしい小さな包みを両手で持っている。  火床の前で整えられたものが、ひとつずつ手に持たれて、戸口の方へ向いていく。  ここで食べるのではなく、家へ持っていく。  そう言いかけて、私はまた止めた。大きくしない。今見えているのは、湯気のある器と、芋の皿と、黒パンの包みと、アーミヤ用の小皿。それだけで十分だ。


「よし、戻るよ」


 エリナさんが豆の汁の器を抱えた。


 私は切れ目芋の皿を両手で持った。布の下から熱がじんわり伝わる。芋の切れ目から、香草と脂の匂いが上がる。食べる前なのに、もうお腹が反応した。


 なしたの、腹。


 まだ家に着いてないっしょ。


 黒パンの包みは、エリナさんが腕の側へ寄せた。アーミヤ用の小皿は、別の布に包んで、私の皿とは少し離して持つ。アーミヤはその小皿から目を離さないまま、私たちの横へ来た。現金な王冠猫だ。いや、猫はだいたい現金なのかもしれない。


 戸口へ向かう時、ハンナさんがもう一度声をかけた。


「アユミ、皿は胸に近づけすぎない。熱と匂いで、鼻先が寄る」


「はい」


 顔が近くなる。


 たしかに、匂いで顔が寄りそうだった。私は芋の皿を少しだけ下げ、足元を見る。戸口の段差。外の土。共同炉の前にこぼれた水の跡。ここでつまずいたら、芋が終わる。私も終わる。いや、終わりはしないけど、かなり悲しいことになる。


 足元。


 皿。


 熱。


 匂い。


 情報量がまた増える。


 わや。


 でも、今回は持っていいと言われた皿だ。私は皿を傾けないように、ゆっくり歩いた。


 外へ出ると、共同炉の熱が背中側になった。けれど、持っている皿からはまだ火の匂いが上がっている。豆の汁の器はエリナさんの腕の中で、蓋の端から細い湯気を逃がしていた。黒パンの包みは温かく、アーミヤ用の小皿からは薄い出汁と鶏端肉の匂いがほんの少しだけ漏れている。


 アーミヤが、その匂いの方へ鼻先を向けた。


「家で」


 エリナさんがもう一度言う。


 アーミヤの耳が動いた。


 完全に聞こえている。


 私たちは、共同炉からトルヴァンさんの家へ向かった。さっき歩いた道なのに、今は手の中に皿がある。空の手で歩く時より、足元の石が近く見えた。借り靴の中で足布がちょっこし、いずい。けれど、今は直さない。まず家へ戻る。座ってから直す。エリナさんが何度も言っていた順番を、私は皿の熱と一緒に抱えて歩いた。


 家並みの間を抜ける風に、芋の香りが混じる。


 共同炉で立った湯気が、そのまま家までついてくるみたいだった。いや、また言い方が大きい。実際には、蓋の隙間から少し逃げる湯気と、皿の芋の香りと、私の袖についた火の匂いが、一緒に動いているだけだ。


 それだけで、今は十分だった。


 トルヴァンさんの家が見えてきた。


 戸口の前で、エリナさんは一度立ち止まる。


「皿、まだ持てる?」


「はい。大丈夫です」


「じゃあ、そのまま中へ。台の上に置くまで気を抜かない」


「はい」


 私は切れ目芋の皿を持ち直した。指先に、布越しの温かさが残る。昼前に冷やした布の感覚は、もうかなり薄い。それでも、熱い皿を持つと、冷たさの名残が少しだけ思い出された。


 冷たいものを出した手で、火の匂いのする皿を持っている。


 なしたの、今日の手。


 忙しすぎるんね。


 中へ入ると、家の空気が共同炉とは違う低さで迎えてきた。ここにも火の匂いはある。けれど、共同炉みたいに豆と芋と灰が一度に押し寄せる感じではない。木の壁に染みた匂い、布の匂い、乾いた藁や羊毛のような匂い。その中へ、私たちが持ってきた豆の汁と切れ目芋の匂いが混ざった。


 皿は、まだ食卓ではない。


 でも、もう共同炉の台の上でもない。


 私はエリナさんに示された台へ、切れ目芋の皿をゆっくり置いた。布を下に敷いたまま、皿の端が台からはみ出していないか見る。熱はまだ残っている。香草の匂いも、まだ上がっている。


「それでいいよ」


 エリナさんが言った。


 私は手を離した。


 切れ目芋の皿は、トルヴァンさんの家の台の上に残った。豆の汁の器も、その横に置かれる。黒パンの包み、アーミヤ用の小皿も、少し離して並べられた。


 共同炉で受け取ったものが、家の中へ来た。


 そこまで思って、私はまた少し止めた。


 分かったことにしない。


 今見えているのは、台の上の器と、布を敷いた皿と、蓋の隙間から逃げる湯気だけだ。


 でも、その湯気は、確かにトルヴァンさんの家の中で上がっていた。

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