第6話 中編 残す豆、数える手 ④ 数を見たあと
第6話 中編 残す豆、数える手
① 畑から戻る札
② イルマの帳面
③ 豆の選別
④ 数を見たあと
【アユミ視点/異世界生活三日目・朝〜昼前】
④ 数を見たあと
次は、この数を見るらしい。
そう思った時点で、私の頭の中のどこかが、そっと後ろへ下がろうとした。
待って。
今、かなり大事な場面のはずだ。豆を出して、食べる方、種に残す方、まだ見せる方に分けた。その次に数を見る。流れは追えている。なのに、身体のどこかが「まだ続くんですか」と言い始めている。
豆は木皿の上に残っていた。
さっきより少ない。けれど、まだある。木皿の手前に寄せられた食べる方の豆。布の端に置かれた黒い点のある豆。小さな布袋に移された種候補の豆。豆袋の口は開いたままで、マリナさんの指が紐を軽く押さえている。
イルマさんは、帳面の行から指を離さなかった。
「食べる方、数えます」
「頼むよ」
マリナさんが答える。
イルマさんは、すぐに豆を数え始めるのではなく、まず帳面の端に置いていた小さな木片を一つ動かした。印のついた木片。たぶん、数え終わったものと、これから数えるものを分けるためのものだ。布の上で、こつ、と軽く鳴る。
次に、木皿の豆を一粒ずつ寄せる。
一、二、三。
声には出さない。指だけが動く。豆を皿の片側から、数え終えた側へ寄せるたび、ぱら、と小さな音がする。豆の音は可愛い。可愛いけれど、数える作業は可愛くない。ひたすら地味だ。
豆を一粒動かす。
帳面を見る。
もう一粒動かす。
皿の端を整える。
また帳面を見る。
うん。
地味。
なまら地味。
さっきから何度も思っているけれど、やっぱり地味だ。もう「地味」という単語にも飽きてきた。地味が地味を連れてきて、地味の集会を開いている。札、紐、袋、帳面、豆。地味五人衆。いや、五人衆って何。人数を数え始めたら、私もこの作業に呑まれている気がする。
イルマさんの指は、止まらない。
豆を寄せる。
帳面の行を押さえる。
短い印を入れる。
また豆へ戻る。
私は、目で追おうとした。最初は追えた。けれど、同じような動きが続くと、だんだん輪郭が溶けてくる。さっきまで「良い豆」の基準がひっくり返って、ちょっと目が離れなくなったはずなのに、数える段階へ入った途端、頭の奥がまた体育館の床に座り始めた。
校長先生の話。
あれだ。
意味があるのは分かる。大事な話なのだろうとも思う。だから私は、たぶん姿勢だけは崩さなかった。背筋を伸ばして、先生の方を見て、頭の中で言葉を棚へ入れようとしていた。
でも、周りは正直だった。
隣の子が足を少し組み替える音。後ろの男子が小さく息を吐く気配。誰かが天井の蛍光灯を見上げる目線。体育館の床に座る時間は、時計の針より長く伸びる。
あの時も、私は退屈していない顔をしながら、周囲の退屈そうな表情だけは妙に観察していたのかもしれない。
体育館で校長先生の話を聞いていると、時計の秒針が水飴に絡め取られたみたいに遅くなることがあった。甘いものが苦手な私には、そのねばつく遅さまで少し苦手だった。
今の豆の数も、それに少し似ている。
いや、豆に水飴は違う。甘納豆になってしまう。甘納豆は、ひぃばぁばや親戚の年長世代が好きで食べていたのを、私は遠巻きに見ていた側だった。甘い豆の良さは、いまいち分からなかった。
いや、今は本当にそういう話じゃない。
イルマさんの指は、その間にも豆を一粒動かしていた。ぱら、と鳴って、数え終えた側へ寄る。帳面の行へ、短い印が一つ増える。私の頭の中で甘納豆がどうこう言っている間にも、豆はちゃんと進んでいる。
それに、退屈だと思ってしまうこと自体に、少し後ろめたさもあった。
私はこの村で食べさせてもらっている。寝床も借りている。足の布まで直してもらっている。そんな私が、村の人たちが当たり前に続けている作業を「地味」だの「長い」だの思っている。
それは、だいぶまずい考え方だった。
作業台では、また一粒、豆が数え終えた側へ移った。小さな音がしただけなのに、その音で視線が木皿へ戻される。
しかも、頭の奥では別の棚が開きかけていた。
魔法。
氷。
あの身体の中を通る、まだ名前をつけられない感覚。
本当は、そっちも確かめたい。どこまで冷やせるのか。どうやって出るのか。何ができて、何ができないのか。考え始めると、その棚ばかりが勝手に開く。
けれど今、目の前にあるのは豆だ。札だ。帳面だ。
私は袖をつまみ直した。理性だけで戦っている、という言い方は大げさかもしれない。でも今の私は、かなりそれに近かった。
逃げるな。
今はこれを見るんだ。
自分で自分の首根っこを押さえている感じだった。
「ここまで、食べる方」
イルマさんが言った。
マリナさんは、数え終えた側へ寄せられた豆を見た。
「欠けは?」
「三つ。小さい割れが二つ。黒点は別」
「黒点は入れない」
「はい」
布の端の黒い点の豆は、木皿の数へ入らなかった。食べる方にも、種候補にも混ざらず、黒い点を上にしたまま残っている。
イルマさんは帳面に小さな印を入れた。長い文字ではない。線が一つ、短く増える。その線の意味は頭に入ってくる。けれど、イルマさんの代わりにその線を引けと言われたら、たぶん指は止まる。しかも、どの豆を数に入れて、どれを別にするのかは、まだ私の手には入っていない。
読めるだけでは足りない。
見るだけでも足りない。
数えるだけでも、たぶん足りない。
うわ、多い。
学ぶことが多い。
多すぎて、頭の中の棚がまた少し開きかけた。閉める。押さえる。今は全部を入れなくていい。豆がどこへ動いたかだけを見る。マリナさんの指。イルマさんの帳面。ニルスさんの目。そこだけ。
イルマさんは、帳面の少し前の行へ指を戻した。
「今年は、割れが少ないです」
マリナさんが、数え終えた側へ寄せられた豆を見る。
「去年のこの列は?」
「去年より少ないです。黒点も少なめです」
「五年分で見ると?」
五年分。
私は帳面を見た。
今、木皿の上にある豆は数十粒だけだ。けれど、イルマさんの指の下には、去年の豆、その前の年の豆、もっと前の豆まで並んでいるらしい。紙の端は少し毛羽立っていて、よく開かれる場所だけ色が薄くなっていた。帳面にも、手の癖が残るのだと思った。
イルマさんは、帳面の端を押さえたまま少し考えた。
「多い年よりは下です。少ない年よりは少し上です。でも、黒点が少ないので、交換に出す分は悪くないと思います」
「なら、あとで私も見る。種に回す分と、交換に回す分を混ぜない」
「はい」
交換に出す分。
そう言われて、豆の行き先がまた増えた。
今夜の鍋へ入る豆。
来年の畝へ戻るかもしれない豆。
黒い点があるから誰かに見せる豆。
それに、村の外へ出ていく豆。
割れが少ない。黒い点が少ない。去年よりまし。五年分で見ても悪くない。
現代の言葉に直せば、たぶん品質の記録とか、交換の時の材料になるのだろう。けれど、ここにあるのは表計算の画面ではなく、木皿と豆と、イルマさんの指だった。
凄くマメなことをしている。
豆だけに。
いや、今のは自分でもだいぶひどい。
でも、くだらないことでも考えないと、私の頭が帳面の行に吸い込まれそうだった。
マリナさんは、木皿の豆を指でならした。
「リンドフェルトの豆は、割れが少ないって言われるからね」
その言い方は、少しだけいつもと違った。誇るというほど大げさではない。けれど、ただの説明でもなかった。
マリナさんは、皿の端に残っていた小さな欠け豆を一粒、爪で横へ寄せた。
「袋を開けた時に、前と違うと思われたら次が細る。豆も信用も、割れたら戻すのが面倒だよ」
信用。
その言葉は、豆の音より少し重かった。
村の外の誰かが、この袋を開ける。割れが少ないか、黒点が少ないか、前に受け取った時と同じくらいかを見る。そして、また交換したいと思う。そういうものまで、この皿の上に乗っているらしい。
豆一粒ずつを数える手元は、なまら地味だ。
でも、袋を開けた誰かが「リンドフェルトの豆なら」と思うかどうかは、たぶんこういう場所で少しずつ決まる。
退屈であることは変わらない。
でも、皿の上では豆が一粒ずつ動いている。木札も、帳面の線も、そのたびに少しずつ増えていく。見ないふりをするには、音が近すぎた。
ニルスさんは、食べる方へ寄せられた豆の中から一粒だけ拾い上げた。
「これは食べる方でいい。割れてるけど、中は悪くなさそうだ」
「煮るならいけるね」
マリナさんが答える。
「ただ、種にはしない」
「ああ」
その一粒は、木皿の手前へ戻された。
種にはしない。
でも食べる。
捨てない。
もう、豆の進路相談どころか進路面談だ。しかも面談官が三人いる。マリナさん、イルマさん、ニルスさん。必要ならバルトさんも後で見る。豆一粒の将来、ずいぶん手厚い。
そう考えたら少し笑いそうになって、私は口元を押さえた。
マリナさんの指が、皿の豆をならしたまま止まった。
「飽きてきたかい」
ばれている。
またばれている。
「……少しだけ」
「少しで済んでるなら上出来だよ」
怒られなかった。
それどころか、マリナさんは豆を一粒横へ寄せながら、少しだけ息を抜いた。イルマさんも帳面の行から指を離さず、筆先だけを止める。ニルスさんは、木皿の端を整えながら小さく息を吐いた。
「俺も最初は飽きた」
「ニルスさんもですか」
「豆は全部同じに見えた。何度も間違えた」
意外だった。
ニルスさんは豆畑の人として、最初からこういう作業ができる人なのだと思っていた。けれど、そうではないらしい。豆畑の風を見ていた人も、最初は豆が全部同じに見えた。何度も間違えた。
「どんな間違いをしたんですか」
聞いてから、少しだけしまったと思った。
人の失敗を、興味本位で聞いたみたいになっていないだろうか。でも、ニルスさんは木皿の豆を見たまま、指先で一粒を端へ戻した。
「最初の頃、種に残す豆を食べる袋へ混ぜた」
「あっ」
それは、かなりまずそうだ。
私でも分かる。いや、分かると言っていいのか。さっきまでは良い豆が食べる方へ行くと思っていた私だ。偉そうな顔はできない。でも、今なら少しだけ分かる。種に残す豆を食べる袋へ混ぜたら、後でまた探すことになる。
「怒られました?」
「怒られた」
ニルスさんは素直に言った。
「母さんに」
「当然だね」
マリナさんは、小さな欠け豆を横へ寄せながら答えた。
イルマさんが帳面を見たまま、筆先を一度だけ止める。笑いをこらえているのか、作業に集中しているのか、ちょっと分からない。ニルスさんは、肩をすくめるでもなく、ただ木皿の端を整えた。
「その時は、食べる袋をもう一度開けて、全部見直した。時間がかかった」
「全部」
「全部」
うわ。
それはつらい。
今、私は少し見ているだけで頭の棚がきしんでいる。食べる袋をもう一度開けて、全部見直す。想像しただけで、豆がずらりと頭の中に並ぶ。体育館の校長先生どころではない。校長先生が袋いっぱいに増える。
いや、嫌な絵面すぎる。
ニルスさんは、続けた。
「でも、そのあと少し覚えた。間違えると、作業が戻る。畑も、袋も、帳面も」
作業が戻る。
その言い方は、すごく嫌だった。
進んだと思ったものが、戻る。袋を開け直す。豆を出し直す。帳面を見直す。誰かがもう一度同じ場所へ立つ。退屈な作業が、もう一回最初から来る。
それは、かなり現実的な恐怖だ。
マリナさんは、食べる方の豆を小さな皿へ移しながら言った。
「飽きるよ。これは飽きる作業だ。面白いふりをしても仕方ない」
きっぱり言った。
面白いふりをしても仕方ない。
その一言が、なんだか救いみたいに聞こえた。私が退屈に感じるのは、私の根性が足りないからだけではないらしい。作業そのものが地味で、飽きる。マリナさんがそう言うなら、たぶん本当にそうなのだ。
マリナさんは、皿に残った豆を指でならした。
「でも、飽きるところで混ぜると、あとで戻ることになる。食べる豆の中に種の分が混ざれば、もう一度皿へ出す。種の袋に割れた豆が入れば、畑へ戻す前にまた見る」
マリナさんは、食べる方の豆を小さな布袋へ少しずつ移した。乾いた豆が袋の底に当たって、ぱら、と鳴る。
「黒い点の豆を捨てれば、袋の中を見る手が一つ減る。退屈だから手を抜くと、退屈な作業が倍になるんだよ」
その言い方は、名言というより、実感だった。
飽きる作業をさぼると、同じような作業がもう一度来る。
それは、なまら嫌だ。
分かりやすい。怖いくらい分かりやすい。校長先生の話が終わったと思ったら、校長先生その二が出てくるようなものだ。いや、違うかもしれない。でも、精神的にはかなり近い。
私は木皿の豆を見た。
一度混ざれば、また袋を開ける。
もう一度皿へ出す。
もう一度数える。
退屈から逃げた先に、もっと退屈な皿が待っている。
それは、かなり現実的な脅しだった。しかもたぶん、脅しではなく事実だ。
イルマさんが、帳面にもう一つ印を入れる。
「食べる方、仮で受けました。黒点は別。種候補はバルトさん待ちです」
「よし」
マリナさんは、食べる方の豆を小さな布袋へ移した。
この袋は、種候補の袋とは違った。口が少し広く、布も少し柔らかい。何度も開け閉めされたせいか、口紐のあたりが少し白っぽくなっている。豆が入ると、袋の底が小さく膨らんだ。
イルマさんが、その袋につける札を一枚選んだ。
見るだけの札ではない。
種に残す札でもない。
食べる方へ回す札。
札の意味は頭に入る。けれど、今度は文字よりも、その札がどこへ結ばれるのかを見た。イルマさんは札を袋の口紐へすぐ通さず、まずマリナさんへ向ける。マリナさんが頷く。ニルスさんが木皿の残りを見る。そこで初めて、イルマさんの指が紐を通した。
薄い木札が、袋の口元で揺れた。
その音が、さっきまでより少し軽かった。
「これは、共同炉へ回すよ」
マリナさんが言った。
共同炉。
その言葉で、私は顔を上げた。
豆袋が一つ、作業台の右端へ置かれる。そこには、空の籠があった。さっきまで畑の札を受けていた籠とは別のものだ。中には布が一枚敷かれている。豆袋はその上へ置かれた。袋の口紐は、さっきまでと結び方が少し違う。ほどきやすいようにしてあるのかもしれない。
共同炉の方へ行けば、この豆はたぶん水に浸される。火にかけられ、灰を寄せた炉のそばで、ゆっくり柔らかくなる。朝に見た豆とは違う顔で、夕方の器に戻ってくるのかもしれない。
今はまだ乾いている。
木札のついた袋の中で、小さく沈んでいるだけだ。
けれど、そこから湯気を想像できた瞬間、さっきまで伸びていた時間が少しだけ縮んだ気がした。
共同炉の方から、かすかに火の匂いが流れてきた。
それとも、私がそう思っただけだろうか。倉の中は豆と布と木の匂いが強い。それでも「共同炉へ回す」と聞いた途端、朝に嗅いだ火の匂い、黒パンの皮、豆の汁、霜香草の細い香りが、頭の中へ少し戻ってきた。
さっきまで、帳面の数字として見られていた豆。
木皿の上で数えられていた豆。
それが、今度は共同炉へ行くらしい。
退屈だった。
なまら長かった。
けれど、袋の向こうに湯気が見えた気がして、私は袖をつまんでいた指の力を少しだけ抜いた。
マリナさんは、黒い点のある豆をもう一度見た。
「こっちは残す。バルトに見せるまで触らない」
「はい」
イルマさんが答える。
黒い点の豆は、布の端に一粒だけ残る。食べる袋には入らない。種の袋にも入らない。共同炉へ行く籠にも入らない。
まだ、どこへも行かない。
でも、どこへも行かないことにも意味があるらしい。
私は、その一粒と、共同炉へ向けられた豆袋を交互に見た。
共同炉へ向かう袋。
布の端で待つ黒い点の豆。
バルトさんが戻るまで閉じない種候補の袋。
同じ木皿から出たのに、もう同じ場所にはいない。
イルマさんの指が、帳面の次の行へ移った。紙の上で、短い音がした。マリナさんは共同炉へ回す袋の口をもう一度確かめ、ニルスさんは空になった小皿を台の端へ寄せた。
「昼前に、もう一度数を見るよ」
マリナさんが言った。
まだあるんかい。
心の中だけで言った。
でも、さっきよりは少しだけ耐えられる気がした。全部は分からない。たぶん、また途中で飽きる。豆の話が右から左へ流れそうになるかもしれない。
それでも、共同炉へ回す籠の中で、豆袋が小さく沈んでいるのは見えた。袋の口元で薄い木札が揺れ、そのたびに、乾いた豆が中でかすかに鳴る。
その音はまだ、湯気の音ではなかった。
でも、少しだけ、火の方を向いていた。




