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第6話 後編 豆袋と、芋の皿 ① 共同炉へ運ぶ豆袋

第6話 後編 豆袋と、芋の皿


① 共同炉へ運ぶ豆袋


② 切れ目芋と、小さな冷気


③ 家へ戻る湯気


④ 袖に残る火の匂い


【アユミ視点/異世界生活三日目・昼前〜夜】


① 共同炉へ運ぶ豆袋


 共同炉へ回す籠の中で、豆袋が小さく沈んでいた。


 袋の口元には、薄い木札が一枚ついている。さっきイルマさんが紐を通した札だ。籠を少し動かすたび、その札が縁に当たって、かた、と鳴る。中の豆も、布越しにかすかに動いた。木皿の上で転がっていた時より鈍く、袋の底へ寄ってから遅れて落ち着く、乾いた粒の音だった。


 見えないけれど、さっきまで見ていた豆が入っている。


 木皿の手前に寄せられた、食べる方の豆。種に残す方ではなく、黒い点があるから布の端で待つことになった方でもなく、共同炉へ回すことになった豆。


 そう思うと、ただの袋がちょっこし緊張するものに見えた。


 共同炉へ回す。  その言い方だけ聞くと、ここで食べる豆みたいに思える。でも、たぶん違う。ここで水と火に預けられて、夕方には家ごとの器や小鍋へ分かれていく豆なのだろう。まだ食卓ではない。食卓の、ひとつ手前。


 いや、豆袋相手に緊張するって何。


 でも、袋の中には、さっきまで一粒ずつ見られていた豆たちがいる。マリナさんの指に寄せられ、イルマさんの帳面に受けられ、ニルスさんに覗き込まれた豆だ。そう考えると、なんだか雑に扱えない。


 豆にもいちいち段取りがあるんね。


 なまら細かい。


 私の元いた世界だったら、袋入りの豆はもう袋入りの豆だった。買うか、開けるか、鍋に入れるか。そんな感じで、途中のことは棚の向こう側に隠れていた気がする。けれど、ここでは袋へ入ったあとも終わりじゃない。木札がついて、帳面が開いたままで、黒い点の豆は布の端で待っていて、食べる方だけが共同炉へ向かう。


 うん。


 情報量がわや。


 マリナさんは籠の持ち手を確かめると、イルマさんへ視線を戻した。


「このまま共同炉へ持っていくよ。帳面は閉じないで。戻ったら、種候補の方を見る」


「はい」


 イルマさんは帳面の端を押さえたまま頷いた。すぐには閉じない。紙の上にはまだ開いたままの行があり、横に置かれた木片も動かされていない。豆袋は共同炉へ行くのに、帳面の方ではまだ待っているものがあるらしい。


 開いた行。


 籠の中の袋。


 布の端に置かれた黒い点の豆。


 それぞれ別の場所にあるのに、私の目の中では、まだ一つの作業台の上に並んでいるみたいだった。


 マリナさんが籠を持ち上げた。豆袋が布の上で少し沈み直し、木札がまた小さく鳴る。


 私は反射的に手を出しかけて、止めた。


 勝手に持たない。


 勝手に助けようとしない。


 助けるつもりの手が、余計な手を増やすこともある。昨日から何度も見たことだ。紙も、木札も、袋も、水桶も、たぶん同じ。触る前に見る。動く前に聞く。言葉で覚えるより先に、手を止める方が先だった。


 ちょしていい、じゃない。


 そもそも今は、触っていいかを聞く前の場面だ。


 マリナさんは、私の手元を見て、籠の持ち手を指で軽く押さえた。


「手が出かけてるね」


「……出てましたか」


「少し」


 出ていたらしい。


 手、正直すぎ。


 なしたの、私の右手。やる気だけ先に出るんじゃないよ。足元も場所も順番も、まだ分かってないっしょや。


「今日は見る方でいいよ。籠を持つと足元が見えにくくなる。今は、自分の足をちゃんと運びな」


「はい」


 私は借り靴の中で指を動かした。足布は朝より馴染んできているけれど、自分の靴ではない。畑の土、共同倉の床、共同炉までの道。それぞれ少しずつ固さが違う。籠を持てば、たぶん足元を見る余裕が減る。


 豆袋より先に、自分の足。


 それ、なまら現実的なんね。


「共同炉までは近いけど、近い道ほど気を抜くからね」


 マリナさんはそう言って歩き出した。


 私はその後ろについた。トルヴァンさんは、少し離れたところで私の足元を見ていた。口を挟まない。私が勝手に籠へ手を出さなかったからか、何も言わずに、視線だけを道のへこみへ戻した。


 外へ出ると、昼前の光が朝より少し強くなっていた。地面の湿りは引き始めていて、靴底についた土も畑から戻った時より軽い。家と家の間を抜ける風には、青い葉の匂いより、木と煙と人の気配が混じっている。共同炉の方からだと思う。黒パンを焼いた後の皮の匂いとも、鍋から上がる湯気とも違う。火床の灰がまだ温かいまま、次の仕事を待っている匂いだった。


 籠の中で、豆袋の木札がかた、と鳴った。


 倉の中では、その音は帳面や木皿の音に混じっていた。外へ出ると、井戸の縄がきしむ音、遠くの鶏の声、誰かが空の籠を置く音の間へ入っていく。袋の中の豆も、マリナさんの歩みに合わせて小さく鳴る。乾いた音なのに、行き先には水と火がある。


 そう思って、私はまた考えが大きくなりかけたのを止めた。


 今は歩く。


 土のへこみを避ける。石を踏まない。マリナさんの籠に近づきすぎない。豆袋が揺れた時、木札がどちらへ向くかを見る。それだけでいい。


 共同炉に近づくと、人の声が増えた。朝の一番忙しい時間とは違うけれど、火は止まっていない。誰かが大きな声を出しているわけではないのに、空籠が置かれ、洗った布が渡され、台の上に伏せてあった木の器が少し寄せられる。鍋の蓋も、誰かの手でほんの少しずらされた。そのたびに、共同炉の中のものが、互いにぶつからない幅だけ場所を変えていく。


 私は戸口の手前で足を止めた。


 アーミヤがいた。


 当然のようにいた。


 共同炉の端、邪魔にならないぎりぎりの場所で、茶色い毛玉が丸くなっている。火の光を受けて、王冠だけが少し金色を増していた。朝のうちに共同炉へ営業に行ったまま、すっかり居場所を見つけたらしい。


 そばにはシアがいた。小さな袋を抱えたまま、少し離れて座っている。触りたいけれど触らない距離。指は膝の上でぎゅっと握られていて、我慢しているのが分かる。


 アーミヤたん、なしたのその貫禄。


 共同炉の端、完全に自分の席っしょや。


 私が見ていると、アーミヤは片目だけ開けた。耳が少し動く。こちらを確認したのか、豆袋の匂いを嗅いだのかは分からない。そのまま、また目を細めた。


 アンタ、私より馴染むの早すぎない?


 でも、少しだけ安心した。横にいない時は心細かったくせに、共同炉の端でくつろいでいるのを見ると、腹が立つくらい普通だった。


「アーミヤ、邪魔してませんか」


 小声で聞くと、共同炉の奥からハンナさんの声が返ってきた。


「今のところはね」


 今のところ。


 含みがある。


 ハンナさんは火床のそばにしゃがんでいた。鍋を動かすのではなく、鍋の下に寄せてある灰を火箸で少しだけ崩し、赤く残ったところを見ている。袖は肘の少し下まで上がり、手首の動きだけで火箸を扱っていた。声は明るいのに、視線は火から離れない。


「猫は鍋へ手を出さない。子どもは猫へ手を出しすぎない。今はそれで回ってるよ」


「すみません」


「謝るところじゃない。見てる人が増えただけだよ。シアも、触る前に聞くを覚えたしね」


 シアが、袋を抱える手に少しだけ力を入れた。


「触ってない」


「うん、えらい」


 私が言うと、シアは膝の上の指をもぞもぞさせた。触りたい気持ちは、まだそこに残っているらしい。アーミヤは何も言わない。王冠つきの猫として、完全に受け取る側の姿勢でいる。


 なんか、ずるい。


 ただ丸くなっているだけで周りが場所を空けてくれるんね。私もそんな省エネで村に馴染めたらよかったんだけど。いや、無理だ。人間は豆袋すら勝手に持てない。


 マリナさんが豆袋の入った籠を台の上へ置いた。


 ハンナさんの視線が、火床から袋へ移った。笑っていた声の温度はそのままなのに、手の動きが変わる。豆袋にはすぐ触れない。火箸を置き、手元の布で指を拭う。指の腹まで拭いてから、袋の口元へ手を伸ばした。その何気ない動きが早かった。


「昼前の分?」


「食べる方。黒点は別。種候補はバルト待ち」


 マリナさんが短く答える。


「帳面は?」


「開けてある。イルマが見てる」


「分かった」


 ハンナさんは袋の札を指で押さえ、木札の向きと紐の結び目を確かめた。豆袋を持ち上げ、重さを見るように少しだけ揺らす。袋の中で豆がさり、と鳴る。次に水桶へ目をやり、火床の灰を見て、鍋の縁についた湯気を見た。台の端に置かれた別の袋と、空いている木の器も見る。


 豆袋だけを見ているのではない。


 豆袋を置くための場所を、火と水と鍋の間で探している。


 そこまで見るんね?


 豆袋、どこにでも置けるわけじゃないんね?


「これは夕方、家へ持たせる汁に回せる?」 「量は少ないよ。トルヴァンの家の分にも少し入るだろうけど、夕方に足すなら他の分と合わせて」 「なら、すぐ鍋じゃないね。水を吸わせて、あとで鍋の順番を見る」


 すぐ鍋じゃない。


 私は豆袋を見た。


 共同炉へ来たから、そのまま鍋に入るのだと思っていたわけではない。たぶん、今すぐではないだろうとは分かっていた。でも、火のそばに来たら、もう料理の側に入ったのだと思っていた。


 違うんだ。


 火のそばへ来ても、まだ待つんだ。


 この村、待機場所までなまら細かいんね。


 ハンナさんは豆袋を台へ戻し、水桶の蓋を少し開けた。中の水面に、火の赤が細く映る。湯気は立っていない。暗い木桶の中で、細い光だけが揺れていた。


「火のそばに置いたからって、すぐ食べ物になるわけじゃないよ。水を吸う時間も、鍋が空く順番もある」


 ハンナさんは、水桶を見て、鍋の位置を見て、火床の灰を少し寄せた。そのついでのように言っただけだった。


「鍋は増えない。火も勝手には増えない。人の手もね。だから、先に入れるものと待たせるものを見ないと、あとで鍋の前がわやになる」


 それはとても現実的だった。


 魔法がある世界でも、鍋は勝手に増えないらしい。いや、もしかしたらどこかには鍋を増やす魔法もあるのかもしれないけど、少なくとも今の共同炉にはない。あるのは火床の灰と、薪と、水桶と、鍋の数と、人の手。ハンナさんはそれを見て順番を決めている。


 鍋が増えない。


 火も増えない。


 人の手も増えない。


 そりゃそうなんだけど、なまら現実的だべさ。


 ファンタジー世界なのに、そこはすごく現実的なんね。いや、むしろ火と鍋の前では、世界が変わっても現実は現実なのかもしれない。


 私は水桶へ近づきすぎないように気をつけた。


 台の端には、空の器や小鍋がいくつか伏せて置かれていた。今ここで食べるための器というより、あとで中身を入れて、それぞれの家へ戻っていくためのものに見える。共同炉は食卓そのものではなく、食卓へ向かう手前の火の場所なのだと、そこで少しだけ分かった気がした。  でも、分かったことにはしない。今見えているのは、伏せられた器と、鍋の順番と、豆袋の置き場所だけだ。


 見たい。


 なまら見たい。


 でも、今は水にも豆にも手を出さない。豆袋の黒い点を勝手に捨てないのと同じで、水桶にも勝手に触らない。火と水のそばでは、余計な一手がもっと怖い気がする。


 ハンナさんは、私の足元と手元をちらりと見た。


「そこからなら見ていいよ。水に手は入れない」


「はい」


 私は少しだけ身を乗り出した。水桶の中は思ったより暗い。火床の赤が水面に映り、揺れるたびに細く切れる。ハンナさんは小さな木の器へ水を取り、指先で温度を確かめた。熱すぎないか、冷たすぎないか、たぶんそういうことを見ているのだろう。私には触らなければ分からないことを、ハンナさんは湯気の有無や器の縁の湿り、指先に当たる感覚で拾っている。


 魔法の検証がしたい。


 豆を数えている間にも開きかけていた魔法の棚が、また頭の奥で揺れた。この水を、少し冷やせるだろうか。火に近い桶の温度を、ほんの少し整えられるだろうか。自分の中の冷たい感覚を、指先に乗せられるだろうか。


 でも、ここで勝手にやったら完全にだめだ。


 火床のそばには鍋がある。豆がある。水がある。人の手がある。ハンナさんが順番を見ている場所へ、私が知らない冷たさを勝手に混ぜるのは、たぶん黒い点の豆を捨てるよりずっとまずい。


 なした、私の脳内検証班。


 今じゃないっしょ。


 私は袖をつまみ直した。


 今は見る。


 それから、聞く。


 必要だと言われてから、やっと触る。


 ハンナさんは豆袋の口紐に手をかけた。大きく開けず、袋の口を片手で狭める。木の器を近づけ、豆を少しだけ落とした。ぱらぱら、と乾いた音がする。倉の木皿より器が深いぶん、音が丸く響いた。シアが少し身を乗り出す。


「見るだけ」


 ハンナさんが言う。


「うん」


 シアはすぐに戻った。アーミヤは耳だけ動かした。乾いた豆には興味がなさそうだ。塩抜きの鶏端肉ならともかく、豆では動かないらしい。分かりやすい猫だ。


 いや、王冠猫だけど。


 ハンナさんは器の豆を水へ移した。


 その瞬間、音が消えた。


 袋の中でも、木皿の上でも、豆はずっと鳴っていた。乾いた粒が当たり、転がり、少し遅れて止まる音。けれど水に入ると、ぱらぱらという音はなくなり、水面が小さく揺れるだけだった。豆はいくつか沈み、いくつかが底で重なった。火の赤が水に映って、その上を薄く波が通る。


 火のそばへ来たのに、最初に静かになる。


 それ、ちょっこし不思議なんね。


「このまま少し置く」


 ハンナさんは、水を張った器を持ち上げた。火床へ近づけすぎず、でも冷えた場所へも置かない。通る人の邪魔にならず、シアの手が伸びにくく、アーミヤのしっぽも届かなさそうな場所を探す。器を置く前に、一度アーミヤのしっぽの動きを見たのが分かった。


 そこまで見るんだ。


 私は、思わずアーミヤのしっぽを見た。ふさふさのしっぽは本人の後ろでゆっくり動いている。たしかに、置く場所を間違えたら届きそうだ。アーミヤたんは悪気なく何かを倒す可能性がある。悪気がないのが一番厄介なやつ。


「アーミヤ、しっぽ注意」


 小声で言うと、アーミヤは耳だけ動かした。


 聞いている。


 絶対聞いている。


 でも動かす気はあまりなさそうだ。


 なしたの、その態度。


 聞こえてるなら、しっぽもちょっこし協力してほしいんだけど。


 ハンナさんが、息だけで小さく笑った。


「この子は、汁より肉だね」


「たぶん、そうです」


「あとで塩の入ってない端を少し出すよ。鍋のものはだめだ」


「ありがとうございます」


 アーミヤはその言葉を理解したのか、ただ匂いに反応したのか、目を細く開けた。


 今、絶対反応した。


 塩抜き鶏の予感だけで起きるの、どうなの。


 共同炉の空気が少しだけ緩んだ。けれど、ハンナさんの手は止まらない。水に沈めた豆の器を置き、上に薄い布をかける。豆袋の口を仮に閉じ、木札を上へ向ける。残りの豆袋を、他の袋と混ざらない位置へ移す。火から離れていて、水桶には近い。木札は見える向き。アーミヤのしっぽは届かない。


 それだけのことなのに、置くまでに見るものが多い。


 豆袋一つでも、置く場所がある。


 わや。


 この村、ほんとに置き場所が多いんね!


 でも、その置き場所のおかげで、誰かが後で迷わないのだろう。そう思いかけて、私はまた少し止めた。大きくまとめない。今見えているのは、ハンナさんが袋を火から少し離したこと。木札を上へ向けたこと。アーミヤのしっぽが届かない場所にしたこと。


 それだけで十分だ。


 マリナさんは、空になった籠の布を整えた。


「私は戻るよ。イルマが帳面を開けたまま待ってる」


「昼前にもう一度来る?」


「来る」


「なら、こっちは豆を水に入れておく。夕方、家へ持たせる前に鍋へ合わせる。芋の方はあとで出して」


「分かった」


 短いやり取りだった。けれど、その間に夕方の手前の段取りが少し決まったらしい。私は全部を追えていない。追えていないけれど、ハンナさんの火を見る目と、マリナさんの袋を見る目が、違うものを見ているのだけは分かる。


 ハンナさんは、火と鍋と水。


 マリナさんは、袋と札。


 イルマさんは、帳面。


 同じ豆袋を前にしているのに、目の置き場所が違う。


 アユミ、情報量が多いんだわ。


 いや、ほんと多いんね?


 豆袋一つでここまで分かれるの、普通に処理が追いつかないっしょ。


 私は借り靴の中で足を少し動かした。足布が指の付け根に当たり、ちょっこし、いずい。痛いほどではない。その感覚が、頭の中で広がりすぎた豆の話を足元へ戻してくれた。


 ハンナさんが、こちらを見た。


「足、痛む?」


「いえ。少し気になるくらいです」


「なら、そこに座って少し見ていきな。立ったままだと、見えるものも減るよ」


「座っていいんですか」


「邪魔にならない場所ならね」


 ハンナさんは共同炉の端にある低い木台を示した。シアが少し詰める。アーミヤは動かない。


 王冠猫、そこは譲らないんだ。


 その席、もう自分のものだと思ってるっしょや。


「ありがとうございます」


 私は木台へ浅く座った。


 座ると、見える高さが変わった。ハンナさんの手元が立っていた時より近い。火床の灰の中に赤く残ったところ、鍋の縁に細くついた湯気、水桶の蓋についた湿り、豆袋の口元で揺れる薄い木札。ばらばらに置かれているものを、ハンナさんの目だけが順番に拾っている。私はその目の動きそのものは追えないけれど、手が次にどこへ伸びるかで、少しだけ分かる。


 ハンナさんは水に沈めた豆の器をもう一度確かめ、布が水に触れないよう端を少しだけ折った。次に、豆袋の口紐を湿った台から離し、火床の方へ転がらないよう袋の下へ小さな木片を挟む。器や袋を置いた場所は、最初から決まっていたわけではないらしい。置いてからも、ハンナさんの手で少しずつ整えられていく。


 私は、自分の手を膝の上で押さえた。


 触りたい。


 分かりたい。


 でも、まだ触らない。


 いや、また大きく言いそうになった。今は、膝の上で手を止めているだけだ。


 ハンナさんは、次の鍋の蓋を少しずらした。湯気が細く上がる。豆とは違う匂い。根菜か、薄い出汁か、火の匂いに混じって温かいものが鼻に触れた。私は朝の木の器を思い出した。黒パン。豆の汁。霜香草の、鼻の奥が少ししゃっこくなる匂い。今水に沈んだ豆も、夕方にはどこかの鍋に入るのかもしれない。そう思っても、感動というほどではなかった。ただ、倉の台の上では札と帳面のそばにあった袋が、今は水桶と火床の間に置かれている。その距離の違いだけは、私にも見えた。


 マリナさんが籠を持ち直す。


「戻るよ、アユミ。足、見ながら」


「はい」


 私は木台から立った。座ったせいで、足元の布が少しずれた気がした。指を動かす。痛くはない。ちょっこし気になるくらい。


 ハンナさんは、水に沈めた豆の器へかけた布を指先で整え、その横に豆袋を置いた。木札が火の光を受けて、倉の中で見た時より少し明るく見える。中に残った豆はもう鳴らない。袋の口は仮に結ばれていて、紐の端だけが台の上で曲がっていた。


 その隣の籠には、泥を落としきっていない芋がいくつか転がっていた。


 水に沈んだ豆の器の向こうでは、伏せられた木皿と小鍋が静かに待っている。まだ誰の夕食にもなっていない。でも、ここからそれぞれの家へ戻っていくものなのだと、共同炉の端に並ぶ器を見れば少し分かる。


 豆は水の中で音を消し、芋はまだ土の匂いを残している。


 ハンナさんの目は、もう次の籠へ移っていた。

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