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第6話 後編 豆袋と、芋の皿 ④ 袖に残る火の匂い

第6話 後編 豆袋と、芋の皿


① 共同炉へ運ぶ豆袋


② 切れ目芋と、小さな冷気


③ 家へ戻る湯気


④ 袖に残る火の匂い


【アユミ視点/異世界生活三日目・昼前〜夜】


④ 袖に残る火の匂い


 でも、その湯気は、確かにトルヴァンさんの家の中で上がっていた。


 共同炉で受け取った豆の汁は、トルヴァンさんの家の台の上で、木の蓋の隙間から細く湯気を逃がしている。切れ目芋の皿も、その横に置かれていた。布を敷いた皿の端から、香草と脂の匂いが少しだけ上がる。黒パンの包みはまだ閉じたままで、アーミヤ用の小皿だけは、人間用の皿から少し離して置かれていた。


 共同炉の台の上にあった時とは、同じものなのに少し違って見えた。


 火のそばでは、鍋や器や布や人の手に囲まれていた。ここでは、家の台に置かれ、壁に染みた匂いと、エリナさんの手と、トルヴァンさんの短い視線に囲まれている。


 家へ来たんだ。


 そう思いかけて、私はまた止めた。


 大きくしない。


 今見えているのは、湯気のある器と、切れ目芋の皿と、黒パンの包み。それから、アーミヤが自分の小皿だけを見ていること。


 うちの王冠猫、視線が正直すぎるんね。


「まず置け。手、熱くなってないか」


 トルヴァンさんが言った。


「大丈夫です」


「大丈夫なら、次は足だ」


 短い。


 でも、確かに足だった。


 皿を運んでいる間、私は足元だけを見ていた。共同炉から家までの道。戸口の段差。家の中の床。ずっと見ていたはずなのに、皿を置いた途端、借り靴の中の足布がまた指の付け根に当たり始めた。


 足布、今になって主張するんね。


 なしたの。さっきまで黙ってたっしょ。


 エリナさんは、私の足元を見てから、豆の汁の器へ目を戻した。


「食べる前に座りな。足はあとで直す。今は器を落ち着かせる方が先だよ」


「はい」


 私は言われた場所へ座った。座ると、皿を持っていた時の肩の力が少し抜けた。手のひらには、切れ目芋の皿の温かさが残っている。指先には、昼前に布を冷やした時のじんとした名残が、ほんの少しだけ引っかかっていた。


 熱い皿を持った手。


 冷たい布へ触れた手。


 同じ手なのに、今日は忙しすぎる。


 エリナさんは厚い布を使って豆の汁の蓋を外した。蓋の下から湯気がふわっと広がる。共同炉の中では周りの火や煙に紛れていた匂いが、家の中でははっきりした。豆。鶏端肉の薄い出汁。根菜らしい丸い匂い。ほんの少しだけ、霜香草に似た、鼻の奥がしゃっこくなる香り。


「熱いから、慌てない」


 エリナさんが言った。


「はい」


「アユミは少なめからだね。食べられそうなら足す。無理なら言う」


「はい」


「たぶんは抜き」


「……はい。食べられなくなったら言います」


「それでいい」


 たぶん禁止、また出た。


 でも、今はそれで助かる。共同炉で見ていたものが家へ来て、湯気になって、目の前にある。頭の方は勝手に大きくまとめようとしているけれど、エリナさんの言葉はいつも器の中身と私の腹へ戻してくれる。


 トルヴァンさんは黒パンの包みを開いた。硬めの黒パンの皮が見える。香ばしい匂いと、少しだけ酸味のある匂いが家の空気へ混ざった。共同炉でまとった匂いとは違う。けれど、今は同じ食卓の上にある。


 食卓。


 そうだ。


 ここが食べる場所なんだ。


 共同炉ではなく、トルヴァンさんとエリナさんの家。私はまだ預けられている子で、勝手に歩ける立場ではなくて、今日の器も皿も、ここへ持ってきてもらって初めて夕食になる。


 ……また大きい。


 戻そう。


 目の前には、豆の汁がある。


 それでいい。


 エリナさんが木の器へ豆の汁をよそってくれた。汁は朝のものより少し濃く見えた。濃いと言っても、どろりとしているわけではない。豆と小さくほぐれた鶏端肉、細く切られた根菜らしいものが、湯気の中で揺れている。木匙を入れると、豆が器の底で小さく動いた。


 袋の中でさり、と鳴っていた豆ではない。


 水に沈んで音を消した豆でもない。


 今は汁の中で、木匙に当たっている。


 そう思ったところで、私はまた木匙を止めた。


 はい、またまとめようとしてる。


 なしたの、私の頭。すぐ札つけようとするんね。


 今は、木匙の先に豆が二粒乗っている。それだけ見ればいい。


「熱いよ」


 エリナさんが言った。


「はい」


 私は息を吹いた。湯気が少し逃げる。隣でトルヴァンさんが黒パンを割った。硬い皮が、小さく乾いた音を立てる。私も黒パンの端を少しもらい、豆の汁へそっと沈めた。


 汁を吸うと、黒パンはすぐに重くなった。


 黒パン、なまら吸う。


 いや、感想が雑すぎる。でも、本当に吸うんね。


 持ち上げると、欠片の端から汁が一滴戻り、器の中へ落ちた。私はそれをこぼさないように少し息を吹いてから、口へ入れた。


 熱い。


 でも、熱すぎない。


 黒パンは汁を吸っても、すぐにはほどけない。噛むと、硬さがまだ残っていて、その間から豆の汁の塩気と鶏端肉の薄い味が出てきた。香草の匂いが鼻へ抜ける。豆の皮が舌に当たった。乾いた豆の皮ではない。水を吸って、火にかかって、少しやわらかくなった皮だ。それでも完全になくなるわけではなく、口の中で「豆だ」と分かる薄い抵抗が残る。


 豆の皮、いる。


 なしたの、ちゃんと豆として主張してくるんだけど。


 私は木匙でもう一粒すくった。今度は鶏端肉の小さな欠片が一緒に乗った。肉は大きくない。けれど噛むと、薄い塩気の奥から出汁の味が少しだけ出て、黒パンの酸味と混ざる。すごく分かりやすい味ではない。でも、もう一口確かめたくなる味だった。


 派手じゃない。


 でも、木匙がもう一度、器の底へ向くんね。


 トルヴァンさんは黙って食べていた。大きな動作はない。黒パンを割り、汁へ沈め、食べる。時々、器の熱さを見るように持ち替える。美味しいとも、珍しいとも言わない。けれど、皿に置かれた切れ目芋へ一度だけ目をやった。


「芋、今日は手が入ってるな」


「傷みやすい分を先に使ったってさ。アユミが見てきたよ」


 エリナさんが答える。


「見ただけです」


 私は慌てて言った。


「布を少し冷やしたくらいで、芋はハンナさんが全部見てました」


「見ただけなら上出来だ」


 トルヴァンさんは短く言った。


 褒められたのか、釘を刺されたのか、どっちだろう。


 たぶん両方だ。


 私は切れ目芋の皿へ目を落とした。芋は、共同炉で見た時より少し落ち着いている。皿へ移されたせいか、切れ目の間に入った香草がよく見えた。脂は多くない。けれど、皮のところどころに薄く光っていて、中の白っぽい部分はほくっと崩れそうだった。


 エリナさんが、私の分を少し小さくしてくれた。


「熱いよ。切れ目の間に脂が残ってるから、急に口へ入れない」


「はい」


 私は木匙と指で少し崩し、熱さを見ながら口へ運んだ。


 芋の中は、思ったよりやわらかかった。


 外側の皮に近いところは少し締まっていて、噛むと香ばしさがある。中はほくっと崩れ、香草の匂いが遅れてくる。脂は多くないけれど、切れ目に入っていた分だけ、口の中で芋のぱさつきを抑えていた。塩気は強くない。けれど、豆の汁と一緒に食べるとちょうどよかった。


 私は、もう一口いきかけて、少し止まった。


 うん。


 これはずるい。


 芋の切れ目に脂が入ってるんね。そりゃ美味しいっしょ。いや、分かったふりするな、私。


 特別なごちそうという感じではない。たぶん、村の人にとっては手をかけた日常の一皿なのだと思う。それでも、昼前に泥を落とすところから見てしまったせいで、ただの芋ではなくなっている。いや、また「ただの」って言い方をしている。さっきから私は、豆にも芋にも失礼だ。


 なまら面倒な子だ、私。


 でも、おいしい。


 そこは素直に認めた。


「美味しいです。香草が、あとから来ます」


 私が言うと、エリナさんは芋の切れ目を見た。


「入れすぎると強いからね。このくらいなら食べやすい」


「ハンナさんも、子どもが嫌がるって言ってました」


「そうだろうね。香りが勝つと、芋を食べてるのか香草を食べてるのか分からなくなる」


 エリナさんはそう言って、自分の皿の芋を少し崩した。トルヴァンさんは黒パンをもう一つ割り、豆の汁へ沈める。家の中の食事は、共同炉よりずっと静かだった。鍋の音も、器が並ぶ音も、誰かが行き来する足音もない。あるのは、木匙が器へ当たる音と、黒パンを割る音と、アーミヤが小皿を見つめる気配だけだ。


 アーミヤ用の皿は、まだ置かれていない。


 正確には、置かれているけれど、まだ本人の前ではない。エリナさんが人間の器から少し離した場所に置いたままだ。小さな木皿の中には、塩を抜いたらしい鶏端肉がほぐしてある。ぬるい薄出汁が少しだけかかっていて、湯気はほとんどない。香草も見えない。


 アーミヤは、自分の皿がそこにあることを完全に把握していた。


 なしたの、その集中力。


 豆や芋より、明らかに目が本気なんだけど。


「これはアーミヤの分。人の汁はだめだよ。塩も香草も入ってる」


 エリナさんが私を見る。


「はい。ありがとうございます」


「猫にまで豆の汁を分けたら、あとでお腹を壊されても困るからね」


 エリナさんはそう言って、小皿をアーミヤの前へ置いた。


 アーミヤはすぐには食べなかった。まず匂いを嗅ぐ。次に、前足を少しだけ置き直す。それから、当然のように食べ始めた。王冠をつけたまま、塩抜き鶏端肉を黙々と食べている。


 絵面がおかしい。


 でも、本人は真剣だ。


 トルヴァンさんが、アーミヤを見て短く言った。


「食う時は静かだな」


「食べるものが確定してる時は静かなんだと思います」


「分かりやすい」


「はい」


 分かりやすい。


 なまら分かりやすい。


 アーミヤは皿の端まで丁寧に舐めている。食べ終わるのが早い。さっきまで豆や芋には興味がない様子だったのに、自分の分になると動きが違う。


 私は自分の器へ戻った。


 豆の汁は、少し冷めて食べやすくなっていた。最初の熱さが抜けると、豆の皮の感じがさっきより分かる。鶏端肉は小さいけれど、噛むと少しだけ味が出る。黒パンを浸すと、汁の味が染みて、硬さが少しやわらぐ。切れ目芋はまだ温かい。香草の匂いは強すぎず、芋の中の甘さというか、土っぽさを少しだけ持ち上げていた。


 甘い、というほど甘くない。


 でも、芋の中にある味だった。


 現代のポテトチップスやフライドポテトみたいな分かりやすい塩と油ではない。じゃがバターほど分かりやすくもない。けれど、口の中で芋がほどけるたびに、泥を落とした水の濁りや、切れ目に落ちた香草の細い葉が少し戻ってくる。


 これもまた、言いすぎると変になる。


 今はただ、熱い芋を少しずつ食べる。


 私は木匙で芋の端を崩し、豆の汁を少しだけかけた。香草の匂いと豆の汁の塩気が混じる。黒パンを小さくちぎって、その汁を吸わせる。器の中が、少しずつ静かになっていく。


 食べ進めると、思っていたより腹にたまった。


 昼前は、見るだけで頭がいっぱいだった。豆の数、札、黒点、種候補、共同炉、水、芋の傷、切れ目、布の冷たさ。そんなものばかり頭の中で動いていたのに、今は器の温かさと、黒パンの重さと、芋のほくっとした感じが身体の方へ落ちてくる。


 頭より、腹の方が先に納得している。


 悔しいけど、そういう感じだった。


「足りる?」


 エリナさんが聞いた。


「はい。これで大丈夫です」


「無理してない?」


「してないです」


 今度は、たぶんをつけなかった。


 エリナさんは少しだけ頷き、私の器からアーミヤの皿へ視線を移した。アーミヤの皿は、もうきれいになっている。早い。さすがに早い。


「アーミヤ、もう少し欲しそうだね」


「皿から目を離しませんね」


 アーミヤの目線は、空になった皿とエリナさんの手を行ったり来たりしている。人間用の豆の汁には手を出さない。でも、別皿がもう一度来る可能性だけは捨てていないらしい。


 エリナさんは、空になった皿を見てから、少しだけ息をゆるめた。


「今日はここまで。あとでお腹を壊しても困るから」


 アーミヤの耳が動いた。


 聞いてる。


 絶対、分かってる。


 私は黒パンの最後の欠片を、少しだけ汁に浸した。器の底には豆の皮が一枚、木匙で拾いきれずに残っている。汁を吸った黒パンは手の中で重く、切れ目芋の香草の匂いは指先に少し残っていた。布を冷やした指のじんとした感じは、もうほとんどない。


 共同炉の火床はもう目の前にない。


 けれど、豆の汁にも、焼いた芋にも、黒パンの包みにも、向こうで受け取った熱の名残が少し残っていた。家の中の匂いと混ざって、どこからが共同炉で、どこからがこの家なのか、はっきり分けられない。


 それでも、袖を少し動かすと、灰っぽさと豆の湯気が混じったようなものがふっと上がった。


 私は器を両手で持ち、残った汁をゆっくり飲んだ。


 最後のひと口は、最初よりずっと熱が落ち着いていた。豆の匂いも、鶏端肉の薄い出汁も、黒パンを浸したあとの少し酸っぱい香りも、湯気の勢いが弱くなった分だけ、器の底へ近くなっている。飲み終えて口元から器を離すと、底の端に豆の皮が一枚だけ残っていた。木匙の先で寄せると、薄い皮は汁を吸って、器の木目にぺたりと貼りつく。


 器の底に豆の皮が一枚だけ残っている。


 食べ終わったはずなのに、まだ終わってないんね。


 私はそれを見て、少し迷った。


 このまま置いていいのか。木匙で集めて食べるべきなのか。食べ終わった器をどう扱うのかも、私にはまだ分からない。共同炉なら共同炉の置き場所がある。家なら家の置き場所がある。どちらにしても、勝手に空いたところへ置けばいいものではないのだろう。


「あの、この器はどこへ置けばいいですか」


 エリナさんは、私の手元を見てから、台の端ではなく、火から少し離れた場所を指で示した。


「そこ。台の端へ寄せすぎない。木匙は器の中でいいよ。あとでまとめて水へ回す」


「はい」


「まだ少し熱が残ってるから、布の上へ直接置かないで」


 言われて、私は一つずつ目で追った。台の端ではない。布の上ではない。木匙は器の中でいい。器を持って歩く距離はほんの数歩なのに、置いていい場所と駄目な場所がある。


 豆袋と同じだ。


 いや、器まで豆袋扱いするのは変なんだけど。


 でも、置き場所を間違えたら、次の手が増える。そこはたぶん同じなんね。


 私は両手で器を持ち直し、エリナさんに言われた場所へ運んだ。中に入った木匙が、こと、と小さく鳴る。器の底に残った豆の皮は、まだ端に貼りついたままだった。台の上には、ほかにも空いた器がいくつか並んでいる。大きさが違うもの、汁の跡が濃いもの、木匙が入ったもの。どれも同じ向きではないけれど、乱れている感じはしない。


 私は器を置いて、すぐに手を離さなかった。


 倒れないか、少しだけ見た。


「それでいいよ」


 エリナさんが後ろから言った。


「ありがとうございます」


「器くらいで礼を言わなくてもいいけどね。分からないなら聞く。それでいい」


 そう言われて、私はようやく手を離した。器は台の上に残った。木匙も中にある。豆の皮も、まだ底に貼りついている。私の手には、器の温かさが少しだけ残った。


 トルヴァンさんは、食後の黒パンの包みを閉じていた。残った分をそのまま置くのではなく、布で包み直し、台の奥へ寄せる。エリナさんはアーミヤの小皿を人間用の器とは別に置いた。肉の匂いが残るから、あとで先に洗うらしい。


 家の中でも、器には器の順番がある。


 共同炉ほど人の手は多くない。でも、だからこそ、ここで間違えるとエリナさんの手が増えるのだろう。


 私は袖の端を少し触った。


 布に、食後の匂いがついていた。


 袖まで夕食になってる。


 いや、変な言い方だけど、そんな感じだった。


 灰のぬくみ、豆の汁、焼いた芋、香草、薄い出汁。それぞれを一つずつ言い当てられるほど鼻が良いわけではない。けれど、共同炉の中にいた何かが、袖の布へ少し移っているのは分かった。そこを離れても、それはすぐには消えない。


 さっきまで口の中にあった豆の汁が、今は袖の匂いになっている。


 そこまで考えかけて、私はエリナさんの手元へ目を戻した。


 大きくしない。


 袖は袖だ。共同炉にいたから、匂いがついただけ。そこに意味を盛りすぎると、また頭の中の棚が勝手に札を増やし始める。今日はただでさえ、豆と芋だけで棚が混んでいる。豆袋、黒点、種候補、水に沈んだ豆、泥のついた芋、切れ目、香草、濡れ布の端。これ以上増えたら、なまらわやになる。


 私は袖から手を離した。


 足元では、借り靴の中の足布が少しずれている。さっきから気になっていた場所だ。指の付け根に当たる布の端が、歩くたびにちょっこし、いずい。痛いほどではない。でも、気にならないわけでもない。


 食べ終わった途端に主張してくるんね、足布。


 なしたの、今なの。


「足、気になるかい」


 エリナさんが聞いた。


「少しだけです。痛いほどじゃないです」


「じゃあ、今直そう。共同炉ではないし、ここなら座って直せる」


「はい」


「でも器の方へ足を出さない。こっちへ」


 言われた場所へ腰をずらす。共同炉から戻ってきたばかりの体が、座った瞬間に少し重くなった。借り靴の紐をほどき、そっと脱ぐ。足布は思ったよりずれていた。外から見ていた時はほんの少しだと思っていたのに、指の付け根のあたりで布が寄り、薄いしわになっている。


「ああ、ここだね」


 エリナさんは、私が見つけるより先にそのしわを指で押さえた。


「痛くなる前でよかった。ここをこのまま歩くと、明日には擦れるよ」


「そんなにですか」


「なる時はなる。足は先に直す。あとでまとめて直せないからね」


 エリナさんは、布をほどきすぎない程度に緩め、指の付け根に当たっていたところを伸ばした。手つきは早い。でも雑ではない。布を引き、折り目を整え、足の甲の上で余りを少し逃がす。さっき共同炉で台を拭く布と器を拭く布が違ったように、足に巻く布にも置く場所があるらしい。


 私は膝の上で手を握ったまま、その手元を見ていた。


 足が少しずつ楽になる。


 大きな変化ではない。痛みが消えたわけでもない。そもそも痛いほどではなかった。でも、当たっていた場所が外れると、体が小さく息を吐いたような感じがした。


 ちょっこしのいずさを放っておくと、明日の敵になるんね。


 足布、侮れない。


「共同炉で直さなくてよかったです」


「そうだよ。火のそばで片足上げて、器を倒したら目も当てられない」


「やりそうで怖いです」


「だから座ってから」


 エリナさんはそう言って、最後に布の端を平らに押さえた。


 私は足指を動かした。さっきよりずっと楽だ。まだ借り物の靴と布だから完全に自分のものみたいにはならない。でも、指の付け根にあった小さな邪魔は消えていた。


 足のことだけが、妙にはっきり戻ってくる。


 そう考えかけて、やめた。


 なんも、そこまで大きくしなくていい。


 足布が直った。それでいい。


 私は直してもらった足を床へそっと置いた。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。指は?」


 エリナさんの視線が、足から手へ移る。


 私は手を開いた。布を冷やした方の指先を見る。もう赤くも白くもない。触っても冷たくない。共同炉で感じたじんとした細い跡も、かなり薄れている。


「ほとんど大丈夫です」


「ほとんど、ね」


「少しだけ、変な感じは残ってます。でも痛くはないです」


「今日は触らない」


「はい。今日は触りません」


 同じことを何度も言われている。けれど、その何度もが助かっているのも分かった。私一人だと、たぶん寝る前にもう一回だけ、と考えたと思う。水ではなく布なら。布ではなく自分の袖なら。ほんの少しなら。そうやって、頭の中で勝手に条件を並べる。


 もう一回だけ、って思うのが一番危ないんね。


 でも、今日はもう終わり。


 誰かが外から線を引いてくれると、私はその線を理由にできる。


 私は指先を軽く握ってから、膝の上へ戻した。袖に触れると、共同炉でまとった匂いがまた少し立つ。家の中の空気と混ざって、どこまでが外から持ち込んだものなのか分からなくなる。でも、近づけると、豆の汁と焼いた芋の匂いだけは、ほんの少し拾えた。


 アーミヤは、寝床に近い場所へ行っていた。


 いつの間にか、食後のゆっくりした歩き方で移動して、アユミ用に整えられた寝床の端に近いところで丸くなっている。大きな体を丸めると、茶色い毛の山みたいだ。王冠だけが妙にきちんと乗っている。外れない。ずれない。寝る気配を出しているのに、王冠だけは儀式の道具みたいに平然としていた。


 そこだけ、やっぱり変。


 でも、今日はもう「なしたの王冠」まで考える余力がない。


 アーミヤは毛づくろいをしようとして、途中でやめた。前足を少し舐めて、目を細め、尻尾を体の横へ寄せる。塩抜き鶏端肉の別皿は、かなり満足度が高かったらしい。動きがいつもより少し重い。


「アーミヤ、そこで寝るのかい」


 エリナさんが言うと、アーミヤは耳だけ動かした。


「返事だけはするね」


「聞こえてはいるんだと思います」


「聞こえてるなら、まあいいよ。踏まれない場所ならね」


 踏まれない場所。


 アーミヤはそれを理解しているかのように、寝床の端から少しだけ離れた位置で丸くなっている。人の足が通るところではない。火に近すぎるわけでもない。戸口の風が直接当たる場所でもない。


 うちの猫、場所取りが上手すぎるんね。


 私は寝床の方へ移りながら、袖を少し嗅いだ。共同炉の匂いがまだ残っている。火、豆、芋、香草、薄い出汁。全部が一緒になって、借りた服の布に入り込んでいる。


 現代の家の匂いとは違う。


 柔軟剤の匂いでも、冬の暖房の匂いでも、夕食後のキッチンの匂いでもない。ここにはここで、火と布と食べ物の匂いがある。そう思った瞬間、少しだけ胸の奥が変に動きそうになったので、私は袖から鼻を離した。


 今日は、もうそれ以上広げない。


 エリナさんが寝床の布を整えた。


「眠れなくても横になりな。足も手も、今日は使ったんだから」


「はい」


「考えるなら、目を閉じてからにしな。できるならね」


 最後の一言が、エリナさんらしかった。


 たぶん、できない。いや、できるかもしれないけれど、考えようとした瞬間に寝る気もする。私は靴を脱いだ足をそろえ、直してもらった足布の感触を確かめながら寝床へ入った。


 横になると、袖の匂いが少しだけ近くなった。


 共同炉では、鍋も人の声も動いていたから、袖の匂いなんて気にしていなかった。でも寝床の中では、布が顔に近い。豆の汁、焼いた芋、灰のぬくみ。どれももう目の前にはないのに、布の中に少し残っている。


 なまら長い一日だった。


 でも、分かったって言えるほど簡単じゃないんね。


 袖には灰と豆と芋の名残があり、足布はまだ少しだけいずくて、指先には布を冷やした名残が薄く残っていた。


 もう一度やれば、分かることがある。


 そう思いかけて、私は寝床の中で手を開いた。


 やらない。


 今日は、やらない。


 頭の中で言葉にするより先に、エリナさんとハンナさんの声が先に来る。今日は終わり。冷たいのは終わり。足は座ってから。器は台の端へ置かない。熱いところへ手を出さない。


 注意ばっかりだ。


 でも、その注意がなかったら、私はたぶん色々なところへ手を伸ばしていた。豆袋にも、芋にも、水にも、布にも。知りたい気持ちだけで動いたら、共同炉はきっとなまら迷惑だったと思う。


 アーミヤが寝床の近くで、体を丸め直した。毛が小さく擦れる音がする。王冠だけが、暗がりで少し光を拾った。熾きの名残みたいな色だった。私はそれを見て、少しだけ安心した。王冠の意味は分からない。外れない理由も分からない。でも、アーミヤがそこにいることだけは分かる。


 目を閉じる。


 豆の数も、芋の傷も、器の置き場所も、布の冷たさも、全部を順番に並べようとしたら、たぶん眠れなくなる。だから並べない。今日分かったことにはしない。


 なんも、今日のうちに全部並べなくていい。


 分からないまま、布に残ったものだけを近くに置く。


 豆の汁と、焼いた芋と、灰の匂いが、袖の奥に少しだけ沈んでいた。


 最後に残ったのは、考えではなく、袖の奥の火の匂いだった。

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